前回のつづき。

 

 

チーム・・・

SAKIN(砂金)笑い泣き

 

その意味は、金などの錬金術が生みだす物質は、
出産の意味と同じで、タタラ思想には母神を崇拝する
南方の海の思想がありました。

 

なぜ、安曇氏系の海人族が金の産出に関わっていたのか?

凡海麁鎌(おおあまあらかい)という方。

 

この方では最初発見されなかった金が、
後、発見されます。

獲金人上総国人丈部大麻呂(砂金発見者)
・左京人朱牟須売・冶金人左京人戸浄山
の名があり、

これらの人たちが採金、冶金の指導者として中央からこの地へ入ってくる。
手柄をたてた人たちだ。

朱牟須売と人戸浄山は帰化人であり、

「朱」は丹生のことと思われる。
その須売という売=「メ」であることから女性であり、
この方は、砂金発見者、大麻呂の妻であったという。

興味深いことは、谷川健一より

「伊弉冉尊が軻遇突智を産むに際して女陰(ほと)を

焼かれて死んだとある叙述は、
たたら炉から溶解した金属を取り出す光景と、
鍛冶屋の母や妻が産婆の役割を担っていたこと。

鍛冶や冶金に長けた氏族が

壬生(養育係)として

選ばれる習いがあったという。」

それは、まるで朱牟須売のようだ。

そして、最初に涌谷にきていた

凡海麁鎌(おおあまあらかい)は、

養育者であったとされ、

それは、
 

大海人皇子(後の天武天皇)

の養育者に関わっていたという。

 

※きらきら天武天皇~指差し

大海人皇子と関わりが深い人たちが、
涌谷町の金に従事していた・・・!?

なるほどね~、

加護坊山が突如でてくる理由がわかります。

 



加護坊山(大崎市)の由来は、

天武天皇の御宇(680年頃)加護坊山が比叡山に似ている事から
東比叡と称し、加護坊山頂に国家安楽寺を創建したという。

 



「東比叡」
この総称は、天台宗と関係します。

西の比叡山に対して東の比叡山とした。

 

そう、これが金と関係している。

東京の江戸にもある!

 



東京都寛永寺の古刹は「東叡山」と称しています。
江戸城の結界はった人「天海」のお寺ですよ!


だから、東北の金を政治の力にしたいから、

丸子氏のような僧侶が協力できる。


古くから天台宗が行っていたことだから、
平泉、一関周辺に天台宗が多いのはそういう事です。

 


※栃木県壬生「慈覚大師誕生地」
 

奥州三十三観音霊場をたてた天台宗の円仁(慈覚大師)は、
栃木県壬生の出身。

 

 

 

紫雲!

 

「丹生族」というのがあり、職業にも関係すると思います。
壬生の地名も鉄が含まれている所で、

土師部、壬生部、丹治比部、埴生部は
丹生部民とも関連する部族とされます。

 

また、この壬生やタタラのことが

姥と結びつけられているのは、
南の島の文化にもつながっていました。

金属のように丈夫に育つようにとの呪詞を発っしたり(奄美大島)、
新生児を抱きかかえて火がもたらされたと伝わる竹富島を見せる
産育習俗があったり(八重山列島)、

全般に「カネ」や「カマ」、「カマド」といった金属や火に
関する名前をつける風習があること、といった点に着目している
という谷川健一説。


阿曇氏が各地の開墾や岩盤の開鑿伝承に現われることから、
同氏が海部の伴造という海洋氏族である。


安曇氏は、海部と伴っていたと。

その中に海部氏、物部氏がいたのでしょう。

 

これらの産金に関わった有力な豪族として物部氏であろう、
という地元の考察もあるのです。

確かに、中世の砂金取りの豪商、金売吉次は、物部氏説もある。
その金売吉次と同じ時期にいた平泉の藤原秀衡の家臣、
照井太郎高直(てるいたろうたかなお)が築城した城の名は「鹿」だった。

この時代から採金技術の末裔がいたから、
黄金のジパングとして知らしめる。

そして誕生する意味から、
丹生の壬生=丹生都姫と呼ばれるようになる。

 

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ところで、

 

浦島太郎のモデルとも言える「日下部」のことにちょっと触れてました。

獲金人として小田郡の人丸子連宮麻呂が私度僧を
許可されて法名を受けたことがありましたが、

さらに、山の神主小田郡日下部深淵の名があり、
位を授かっていました。

この丸子連というのが、奈良時代の東北進出のきっかけを作った
「道嶋宿禰」です。
元、丸子なのです。

丸子=道嶋氏。

道嶋氏の出身は、上総国(現千葉県)です。
官僚だった道嶋大盾は、伊治公砦麻呂(これはりのあざまろ)

により殺害されます。
→コレハリは多賀城を焼きはらった。


伊治の反乱には、道嶋が夷俘の出と侮っており、恨みを持ったことが
理由とありますが、小田郡の産金との関連もあるでしょう。

近くにある涌谷城は、
もともとは大崎氏の家臣の涌谷氏が所有していたが、
豊臣秀吉の天下統一に伴い木村氏を経た後、
伊達氏の家臣亘理氏の居城になる。→「涌谷伊達氏」

 


 

涌谷城※2022年10月

 



この亘理氏は、鎌倉御家人下総国千葉介常胤(ちばのすけつねたね)の三男、
武石三郎胤盛(たねもり)に始まるとの事。

平良文を遠祖とする家系。

妙見と金の関連もありますね。

 

※涌谷神社

 



秩父妙見もそうで、秩父市には丹生都姫が諏訪神と同様に
多く祀られています。

とゆーことで、丸子(大伴氏)の産金の指導者らは、
アザマロや荒蝦夷らには、何かがあって対立していたようです。

千葉県(常陸)からきた丸子氏や道嶋氏は、
牡鹿郡に多いことから、7世紀前半頃に牡鹿の地に
移住した新米集団であるとも言われますが、

丸子氏と同族であった大伴氏と、道嶋氏の丸子氏との
関連がどこまで同じなのかわかりません。

しかし、
大伴金村が、日本海(越国羽咋)にいた継体天皇を

(当時は乎富等大公王(おほどのおおきみ)
次期天皇にさせるために都へ呼んでいることが、

深い関わりがあったこと示しています。

だから、この古墳の名前の音を聞いた時に、何かを感じた。

追戸は「おふど」と呼ぶ場合もあったとか?

「追→オイorオオ」
という響きが同じであることが、
適当な話ではないと思ったので、ドーパミン放出したわけです。飛び出すハート

 

その多氏のオオは、朝鮮語で「タカ」と言うと聞いたことがある。

神八井耳命」の末裔とも言われる多氏。

とすれば、タカと呼ぶ「高倉下」が関係するのだろうか・・・

 

そゆことで、いろいろありますが、
産金の歴史は、ひとまず終わり。

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亘理町は、一緒に行ったAさんの出身地でもあり
幼少期に過ごした地でした。

ご先祖様がAさんに来てほしかったような気がしました。

 

 

Aさんと前に行っていた亘理の海。

 

 

海民の記憶

 

 

トンビは、何を知っている?

 

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最後に繋いでおきたい事があった。
そのためにあえて物部氏の名を記してきたというか、
そこに寄せて書いてきたこともありますが、

都市伝説&スピリチャルが中心なので
(ホツマツタエも)

限定記事にします。