えー、もう5月なの?オエー

 

で、どんどんつなげます。

 

最初に訪れたのが、横穴古墳でした。
3月末頃に行っていて、まだ寒かったですね~。

 

ここは一人で行ったんですけど、

一人では行かない方がいいですねー(普通行かないでしょうけど)

 



箟岳丘陵南側の崖に造られた大規模な横穴墓群です。
他にも古墳や遺跡はありますが、ここが一番よく見える古墳です。

 

※遺跡にはゴルフ場がつきもの・・・

ここの横穴古墳群がいろいろと教えてくれたことがありました。

 

なぜ、ここに来たのかは、最後に書くつもりで、

もう最後は都市伝説になりますけど、ウインク

最後の最後に繋ぎたい存在がいるからです。

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この古墳の文化財調査報告書がネットでも見られますが、
興味深いところを。

これらの話は呰麻呂(アザマロ)がなぜ多賀城を壊したかったのか?
少し見えてくる気がします。

以前、蝦夷は放火する習性があると書いてましたが、


黄金山神社に仏堂があったそうで、このお堂は、
アザマロの反乱軍が南下して多賀城へ向かう途中に採金施設とともに
焼き払ったのではないか?

という話がありました。→放火は蝦夷の常用手段。

多賀城より前に、のの岳周辺には、強いタタラの民がいました。
牧山に蝦夷がいた=悪路王伝説、蝦夷の夫婦、魔鬼女、
坂上田村麻呂のハイヌベレ伝説が生み出されるわけです。

 



金採掘の氏族が海人族だったかもしれないこと。


朝廷側にいて指示監督をしてきたのが、
大伴氏、丸子氏、佐伯氏、百済の帰化人など。

 

当時の陸奥国守として名がある「百済王敬福(くだらのこにしききょうふく)」

について、

 

「陸奥守である敬福が、
上総国の採金技術者であった丈部大 麻呂を抜擢したように、
朝廷に代わって必要な技術者をみつけ、
都・東国から派遣されて きた技術者を適切な分野に配置するなど
、産金事業に参加させたとみられる。

加えて、彼らのすべてが百済系ではない。
したがって、これらの関係は、
百済王族の子孫と百済系渡 来人という関係より、
産金事業によって形成された関係と考えるべきだろう。」

※交野ヶ原 日本遺産 BLOGより

 

 

金を発見したことで、大阪交野ヶ原 に領土を得たと。

そこは七夕発祥地。

 

当時の敬福の年齢は41歳とされ、当時としては高齢だったので、

あまり目立たない役人だったとも。


ということで、名だたる氏族の名をみる限り、
陸奥国の太平洋側(ルーツは瀬戸内海経由)であったこと。
安曇氏との繋がり、やはり和邇氏(和珥)であった。
小野姓が多いこともうなづける。

珥=「王の耳」とは誰のことをさすのか?
後で妄想しておきます。

 



古墳名の「追戸=おいど」が「おお」の音とよく似ている。
大、多氏となれば、おいど=おうど・・・意富という人。
意富富杼王(おおほどのおおきみ)=継体天皇
というのは、実際どうかわかりませんが、
装飾古墳であることはわかっているので茨城県(関東経由)
の多氏の関連はあると思います。

 

■追戸横穴古墳群の遺物
 

まず、この古墳の話をしないと、次へ進めないので、
記録しておきます。


 

大規模な横穴墓群と言われるだけあって、
小塚地区にある追戸・中野横穴墓群で、100基を超える横穴墓が確認されています。

「最北の横穴墳墓」とされ、赤い顔料(ベンガラ)で

彩色されていたことがわかっています。

 

 


横穴といえば、以前から書いてます熊本県多氏の横穴のことがありました。
形状は似ていると思いますので、
海側の常陸国から相馬、宮城県北部と移動してきた民を想像しますね。

壁や天井も格子状の縦の赤い線が描かれている横穴であり、

ノミで掘った跡がたくさん残っています。
「装飾古墳」とも言われ、この小塚地区が日本の北限域となっているのです。

 

1号墳のみ、トンボ玉と大きな翡翠・水晶製の勾玉が見つかっています。

 

※追戸・中野横穴群(涌谷町文化財調査報告書)


勾玉は、大きさが4.5センチでかなり大きい。
全国でみつかる勾玉の中でも、大きい方だそうです。

 




また、トンボ玉は偶然真2つに割れて中を見ることができ、
水色のガラスの球体を中心に放射状に加工されたものでした。

 

トンボ玉

こんな技術をもっている感覚は、西洋の方ですかね~。
ギリシャ、ローマあたりのガラス技術。

このような貴重な遺物から興味深いのは、
大型の勾玉と切子で、周辺の横穴墳墓で発掘される遺物は小さく、
粗悪なものが多いという。
追戸横穴で見つかった遺物は、大型でよいものだった。


これらは、関西、関東で見つかるものと類似しており、
6世紀にさかのぼるものとされ、

現地で作られたというよりは、関西か関東から伝わってきた勾玉だったかもしれず。
とんぼ玉も。

石室の状況は、

「福島県、宮城県にある座棺(ざかん)

設定とは異なる「独特な」座棺を有する。
それは決して見劣りはしないこと」

と、ありました。

 

※2号墓

 

 



座棺とは、膝を折って座った姿勢で埋葬する方法です。
どうも、大事に埋葬されたようです。

また、金がとれた所なので、フイゴや鉄滓も発見されており、
須恵器や土師器もあることから12世紀頃まで存続されていました。

横穴墳墓は、時代を得て埋葬されることもあるため、
江戸時代頃の遺骨もあったりします。
そのように使われる場合があったのです。

 


では、これだけの遺品を残せる被葬者とは?

・・・道嶋氏や丸子の存在(東松島にある古墳群から)

 

遠田君の協力がなければ、丸子氏はここで働けることはなかったと。

(まあ、はっきりと被葬者はわかりませんね)

調査報告によれば、「中央と密室な関係をもった人物」と考えられ、
~7世紀頃であると、古代の律令制度では、陸奥国小田郡だった頃。

金がとれた時は「小田郡」
『続日本記』には、

「陸奥国守従五位上百済王敬福伊部内小田郡仁黄金田在奏互献」

この頃の小田郡であったわけで、
須恵器などの窯をつくる跡も見つかっており、工人を連れて須恵器だけの
生産を行っていたようなのです。

 



このあたり一帯には半地下式のあな窯の構造がみつかる→長根窯跡群
貝塚のあたりと思います。

この須恵器生産について、7世紀後半にさかのぼるとされ、
のの岳周辺にはそれだけの生産力と技術者が多くいたことに。

それは、多賀城の瓦をつくるために集められた技術者とは異なる
方法なんだとか。(地下式)
※半地下式と地下式は違うと。

中央と深い関わりがあったからこそ、須恵器(まだ生活には使われていなかった)
頃にも多く生産できたことは、関西、関東を経由して東北に伝播していることに、


特に涌谷町で。

 



それは金が産出されてから、奈良では小田郡が都にとって重要な地となったからこそ、
それにふさわいしい氏族がいたと思うのですが、

その氏族として近い人たちは、

やはり、海を知る人たちであるが、

被葬者との関連は、わからない。

その海の人とは、
安曇氏の同族の名!

701年『続日本記』より、
「遣追大掾凡海宿弥麁鎌干陸奥 冶金」とあり、
この頃から、炭鉱の技術者が入ってきた。

凡海 麁鎌(おおあま の あらかま)という人の名。

凡海(大海のこと)で、この頃から金を見つけるために
陸奥へ派遣されていたことがわかり、
この方の同族が、安曇氏とわかった。


南方の人の特徴、入れ墨。

 

しかし、凡海は、陸奥へ遣わされても金の発見に至らず、
後の749年に金が発見されることに。

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妄想ですけど、この事から

アザマロの呰は「身体的な特徴に由来する」というが、
痣ではなく入れ墨では・・・?

先住民は他の民族と違うから、という理由なのか、

名簿に身体的特徴を記録していたという。


では、大仏建立のために従事してきた人たちに、

なぜ、海民が大きく関わっているのか?

 

安曇氏系が最初にきていたが、その後、金が発見される。

発見した人たちをもう少し深堀します。


相変わらず長くなるので次に。