再びまた唐桑半島の御崎へいくことになるとは。
行けたらいいな、くらいで思っていたけれど、
今回は、鯨にいろいろ教えてもらった気がする。

2月に書いていた唐桑半島のこと。

7年前にいった御崎神社のことをまとめていた。

 

 

その鯨とは紀州の熊野。

長年、東北の熊野信仰を調べていたけれど、
こんなに深いものだと思わず。
それでもまだ見えないことがいっぱいある。

でも、今回は少し光がみえてきた。
やっと会えた九州の豪族たち。

こんなに遠くまで、山間部は雪が多いうえに
風も強い太平洋の海に、
どんな思いで故郷を偲びながら帆をあげて
進んできたのだろう。。。

 



彼らが好戦的な民だったとは思えない。
そこに留まることができなかったから、
どんどん北上して逃れていった。

 

釜石の尾崎神社へ

 

 

まず、先に釜石の尾崎神社から。

この神社へ来たことで、唐桑半島の御崎神社
のことがよくわかったのです。

釜石の尾崎神社は、本宮、奥宮、奥の院、里宮と4社
祀られています。

 

 



里宮だけ参拝してきました。

ご祭神は、ヤマトタケルと源頼基です。

源頼基は、前回の閉伊氏(へいし)にことで書いてましたが、
閉伊氏の祖です。
後に閉伊頼基と改めます。

当社縁起によると、日本武尊が東征の折の足跡の最北端であり、
最終地点が尾崎半島であり、
その足跡の標として半島の中程に剣を建ておかれたものを
土地の人々が敬い祀った事が当社の起こりであり、
祭神は日本武尊であるとされる。


ということで、ヤマトタケルの終焉地と言われる。
なので、唐桑半島の御崎神社は日高見神社となっているのだと思います。

唐桑の方の御崎も「おざき」です。

 

 

↑唐桑半島は大島のちょっと北。

三陸復興国立公園とある端のところ。

 

宝剣の写真があったのでリンクしておきます。

 

奥の院の剣(右側のさびている剣)



 

稲荷神社があり。

 

 

ぎりぎりの所で建ってますね~。

 


 

宝剣(奥の院)→青出浜(奥宮)→尾崎白浜(本宮)
釜石が里宮で釜石製鉄所山神社も合祀されています。

 

 

 

ガラス戸・・・夢でみた神社はガラス戸だったなぁ

 

 

ワタツミです。

 

 

尾崎半島にある本宮から船で浜町にある里宮に
神体を奉遷する「曳き船まつり」が行われ、
召船を中心に、虎舞や神楽を乗せた船が大漁旗をなびかせて
釜石港内をパレードするそうです。

賑やかなお祭ですね。

 

 



さて、「尾」の崎という神社名ですが、


唐桑半島の御崎神社について神社庁より
古い文献に「竜蛇の尾の如く」と記されているため、
「尾崎の社号をもつ」とあります。

御崎神社は、計仙麻大島神と尾崎神と同座である
ことから、御崎の「おざき」は尾崎と同じ位の神となる。


つまり、おざきと呼ばすのは尾崎のことだった。

そして御崎は、宮崎県日向の外浦(南郷町)の御崎神社
を勧請しているとあった。
なぜ宮崎?と思ったが。

宮崎県南郷町の御崎神社は日之御崎神社のことです。

 



なぜ、ここで九州の宮崎県が登場するのかは、
オオワタツミ(大綿津見)と「スサノオ」があり、
明治時代にヤマトタケルを合祀している。

ということは、東北によくあるヤマトタケルに日高見。
そして九州といえば・・・蝦夷と、

熊襲!
クマソです。


そう、ここはヤマトタケルの終焉地ではなく、
熊襲の終焉地だった!

(東北に翻訳すると)

計仙麻のケセマ=大綿津見神
配祀されている日之崎神社=スサノオ
合祀された日高見神社=ヤマトタケル


が、唐桑半島に置かれている。
それが竜の尾だった。

竜の頭は、宮崎の日之崎神社のことになるのだろう。

尾崎は、竜の尾だから剣を突き刺して動けなくした
ということだと思う。ナルホド。

 

 

なぜパンダ?

 

 

竹!

笹もあればなおよし。

 

 

 

熊襲の長を退治したヤマトタケル

 

元は大綿津見神です。
海洋民族の崇拝がある地。

唐桑の御崎の由縁より宮崎にある日之崎神社と
関連がある理由には、熊襲のことがありました。
ヤマトタケルが熊襲の長を退治したと。

宮崎県南郷町日之御崎神社の由縁では、
村上天皇の頃、外浦に十八戸の人々を移住させ、
行膝大権現、玉依姫の二柱を勧請した。


行膝大権現とは「むかばき」とよみ、
熊野三所権現で12世紀頃の勧請とみられている。


唐桑半島に上陸した紀州の熊野があるので、
関連があるのですが、
熊野と熊襲、同じ熊だけど共通点があるのだろうか?
ここはよくわからない。

聞いたことがない「むかばき」の意味は、
「向脛」とも書き、動物の毛皮を腰から脚にかけて
覆うものと似ているため、行膝と言われたと。

先住民の姿から行膝になったと思われます。

そしてこの行膝神社というのが宮崎県にあり、
そこは、熊襲がいた所だったのです。

宮崎県延岡市行膝神社。
熊襲征伐のため、日向に来たヤマトタケルが、
駕籠を舞野の里に停めて、この山をご覧になり、
形が似ているので、「むかばき」の名をつけ、
滝の名を、「矢筈の滝」と命名したと伝わる。


御歌の「布引の矢筈の滝を射てみれば、川上タケル落ちて流るる」は、
今も神楽で歌われる。

白瀬永年の「延陵世鑑」には、矢筈の滝を

「布引の滝と唱えるがよい」と言われたと伝わる。

熊襲の首長「川上梟帥(かわかみたける)」

この話は日本書紀「景行天皇」のヤマトタケルにある。
ヤマトタケルが女装したあの話。
大陸ではよくあるやり方。

第十二代景行天皇は熊襲(くまそ)の反乱を平定するため、
自ら九州へ赴き転戦しました。

しかし、数年後、再び熊襲が反乱を起こしたため、
息子である十六歳の小碓尊(おうすのみこと)を西国に
派遣することにしました。

熊襲国(くまそのくに)に着いた小碓尊は、
童女の姿に変装し、熊襲の首長の川上梟帥(かわかみたける)の
酒宴に紛れ込むことに成功。酔いがまわったところで、
川上梟帥の胸を刺しました。

川上梟帥はまだ息が絶えないうちに
「私はあなたのような強いお方にはお会いしたことはありません。
これより、皇子を日本武尊(やまとたけるのみこと)と名付け
、称えましょう。」
と言いました。

 



これが日本武尊の名前の由来です。
無事に熊襲の反乱を平定した日本武尊は天皇に報告し、
天皇はその功績を褒めたたえ、日本武尊を非常に愛したといいます。」


その熊襲の末裔が、東北へ逃れてきたのか・・・熊野と一緒に?

 

しかし、ヤマトタケルは川上たけるから取ったというのは、

敗者の名を用いるほど、熊襲の長は有力な人だったのか?

岩手、秋田には九州の菊池氏がきています。
秋田出身の菊池姓をもっている友人から聞いたのは、
菊池氏が崇拝している女神は、阿蘇津姫で瀬織津姫だったと。

ということは、
唐桑半島に熊野の滝神をもってきたという話のルーツは、
九州の阿蘇津姫かもしれない。
東北では瀬織津姫として祀られた。

九州の阿蘇津姫が、
東北の瀬織津姫と繋がっているところがまた素晴らしい。

ちなみに、鮪立にある瀬織津姫の話は、

唐桑半島にきた湯浅氏の母が
瀬織津姫を崇拝していた為、祀ったようです。

 

 

九州の閉伊族は出雲?

 

ということを考えますと、閉伊氏はもしかしたら
出雲なのかもしれない。

尾崎神社に祀られている源頼基が後に閉伊の名。
父の「鎮西八郎源為朝」のことがある。

この方の三男が尾崎神社にいる源頼基で
父がその為朝です。

父の源為朝は、九州を平定したのです。
それは、先祖をたどって?

閉伊頼基の墓は、岩手県山田町にあり
荒神神社にあるという。


荒神というからに、匂いますけど。

出雲はクナ国であると聞いた。
クナとは、狗奴国のこと。

これが、九州に関わる。

『魏志倭人伝』に記される狗奴国の位置は、
熊野、球磨国(熊本県)、出雲、美濃説があります。

「~南に狗奴国あり、男子を王となす。
その宮に狗古智卑狗、女王に属せず」


と書かれており、狗古智卑狗を「かくちひこ」
と読むようで、これが菊池ではないか、と。
別説ですと河内。

その熊襲襲来があったから四道将軍が置かれた。
なので、大彦命とも繋がる。
おそらく、大彦=多氏=大野東人が同族と思われるため、
大野東人が室根山(唐桑から)に熊野大神を勧請したのは、
征服というのではなく、九州からきた先祖のことを考えていると思う。

火の阿蘇津姫、
水の瀬織津姫、
火と水。


東北は火山帯が多いうえ、津波の被害も度々受けてきた。
自然環境があまりにも畿内地方とは違う。

で、狗奴国の位置が南九州説だと熊襲
畿内説だと河内の近く熊野ということも考えられますね。

ヤマトタケルが追っていたのは、熊襲であり東北の蝦夷であり、
それは出雲でもあった。

 



尾崎神社にあった源頼基と重臣の殉死。
昔は一般的だったので不思議ではないのですが、
ここにも大きな剣がありました。

 



鎌倉武士。

九州と縁が深い人たちだったと思います。

 

 

閉じたり開いたりする人

 

最後に余談ですが、帰ってきてすぐに山田町のことを
ムムさんが記事に書いていました。
あまりにも数々のことがシンクロしていたので不思議でした。

 

 


「すずめの戸締り」の映画をそういえば、見たな~と思いだし、


舞台というかモデルが宮崎県日南市、
岩手県の山田町、かぶってん。

でも、ここでは歴史だな、と思って調べていたら、
クマソに繋がったわけです。

ただ、思うことは、
そこに住む人たちがそこにいてくれて、
土地土地の歴史や神様を案じてくれている事は、

よかったと思います。
 

気づいてくれるから、助かることもあるのです。

 

大きな争いを何度も受け、

何度も逃れて果てなき北を目指したここが、

終焉地だった。

 

ずいぶん、私も遠くに来たなぁ~。絶望

 

坂上田村麻呂、

ヤマトタケル、

スサノオも?

 

終わった所ではない、

「出会った」ことだよ。

 

日本海から南下した者と

太平洋から北上した者が、

 

兄と弟、

姉と妹

 

 



ああ、今年は辰年だったな。

龍の頭は、九州
胴は、武蔵
尾は、東北


このような話を繋いでくれたのが、
鯨でした。

最後に、鯨の石碑が見られて感無量。

フィナーレへ。

 

熊襲鎮魂のために踊りをリンクしておきます。
 

『民俗芸能 熊襲踊(くまそおどり 庄内町)』宮崎県都城市

 

 

抑圧された者たちを理解するために、歴史は記録された。

それを鎮魂する踊りがある。

 

このことを世界に伝えるべき日本の歴史は、

海の補陀落へ消えていった。

東の端まで追いやった者たちよ。

 

 

次、鯨の御崎へGO!イルカ