蜂子皇子へつぐ

 

忘れられない震災のあの日。
2週間後、やっと実家に帰ることができ、
姉が山形まで迎えにきてくれて山形空港から羽田まで帰った。

全国から集まった自衛隊の中で飛行機を待った。
唯一、山形だけがあの時、道を繋いでくれた。

あれから13年。
再び仙台に戻り、
今もこうしてブログを書いていることは、奇跡です。


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※震災の16年前から巨大津波の予測、研究をされていた方の本をご紹介。
震災後に話題になった本で、この本でアウターライズを知りました。
日高見国のこともいろいろ書かれている興味深い本でもあり。

 



『解き明かされる日本最古の歴史津波』飯沼勇義著
 

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蜂子皇子と共に出羽の山へ誘う。

今度は、羽黒です。

 



2014年7月
140年ぶりという蜂子皇子のご開帳にいったことがありました。

 



宮城県側と山形県側はいつも天気が逆ですね。


宮城が雨だと山形は晴れです。
そんな広い東北地方の日本海側へ向かう出羽三山。
最上川沿いに47号線を走り峠を越えながらの羽黒山巡りでした。

 



ご開扉は、140年ぶりとの事で
今年がもしかしたら最後かもしれないという話でした。
(その後もご開扉があったと思います)

廃仏毀釈で明治時代以降は扉を閉じていたらしい。

 



蜂子皇子(はちのこのおうじ、波知乃子王、

562年舒明天皇13年10月20日(641年11月28日))
飛鳥時代の皇族。
崇峻天皇の第三皇子。


一般的には「はちこ」と読まれているが正しくは「はちのこ」

蜂は、鉢とも言われ、
すり鉢のように製鉄民が使用していた用語をさす。

 

羽黒山の山名は、皇子を導いた大烏に因んで名付けられたといわれ、

現在の世を生きる人々を救う仏を祀り、

出羽三山の中で里宮としての役割を持つことから「

現在の世を表す山」といわれる。

蜂子皇子は、欽明天皇23年(562年)に崇峻天皇の第三皇子として誕生したと伝わる。

 



崇峻天皇5年(592年)11月3日に、蜂子皇子の父である崇峻天皇が
蘇我馬子により暗殺されたため、
馬子から逃れるべく蜂子皇子は聖徳太子によって匿われ宮中を脱出して
丹後国由良(現在の京都府宮津市由良)から海を船で北へと向った。

 

※京都の由良(若狭湾)


そして、現在の山形県鶴岡市由良にたどり着いた時、
八乙女浦にある舞台岩と呼ばれる岩の上で、
八人の乙女が笛の音に合わせて神楽を舞っているのを見て、
皇子はその美しさにひかれて、近くの海岸に上陸した。

 

 



能除仙(のうじょせん)や能除大師、能除太子ともいわれ、
出羽三山神社にある皇子の墓(東北地方で唯一の皇族の墓)は、
現在も宮内庁によって管理されている。

 

 

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蜂子皇子の拝観では、中のお堂に入ることができ、
ラッキーにも前列の真正面に座ることができました。

 



図でよくみられる蜂子皇子は怖い動物のような御顔をしておりますが、
白く仙人のような目力は強いですが、優しい感じがしました。
百合の香りがとっても気持ちよく、清々しい!

 



蜂子皇子の動物のような御顔に描かれてるのは、修行の苦悩の現れだとされる。

しかし、ご開帳で拝見した蜂子皇子は、
その苦悩がとれて全てを得た人の顔になっているお姿。


もう10年前だとぼんやりとしか覚えてないけど…
まっしろしろすけで、優しい雰囲気でした。照れ

だから、能除太子(のじょうたいし)とも言う。

 

 

境内に咲いていたアジサイ

しかし~、
出羽三山が単純に天皇をかくまるだけで、こんな広大な聖地をつくるものー?

 

 

羽黒山について

 

過去記事のまとめより。


暗殺された崇俊天皇は、霊知り(聖=ひしり)
のような人だったのだろうか?

何かあって排除されてしまい、
息子が後を継ぐような形で出羽三山で霊知りになるための修行を行ってきた
ような伝説がありますが、よくわかっていないので興味をもつ人は多い。

崇俊天皇がいた所は「桜井市」でいろいろ気になる。
談山神社は、藤原鎌足を祀る神社(多武峯)

 

※小学館『蘇我・物部:戦乱の日本史』より

 

 



随神門を通り杉林を下りていくと、
磐裂神社、根裂神社、天神社、五十猛神社、豊玉姫神社、
大年神社のお社を抜けて、祓川の橋をわたる。

スサノオに関わる神社が多いうえに、磐裂神社、根裂神社の
栃木県の天目一箇神の縁がある神社なので、出雲系産鉄族の守り神の様子。

 



そこを通ることで、自然に禊を行えるような流れになっている。

 



岩戸分神社と祓川神社の間には滝が流れ、
この滝の源流は月山から流れ出る滝だという。

祓川神社のお社の裏はガラスになっているので覗いてみると
白い滝が流れ落ちるのが見えるようになっている。

滝を祀ることを意識して敢えてガラスにしていると思われ、
とても神秘的で芸術的。
祈願するのは、滝。

 



すがすがしい気持ちになったところで、五重塔へ向かう。

 



五重塔(国宝)は、東北地方最古といわれ、
平安時代903年~940年に平将門が創建したと伝わる。

 



五重塔も「イエアオウ」のコトタマの原理。

ここから杉の道を山頂まで登りますが片道1時間くらい、
まだ登ったことはない。

暑いから嫌だー、という根性がないので、
車で山頂まで行きましたけど・・・。

 

點終

 

 

三神合神社

 

先に蜂子皇子ご開帳へ行き、その後三神合神社へ。

羽黒山、月山、湯殿山の三神をあわせて祀る三神合祭殿。

 

 

 

「現在の社殿は江戸時代の文政元年(1818)の再建ですが、

山伏が滞在する長床(ながとこ)など中世にさかのぼる構造を

残した貴重な茅葺木造建築物です。」

 



この時は、ご開帳だったので参拝客が多く、
羽黒霊祭殿から最後に神輿舎を巡って戻る流れになっていた。

 

御手洗池には600面の鏡が沈んでいた。

 



一年中水位が変わらないといわれる池に、
意図的に沈められた鏡は羽黒鏡とよばれる。

 

 

わさわさで水面がみえない・・・

出雲地方でも大量の銅鐸や銅剣などが地中に埋めらていたが。

三体の像が気になりちょっと拝見。
聖徳太子みたいな人の隣にマリア様のような西洋人的な。
この3体が忠実に再現されていると思われ、聖徳太子が鍵。

(写真なかった)

 

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さて、蜂子皇子を導いたヤタガラスとは何か?

 

 


神輿舎にある「建角身神社」。
名取老女はわらじだけど、ここは下駄。

 



看板の説明より、

「万物の生まれ出る力を表している。
神産巣日神の御孫にあたり、天津神であります。

神武天皇が紀伊熊野より大和に入らんとした時、
ヤタガラスに化して天皇を導いたとされる。

又、タケツヌミをヤタガラスと称したのは日神信仰と関わりがあり、
道とは日神の道であり道中安全守護の神として、

現在でも履物を奉ずる習慣がある。」

「角」とつく名前の人では、役小角がいます。

賀茂建角身命と「賀茂」家は代々、
陰陽師をしてきた一族で役小角もその血統だったという。

伝説では、蜂子皇子が亡くなる時、
「50年後に役という人がやってくる」
と役小角の予言があって亡くなったとも伝わる。

吉野修験が天皇家(南朝)をかくまってきた歴史があるため、
蜂子皇子も天皇家に値する人物だった。

後から吉野派がやってきているので、南朝に成りうる遠祖?
とみられた皇子だったと思う。
だから、宮内庁は蜂子皇子を認めている。

その役小角の後に、今度は出羽へ空海がやってくる伝説も。

出羽に豊玉姫があるのは、
記紀では、神武天皇はウガヤフキアエズの子であるカムヤマイワレビコの事。

 



そのウガヤフキアエズの母が豊玉姫。
またその親に当たるのが、ニニギとされる。

ただ、確かなことがわからないのでスル―しますが、
羽黒山山頂の印象としては、龍と天女が強い、と思う。
 


 

神武天皇は、背が高く3mくらいあったといわれます。
神話にあるように、「龍族」という話。
 
白い姿とすれば、伯龍なんだな。

月山がみえた!

 



過去記事をもう少しまとめながら、
もっと深掘りしていきます。

 



次は、蜂子皇子は「黒」を頼っていた話を。

つづく

 

八乙女伝説についてはこちらを。

白山神社へお参りしています。