ゆらゆら~の由良へ。
蜂子皇子を導いた八乙女像がみたくて行ってみたら、
意外にも小さかった・・・

 



しかーし、
マスクしてるーーっ!

 


ヤオトメマスク!!
(アベノマスクみたいに言う)

 



はい、終了~。
はちこさんが飛んでいった。絶望


蜂子皇子の「は」の字も感じないほど、
現実の重みの方が勝っていた・・・。

 

まあ、コロナなご時世。
どうにもならんわ。

 



思えば、蜂子皇子の最初の上陸地が、
私にとっては最後になりました。

 



それにこの日は、海の日だったので海水浴をしている人がたくさんいました。

普通の日常になってるね~。

 



しょんぼ~り、白山島へいく・・・。
まず、蜂子皇子の伝承をのせておきます。

 



■八乙女伝説---------------------

「蜂子皇子(はちのこおうじ)は、飛鳥時代の崇峻(すしゅん)天皇の子であった。
羽黒山に残されているのは、人々の苦しみや悩みを引き受けた姿だという。

当時、仏教受け入れを巡って賛成派の蘇我氏と反対派の物部氏が対立し、
内乱が起こった。

蘇我馬子は、崇峻天皇を即位させ、物部氏を倒して実権を握った。
しかし、崇峻天皇は自ら国を治めようとしたため、蘇我馬子に暗殺されてしまう。

 



蜂子皇子は、従兄の聖徳太子らの助けで追っ手を避け、都から逃れた。
京都(丹後)の由良の港から北を目指し
途中、福井や新潟、佐渡に立ち寄りながら、
五九三年の春、庄内に辿り着いた。


庄内の由良の名は、蜂子皇子が出航した京都の港、
由良にちなんでつけられたとも言われている。


八乙女浦(やおとめうら)の絶景に蜂子皇子がただただ心を奪われていると、
美しい鈴の音と清らかな歌声が流れてきた。

その声に導かれるように舟を進めていくと大きな洞窟があり、
その入り口近くの平らな岩の上で八人の乙女たちが舞っていた。

ところが蜂子皇子の船に気がつくと乙女たちは姿を隠してしまった。
蜂子皇子は不思議に思い、船を寄せようとしたが、
波しぶきが激しく散り、船は思うように進まない。

その時、二人の乙女、恵姫(えひめ)と美凰(みおう)が岩の上に姿を見せ、
手招きして岩を避け、船の進む道を教えた。

 



やがて他の乙女たちも不安そうに顔をのぞかせた。
蜂子皇子が天皇家の者で、人々を苦しみから救うため、
出羽の聖なる山を目指していることを伝えると、乙女たちは顔を見合わせた。

八乙女の恵姫が八乙女浦は、山の神様が生まれた所で、
荒倉山(あらくらやま)を越え、東へ向かえば、聖なる山に着くと教えた

蜂子皇子は、八乙女に導かれて上陸した洞窟「権現穴(ごんげんあな)」
籠って修行を重ねた。

乙女たちは修行の邪魔になることを恐れ、
声をかけることも姿を見せることもなかった。

乙女たちなのか、由良の里の者たちなのか、時々食べ物のかごが置かれていた。


タイ・アジ・カレイなどの魚、サザエ・アワビなどの貝、
アオサなどの海藻…豊富な海の幸、由良の豊かな恵みを蜂子皇子は
感謝していただいた。

 



時には、さわやかな潮風に誘われて、権現穴から出て、
由良の砂浜をそぞろ歩いた。
白山島へ足を延ばすこともあった。」


この後は、玉川寺にいく話しになっています。

八乙女伝説より
http://yaotome.in.net/legend/

■白山神社(菊理姫)-------------------------

 



火山性噴火によってできたといわれ、高さ70m、周囲436mの小島。

 

 

 

イザナギ・イザナミも。

 

 

こちらは、拝殿。

 

 

本殿は島の上にあります。

急な階段がきつかった~。

 

みんなサクサク登って行くのよね。

 

 

 

上についたら、みんなぐったり。笑

 



■あこや姫と小手姫(蜂子皇子の母)-----------------------

八乙女は、8人の乙女がいると思っていたら、
そうではなく、姉と妹だそうです。

蜂子皇子の母は、福島県の川俣に養蚕を伝えた小手姫と伝わる。


蜂子皇子と錦代皇女と2人の子がいます。
崇俊天皇には「女御(にょうご)」という天皇の
「寝所に侍す女官」にあたる河上娘(かわかみのいらつめ)

=蘇我馬子の娘。が、いました。

崇俊天皇は暗殺されたと言われますが、河上娘の策略
(天皇を殺害した東漢氏と恋仲だった為)とか、
小手姫の嫉妬だったとか、女性によるものと言われていますが、

諸説あり不明です。

小手姫については、いろいろ書いているので割愛。
姉妹の姫が登場する伝説は、多いのです。

山形県に伝わる伝承を考えれば、
千歳山のあこや姫がいる。

2人の乙女から想像するに、
なぜか、あこや姫は、姉が中将姫で妹があこや姫と伝承される。

藤原家の娘となっており、藤原実方も登場するのですが、
繋がりがあるかもしれない。

 

※千歳山あこや姫の石碑

なぜあこや姫の姉が、中将姫なのか。
名取にも中将姫(12、3歳くらいの若い女性の中将)の伝承がある。

詳細はわからないのですが、前回書いた京都の由良川に由来
しているので、これが葛城の「二上山」に関係すると思います。

中将姫は、二上山の麓当麻寺(當麻寺)」で曼荼羅を編んだ人と言われます。
でも時代が747年なので、蜂子皇子の時代より後になりますが。

姉は機織姫で、妹のあこや姫は木と交信するコトビキという巫女になる。
これは熊野が伝承したことに由来。(コトビキ岩)
船に乗せた巫女。
コトビキであろう。(琴引き)

また、あこやの名は、貝のあこやでもあるのですが、
羽黒の「阿久谷(阿古谷)が「あこや」とも通じる。

阿久谷は、羽黒山山頂の北側に位置し、 一般人が入れない禁足地と。
羽黒大権現が現れたという洞窟。


この頃、藤原北家(不比等の子供たち)が台等していた時期です。
藤原実方も北家。
砂金交渉のために陸奥にきています。

 



藤原実方は、あこや姫伝承に魅かれて千歳山まで訊ねにきている。
伝承ではありますが、その千歳山には数多くの著名人や文学者、
明治天皇もきており、明治時代の尊王攘夷の頃、
物部守屋を継承する石碑まであるのです。

 

※萬松寺(あこや姫開基と伝わる)

山を越えて名取川を船で下って太平洋側まで来ている人もいます。
後に「松の木の精霊」という物語が作られ中世に広まりました。

あこや姫の伝承は、出羽国に繋がる街道の大河原にもあり、
温泉を発見した伝説もある。

名取にも藤原実方伝承があるため、笹谷峠を利用して、
出羽と陸奥を往復していた。

その街道の交差する地点に何があるかといえば、

大高山神社」です。
聖徳太子の父(用明天皇)伝承が残る神社。

■二上山と東北の縄文----------------------

なぜ、二上山が気になるかといえば・・・
葛城の当麻の里には、ナガスネヒコ伝承の円墳があるといわれ、

ここも、出雲がある。

当麻寺の開基は、不明な部分がありますが、

一般的には、聖徳太子の異母兄弟の弟
麻呂子親王」の建立と伝わります。

しかし、麻呂子は鬼退治した人物になっている。
聖徳太子は封印され、異母兄弟によって征伐された鬼の対象となってしまう。

二上山は、聖徳太子の頃の時代から、深い歴史の闇に閉ざされた山です。

しかし、二上山は、旧石器時代から弥生時代にかけての遺跡を総称している。
この地域には二上山の火山活動で生成された火山岩が分布し、
その中に石器時代に利器の材料として用いられたサヌカイトという
ガラス質の石材が産出するそうです。

二上山は数多くの遺跡も発掘されており、
東北の土器も混じっているそうです。


生駒山山麓にある下水主遺跡にも、
多数の縄文土偶が見つかっており、近畿地方では珍しいことです。
東北からもたらされたのではなく、
東北の縄文土偶に影響されて現地で

作られたもの

と考えられると。

 

二ギハヤヒ降臨地に、

東北の土器があった。

ナガスネヒコや二ギハヤヒ伝承がある東北とは、
故郷が東北にあり?開拓するために西へ行ったが失脚。
再び、戻ってきたという妄想。

九州の南から近畿へ。
東北の北から近畿へ。
生駒や葛城で合流。(妄想)

■二上山と秦氏--------------------------

大津皇子の墓が二上山の雄岳山頂付近にあるそうで、
草壁皇子との皇位継承に巻き込まれた皇子です。

大津皇子は、持統天皇がいた時代で663年頃。
蜂子皇子は、それよりちょっと前の641年。

謀反を疑われたため、捕えられ自害させられたそうです。
諸説ありも、宮内庁は、二上山がお墓と認定している。
ちなみに、大津皇子は、九州の大津(現:博多)生まれです。

そのような暗い時代があった為、曼荼羅を編んだ中将姫は、
多くの皇族たちの鎮魂のために、紡いでいたと思います。

蜂子皇子も皇位継承に巻き込まれたことがあったでしょう。

しかし、皇子をかくまらせるために出羽へ行かせた影に、
秦氏がいたと思います。

小手姫が福島へ逃れた際も、数人のわずかな家族のみと
秦という名がつく人が逃れた話しがある。

小手姫伝承に関係する人に「庄司秦峰」という人がいます。
4世紀末から5世紀前半に実在したと見られる仁徳天皇の時代。

 



「天皇の命を蒙り、一子、小手姫を伴いこの地に来り桑を植え蚕を飼い
絹を織る業を教えたり。
朽人山より西北の諸村を総称して小手郷というは、小手姫より出たるものに

と、伝承があり、「峯能観音」として祀られています。

この人が、小手姫の父(大伴糠手)と言われ、
身を守るために名を「秦峯能」と変えたというのだ。

秦峯能=小手姫の父となる。
秦に名を変えて養蚕を伝えるところに興味をもち、
「能」という言葉が、能除大師の「能」と同じであるのが、気になった。

 

※能除大師

それに秦氏は新羅国からきた人と思われ、
新羅は伽耶国を支配します。
伽耶は現在の韓国南(プサン)あたりで、
古代日本の領土、任那(伽耶の範囲)であった所とされる。

→伽耶は新羅が征服する。

伽耶といえば「かや姫」の伝説。

福島県に伝わる機織姫伝説に、
藤原実方の夫を追って陸奥まで妻が探しにくるが、
病に倒れ白い猪に助けられる伝承があります。

(この猪は蘇我氏と思われる)
病気がなおると、養蚕を村人に伝えたといった話し。

この妻の名が「香野姫」と言い、「かや」のことでもあります。
萱とも書き、カヤ姫は、カノ姫とも言われます。

時代錯誤があるにしても、伝説の藤原実方の妻が香野姫として登場するのは、

小手姫が時代と共に、名を変えて変化していることです。

 

なぜなら、小手姫の大伴氏は、伽耶に深く関係するからです。
伽耶の小手姫を保護するために、秦氏がサポートしていたと考えられます。

 

つまり、蜂子皇子とその母と言われる小手姫の由縁が、

山形県と福島県で繋いでいる。

その存在は、「秦」「能」「カヤ(伽耶)」という鍵があり、

「白い猪」が福島と山形へ一族を逃していること。

 

白い猪=藤原実方(熊野別当)

名取で亡くなる=名取老女伝説

大伴氏が占拠していた場所は、奈良県橿原市で、
新沢千塚古墳群がある所
でした。

この地域は、伽耶と深い関係があった東漢氏(渡来系集団)

の可能性が高いという。

 

それを統括していたのが大伴氏だったのです。

 

東北へ逃れた一門は、

「玉造り」の名門であった可能性が。

 

※新沢千塚古墳


その古墳は、大量の装飾品が発掘されており
玉作り工房」があった所だったのです。

これが玉川寺の玉ばあさんにも繋がるのでは?

秦氏や大伴氏、東漢氏などは、鉱石の装飾品を作っていた集団で、
日本海と伽耶との翡翠交易も行っていた考えられます。

この古墳から出土したガラス皿について、
化学組成がローマ帝国領内で出土したローマ・ガラスだった
ことが
わかったそうです。

■線で霊ラインを結ぶ-----------------------

機織を伝えた小手姫は、都から来たことがわからないように、
密かに養蚕を伝えていたと。

 



後に、役小角、織田信長の娘(笹姫という)、
源義家、伊達政宗など数多くの将軍が勝利の神として
女神山(小手姫が祀られている)は崇拝されます。

以前、小手姫のことを書いた時に、
女神山が二上山に雰囲気が似ていると思いました。

 

※二上山

葛城の故郷を想う母と、祈りのために羽黒を目指した息子が、
会うことはできませんでした。

ここでも太平洋と日本海で分かれたのです。

6月~7月の行動を、試しに線で結んでみました。
南相馬の太平洋(太田妙見)と日本海の八乙女。
(約230キロ)

 



大体、朝日連峰(大峰だから)と蔵王刈田岳にかぶる(青印)。

蔵王の方や白石によく出かけてました。

人間は、直線に行動するので、何を結んでも三角形になります。
特別なことではなく、そういうものだと思います。

(正確な三角形は意図しているけど)

神社が主体ではなく、人間が主体になって動くことで
見えてくることがあります。

これをみて思ったのは、
太平洋と日本海を結ぶ線を、繋げていく旅だったことに気づき、
間に蔵王権現が入っていたので、
これが役小角だったことに気づいたのです。


霊峰月山

 


 

 



月山は、いろんな過去の思い出を繋げてくれる山です。

 

(葉山)

蜂子皇子の山だからこそ、いつまでも出羽三山は、
多くの人たちを魅了する山なのです。

 

 

蜂子皇子は実在します。

そして今も生きているのです。


いつまでも東北の自然が豊かであること、
いつまでも変わらないことを願ってきました。
蜂子皇子が上陸した由良が、私にとっての結願でした。

コロナをすり抜けながらの旅。

ということで、蜂子皇子はおしまい。

長々とありがとうございました。


次は、おまけで訪れた所を紹介しま~す。