前回の東山からみえる展望の先に「角塚古墳」があり、
最北の前方後円墳といわれる。

 



2017年3月11日、震災がおきた6年目に水沢の阿弖流為の地へいった。
この日も地震が起きた同じ時刻にパラパラと雪が降り、
帰りの電車も3時11分発だった。(今は時刻が変わっています)
悶々とした気持ちで衣川を越えて仙台へ帰ったことを思いだす。

 

 


それでも、蝦夷の地ではママチャリ暴走が欠かせない・・・UFO
タタラたちは、こっけいだ!と言っていつも笑うが。

「観光物産センターZプラザアテルイ」でレンタルサイクルできます。ニヤニヤ

 



名前がアテルイ。。。
「Z」は、Z項の木村先生のことです。タブン

 

AtoZ・・・

過去記事のまとめ

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水という地名には、宇宙と深い関係のある土地だったことに気づく。
古墳に一本杉が立っているのはとても珍しいです。

 


 

一柱に神が降りてきそうな、そんな古墳なので、
この古墳の主はどんな人だったんだろうと思います。

角塚古墳の伝説

「当地には高山掃部という長者がおり、
その妻は強欲であったがために大蛇に変身した。

大蛇は農民を苦しめ、里人は松浦の国から小夜姫という娘を買って
生け贄として差し出すことにした。

大蛇が現れた時、小夜姫がお経を読み経文を投げつけると、
大蛇は元の長者の妻に戻ったといい、大蛇の角を埋めたところが
この角塚古墳であるという。」

 



「里を救った如来さま」と題した看板では、もう少し具体的で、
大蛇は、8月15日の夜に、15歳の娘を差しだせという。
なんだか、仙台の広瀬川に伝わる橋姫伝承と似てます。

 



川の氾濫を鎮めるのに人柱をしたという伝承は、たくさんあります。
このあたりは、小夜姫にまつわる話が残っているのですが、
化粧坂というのがあり、小夜姫が持ってきたと伝わる高さ5センチの
小さな如来様が薬師堂に祀られているそうです。

化粧というのは、宮城県北部にも悪玉姫伝承で化粧池(沼)があります。
悪路王と関係しているのか?



東北の古代史では、悪路王といい、アクリかアクロという地名が由来し、
アクリ(阿久利)という所にいた長、という意味がある。

大高丸がそうだと言われますが。

 



古墳は、5~6世紀始めに造られたとされ、
農耕社会とそこでの政治的諸関係を示すもので
東北地方における古墳時代を解明するうえで重要な前方後円墳としては、
岩手県唯一の古墳です。

アテルイが亡くなった年は、802年くらいだったと思う。
なので、角塚古墳はすでにあったことに。

あの場所から角塚古墳はほぼ一直線にならぶ。
古墳がよく見えていたわけですね。

 



この古墳の主はわかりませんが、
大和朝廷から位と姓を与えられた長であったことは確かです。

 



埴輪が見つかっているのはここが最北だそうですが、
続縄文文化と大和朝廷の関係があったという。


このあたりの古墳群の特徴として、
農具を副葬とする古墳と、
武器を副葬とする古墳の2つのタイプがあり、
農具を副葬とする古墳の方が上回っている。

農民が主体で、戦士は客体であると。

エミシについていろんな諸説がありますが、
北方系ツングースが代表的な人種であるとの説も。
シベリアの方ですね。

 

アニミズム、シャーマニズム、トーテミズムの世界観があるからですが、
続縄文文化とアイヌの文化にエミシも共存していて、
金属を使用し、稲作は伴わない狩猟などの生活をしていた。

 

 

 

近くの公園に埴輪。

7世紀頃まで続いており、擦文文化がアイヌの担手となったそうです。
熊おくりの儀礼などもそれで、北方の影響を受けている。


エミシの遊戯という点では、柳田国男の「山人」にも書かれています。

農耕をしなかった先住民が山人になった。
隔絶した山中に住む異民といわれたが、毎年の定めの時期に、
京都の朝廷へ出てくることがあり、主として神事と関係しており、
延喜式をみると、祭の儀式の中に山人が出て来て庭火を焚いたり、
舞を舞ったり、歌を歌ったりしたことが分かる。


後に山人が来なくなったので、朝廷の役人を山人に擬してその役を
勤めさせたものである。


柳田国男は、山人とは、日高見国の国神のことを差し、
大和とは区別されていたと。


日高見国にいた国神が、朝廷に舞を披露していたのだ。
その頃は、まだ激しい争いがあったわけではなかった。

 



また、土地を個人が所有する概念もなかったので、
大和朝廷による律令制などは、理解しがたいものだったのです。

岩手県内の古墳群は、ほとんど北上川流域の平野、水田地帯に集中している。
角塚古墳は、仙台の雷神山古墳、遠見塚古墳と形状がよく似ているので、
専門家の話では、同じ系譜の墓であるという。


ということは、奥州街道を通って名取~多賀城あたり~水沢へ北上した豪族の墓となる。

であると、毛野氏?

上毛野氏は、田道将軍が石巻にいた渡来系氏族。
紀伊・摂津・河内が当時は強く、
アザマロ(多賀城の反乱)とアテルイが紀氏と対立していたように、
紀氏は大和王権側の人。
後の大野東人を輩出しているから、これらの一族に関わる古墳と思います。

なぜなら、537年に百済を救った人がでてくる

「大伴氏」

伝説にある佐夜姫は、九州の佐賀県にいた松浦作用姫と同一。
大伴狭手彦と松浦佐用の恋話があるほど有名。

 

松浦佐用と大伴狭手彦

 

この大伴狭手彦が、百済を救出しているから、
百済出身の坂上家は、その恩がある。
その大伴氏は、福島県に飯舘村に養蚕を伝えた
小手姫の一族にあたるから。→秦氏と伴ってきている。

 


※狭手彦の父:大伴金村(小手姫の祖父にあたる)

だから、坂上田村麻呂もこの地へ訪れているわけです。

蝦夷が毛野氏のいうことをだんだんと聞かなくなり、
寝返る者もいたため、
マロは征夷大将軍になると、毛野氏を都に戻らせ、
代わりに物部の名を2名、通訳として置いたという。

霊統は、恩返しを忘れない。
いつか、必ず、分断した者どうし、再会することになる。

 

スマートなアテルイ

 

 

人柱の風習をとめたのは皇女?

 

ところで、
何度もマロとシンクロする「化粧」のこと。
土地(水)の利権の意味もある化粧だが、

その「化粧」という水に名をもたらしたのが、
伝説の「佐用姫(さよひめ)」。
この水沢にある「サヨ」と同じ響き。
意味合いは同じでしょう。(衣通姫ともいう)

稲作をするうえでの生活水は必要
その治水工事にあった皇室といえば、
継体天皇の第19番目の御子円媛。

継体天皇は、蘇我氏系です。

蘇我氏・秦氏と、物部氏が鍵。


由来では、福井県布久漏郷に皇女円媛命がお住みになり、
治水事業を承け継がれ、
現在の十郷用水の礎を造られたと。


天皇の後に治水事業を継承した皇女と伝わります。

以前、福島県の黒沼神社で書いてましたが、

人柱にされそうになった村の娘の身代わりに、
「さよ」という名の女性が現れる。

その礼金で観音像をたて供養しようとしたら、
沼の蛇が得脱して、人柱のしきたりが止まった。
という伝説が福島にある。

また、福島には、
「佐世姫物語」という霊蛇にまつわる伝説が、
お堂の縁起として伝えられており、

霊蛇の人身御供となった者を
観音としてあがめた三十三観音像があると。

つまり「サ」の姫は、水の女神とされ大蛇信仰になる。
大物主の三輪信仰と似ているので。
治水と何等かの関係をもたらす巫女となって後世残されている。

しかし、佐用姫の場合、その人柱の風習を止めたことで、
治水の技術を村にもたらしたと言われる。

「角」と言われるゆえんから、
おそらく動物の鹿などが、代わりに人身御供とされたかもしれない。(諏訪信仰)
スサノオといえばそうかもしれないが、ちょっとヤマタノオロチに似てる。

皇女円媛命が治水工事ができたのは、
「鹿の導きにより」工事がうまくいったという伝説がある。

その鹿といえば、物部氏がトーテムとしていたものだ。

継体天皇がよく登場する背景に、日本海がある。
日本海の海水の氾濫を、タケミナカタとヤサカトメの夫婦が、
湖水のため、水内郡の山を開拓し、
越の海へ流した話があるため。

 

※ヤサカトメ

大地主とされる人は「大人(ウシ)」と呼んだ→女性の長をトベ・トメと呼ぶ。
そのウシが牛になり、娘たちは、人柱の犠牲になったこともある。

それを「赤牛」とよんだ。

→福島県桑折町の半田沼など

 

牛と機織姫は、夫婦にされる。

余談ですが、
秩父市で発見された小惑星の名が佐用姫 (小惑星)だった。流れ星

佐賀県唐津市が広報紙やホームページで命名を呼びかけたところ、
地元に伝わる佐用姫の名から決まったという。

星になった姫。

その星にしたきっかけが、秩父だった・・・

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アイヌもたくさん住んでいた蝦夷の地。

 



安東ウメ子さんの歌が好きでした。

※1932年11月20日 ‐ 2004年7月15日)

北海道帯広市フシココタン出身のアイヌの音楽家。

 ムックリ(口琴)とウポポ(歌)の名手として知られる


アテルイを考えていると、アイヌの歌が聞こえてきます。
安東さんの声。

 


オリジナルはこちら。

 


安東水軍の末裔ではないか、といった話も聞きます。

ずっと前にアテルイが北上川に咲いている花という内容の
歌をうったている夢をみたことがある。
歌の旋律だけね。・・・キョロキョロ

蝦夷は地域の人たちから愛されていることもあり、
成仏されていると思うが・・・
かえって朝廷側の大和の方が、まだ重いカルマを背負っていることを
感じている。

アイヌの子守歌が、
今もだれかの古墳を見守っているのかもしれません。