つづき

 

E~Hをご紹介。

 

 

A~Dは、Part1 へ

 

 

富山観音(E)地点

 

 


利府を通り松島の海を眺めながら、27号線を走ると、
 左側に「富山観音堂」の看板がみえてきます。

 



奥まった森にある富山観音堂。

 



 『伊達政宗の長女五郎八姫が改修させた、
彩色豊かな建造物と寄進した梵鐘です。

芭蕉に同行した曾良も『曾良旅日記』の中で
眺望の地として記しています。

 



仙台藩の儒学者舟山萬年が文政年間(1818?1830年)
に著した『塩松勝譜』 には「四大観」の一つとして紹介されています。

 観音堂の創建は坂上田村麻呂に由来し、
涌谷町の箟岳、石巻の牧山と併せて 奥州三観音と称されています。』

 



日本遺産より
富山の杉(しろいたもみ)

 

 

下に降りると古い建物「紫雲堂」があり(入園料有)

 

 

のぞくと明治天皇・大正天皇の休息の間がありました。(中には入れません)

おそらく、宮戸の方まできたついでに、

松島へ寄ったのかもしれない。

 

 

 

 

奥松島の大高森(F)地点

 

ここは、軽く登れて絶景スポット。

 

 

駐車は向かいの道の駅でOK

 



15分くらいで登れるので、初心者でも十分楽しめます。




この松島の大高森から近くの縄文遺跡などを
歩くコースとして「宮城オルレ」の一つとして
(松島オルレ)紹介されているコースでもあります。

 

 


 

大高森薬師堂

 



「松島四大観の一つ、奥松島大高森に建つ薬師堂は、
大正時代当時の森正隆知事が、伊具郡の寺を解体したときの
大柱の一部の材で彫った、薬師如来像を祀るのに私財で建てました。

 本尊は県内最古の木造建築と伝えられる高蔵寺(角田市)の柱を
使った白木造りの薬師如来像。

瓦は国宝・瑞巌寺(松島町)と同じ奈良県の窯場から取り寄せた
といわれています。
 
松島四大観の一つ、大高森の中腹にあり、
木造平屋で高さ5.5メートル、床面積12平方メートル。」

 



 

 

宮戸島「嵯峨渓」(G)地点

 

宮戸島は、縄文遺跡が多く見つかっており、
奥松島縄文館があります。

さきっぽの島。

 



宮戸の地名由来は、南朝の皇子
から由来しているという話がある。(諸説あるけど~)

 



「宮」は、他に七ツ森の方、宮床も天皇に関わる地名。
淳和天皇が床(すんだ所)とも。

南北朝時代、御醍醐天皇の皇子が逃れている話は、
地元の方から度々聞いたことがある。

霊山~こちらへ逃れたのは、義良親王(のりよししんのう)。

兄弟がたくさんいるなか、三男とも長男ともいわれる
護良皇子(もりよししんのう)は、
鎌倉で幽閉された後、石巻へ密かに逃れ10年ほど
暮らしていた話もある。(実は処刑されていなかった説)

そのため、明治天皇・大正天皇が実際に、訪れているという。

 

鏡神社(某場所)

 



主祭神:天宇受売命と、
「某皇子尊」を祀っている。
※某皇子・・・一皇子(護良皇子説)

 

古老の言い伝えでは、南朝の某皇子が宮戸島に着き
行宮をこの地に定めその携帯し給うた。

鏡を以て神体とし此地に祭ったと云う。

 

 

※むろの木にある石碑に「護良親王」とある。

 

 

そんな歴史ロマンがある所で、散策できる喜び。

 

 

 

 

宮戸地区は「特別名勝松島」

 

 

 

ここには、「むろの木」があります。

 

「この樹木は、イブキといい、ヒノキ科やビャクシン属の
常緑樹でビャクシンとも呼ばれています(むろは地方名)
本州、四国、九州に自生し、

特に太平洋岸と瀬戸内海地方に多く分布します。

地元では、南北朝時代の建武二年(1335年)
鎌倉を逃れて宮戸に着いた

御醍醐天皇の皇子護良親王が
むろの木の枝を筆として使い、これを土中にさしたところ
根付いたという「お筆むろ」伝説があります。

 

 

丸森の筆甫も同じ由縁があり、

丸森は霊山があったので、義良親王(後の後村上天皇)が、

北畠顕家にともなって逃れた話も。

 

南朝の2人の皇子がきている。

 

 

「寛永16年(1639)三代将軍徳川家光の時鎖国令が発せられた。
これ以降、国内各所に外国船を監視するための監視所が設けられた。

 

 

仙台藩では、天保年間〈1646〉、
二代仙台藩主伊達忠宗のときに外国船の監視所として、
八ツ森(岩手県)、泊浜(歌津町)、鮎川浜、大浜(東松島町)、
磯浜(山元町)の五ヶ所に唐船番所が設けられ、外国船の来航を監視した。

 

 

 

 

 

 

 

 

浦戸諸島(H)地点

 

 

最後は、塩釜港から日帰りでも十分いける
浦戸諸島。

 



宮城県塩釜市にある浦戸諸島は、

大小さまざまな島で形成されています。

 

<桂島>

 



最も近い桂島では塩釜港から20分程で行けます。
歴史ある島で、「浄瑠璃伝説(朴島)」や「石浜の鬼伝説(桂島)」など、
かつては源平合戦、弘安の役(元寇)など、合戦場の砦でもありました。

浦戸諸島の中では、人口が多い島。



桂島神社

 



塩釜神社の十四社の一座で祭神は、
奥津比古老翁神、奥津比売老女神。(奥津彦、奥津姫のこと)
これは、「お竈様」のことを言います。

塩を精製した人が島にやってきたことを伝えています。

 



【白菜採種の歴史】

 



種採りに成功したのは大正時代。

伊達家養種園の技師・沼倉吉兵衛氏が様々な実験を行い、
人工的に隔離した部屋で純度の高い種が採れたことをヒントに、
離島での栽培を考え出しました。

そして選んだのが松島湾の浦戸諸島。
無人島だった馬放島(まはなしじま)で白菜の種のみを植えたところ、
純度の高い種が実ったのです。

 


 

<野々島>

 

「ボラ」という洞窟のような岩が特徴。



御神像の奥に厨子入りのキリシタン仏があり、
隠れキリシタンが拝んでいた熊野神社と伝わります。

 



「宇内浜」は、干潮時に島と地続きになるそうです。

 

 

つばきの森

 

 

 

 

<寒風沢>

 

アイヌの伝統で、鮭の寒風干しのことを、「サッチェプ」というのです。

 



寒風沢の「サブ」が、サッチェプ→サップ→サブ・・・
というように転じた気がします。

 



六地蔵
 

【浦戸米の活動】

 

六道を下っていくと、広い風景が広がります。


ここが「浦戸米」という島の伝統農法を行っている田園です。
寒風沢島の浦戸米の生産から「寒風沢」の醸造が誕生しました。

 


 

神明社は、江戸時代後期の 「鮭を運ぶアイヌ人の絵馬」が奉納されています。

 


 

 

 

「船入弁財天」
 

 

砲台跡もあり、慶応3年(1867年)に仙台藩が
寒風沢港を海防の重要地点として、砲台を建造した場所でした。

 

 

<朴島>

 

一番小さな「朴島」。
マリンゲートからの終点。

 

カキの養殖

 

船乗り場

 

 

 

 


タブの森と菜の花

 

 

タブの森

 



菜の花は、地元の方が他の植物との交配を避けるため、
丹念に雑草を抜くなど、
大変な手間をかけて大切に育てているものです。

 

 

なぜか、浦戸諸島は小さな島なのに、神明社が祀られている。

野々島と朴島に。

 

浦戸諸島の情報

 

 

まだまだ魅力ある松島湾。

仙台の街から近くに、これだけの自然と海がある所は、

なかなかありません。

それぞれの暮らし、文化、食が大地にしみている。


またこれからも、発掘していきます。