前回のつづき・・・ワニさん。

エジプトのワニ神「セベク」信仰から
和邇氏(和珥氏)らと関係するかどーか。

 



インドのヴァルナ神(水神)

出雲のチヤホコ王に
「ある日、タケヒナドリ(出雲の重臣)がチヤホコ王に、
海岸で海童たちがワニ(サメ)を捕えて騒いでいる」と告げてきた。
出雲では、ワニは神聖な動物と考え尊んでいた。
王は、タケヒナドリに連れられて、園の長浜に出向いた。

そして海童たちにワニを放つよう説得した。
すると、海童たちは王を取り囲み、舟に引きずり込んだ。
それ以降、タケヒナドリは行方不明になった。」

※『出雲王国とヤマト政権』より


ちょっと、浦島太郎と亀に似ている。

 

------------------------------
世界の神話にワニがいるねぇ。

さて、そのワニ?の

和邇氏は、丸子と同族である。

陸奥国にはその痕跡が
海深くに沈んでいる。

そこには、「縄文海進」があり、
はるか昔、海はもっと内陸にあったことを
考えれば、その貝塚に何かヒントがありそう。

もうここまでくると和邇氏とはかけ離れていそうだけど、
東北に逃れた痕跡があるため、
その名を「丸子」としているならば、
なぜ、「丸」にしたのかは、「千葉県」にある。

でも、その丸の意味は、依然としてつかめない。

日本では「わに」の意味として、

・舟
・サメ(サバ)があり、

この2つの特徴をもつ氏族が、ワニ氏のこと。

サメの古語は、「サバ」
青い魚の共通点。


和邇氏について簡単に。


奈良盆地東北部に勢力を持った古代日本の中央豪族。

河内にもいる。

 



主として天智系とされ、「志賀」の琵琶湖に台頭し、
安曇氏を中心とした海民の一員と考えられ、
瀬戸内海~太平洋を通り関東地方へ。
※日本海は宗像系

茨城・千葉県~石巻へ到着=丸子氏。



千葉県と石巻の共通点は「伊寺の水門(いじすいもん)」
「イ(伊)」が治める門(津)

石巻の地名の元は、伊治牧(いじのまき)で、
迫川は旧伊治川のことで、北上川の支流だった。
石巻の母流が、伊治川だったと。


千葉県は夷隅郡(いすみ)であり、
この「夷」がけっこうある。

 

※上陸した地(牡鹿半島)

上毛野田道将軍が上陸した場所は、
石巻説と千葉県説がある。


千葉(上総国)から牡鹿へ移住しているわけで、
石巻説と同一になるのは、牡鹿柵がつくられたことにある。
(奈良時代)

丸子は「わにこ」とよび、和邇氏とは同族。
春日氏、小野氏が祖。

大和族(男性)
和邇族(女性)となり、
天皇家に和邇氏の娘たちを嫁がせている。

大和は、男性=太陽信仰
和邇氏は女性=月信仰


これが面白くて、
白石の鎌先温泉「かぐや姫」伝説に繋がる。

だから、東北の太平洋側へ阿武隈川を下って舟で和邇氏はきている。

それは、葛城氏も同様なので、また葛城氏と和邇氏も
一緒にみてよいと思う。

丸の地名や姓が多いが、
武蔵の丸子(武蔵江戸氏系)がおり、武蔵は騎馬民族がいたので、
馬を産地として(群馬県も)とても有名だった。

それが、石巻の地名にも繋がり、
馬を関東からもたらした可能性大。

※松尾芭蕉が石巻で歌った「尾駮の牧」とは、
馬の尾の「まだら」からもたらされたと言う。 

石巻が湊としてあったのは、
馬を船で運ぶためでもあった。

その丸子は秩父氏。(他、大伴氏流)
だから、葛西氏は、石巻を占拠した。

それに、何度もしつこく福島の小手姫のことを
追っているのは、大伴氏の方の丸子氏は、
小手姫の系譜だから!!(父の大伴 糠手子は丸子氏)

なので、養蚕、機織。
つまり、丸子は、和邇氏=秦氏でもあり。

ということだから~~
今、仙台に千葉がきていた!(先週)

 



そーだったか。
仙台駅に「千葉の魅力を持ってきました」と・・・
じゃあ、丸子が来るよね~~。

また、東松島にある横穴墳墓は、千葉県からきた道嶋氏が
埋葬されている。


多賀城の関連でアザマロと対立していた道嶋氏が、丸子だった。
丸子連の配下にあった有力農民層であったとされ、
それらの横穴墳墓は、千葉県と同じ形態。

 

 

亘理町のイソベサマ

 

丸子氏は、ヤマトタケル伝説と関係するらしい。
鎌倉時代、源頼朝の安房国の丸郷に荘園があり、
「丸御厨」とよび、丸子部の末裔=丸氏となった。

このあたりを朝夷郡(あさいぐん)とよび、
あさい=あさひなとも呼ばれた。

そう、あさひな、といえば、
ダイダラボッチ!

七ツ森のキャラクターが、ぼっちさん。


あさひな君は、平野部を開拓した大豪族だった。

※夷は、ヒナとよばせたのは、
ヒナカムイ=ヒタカミ=日高見国の末裔?

そのアサヒナは、亘理町に伝説として残る

「鮫に乗った観音」
湊神社。

 

 



このあたり、縄文海進では、海だった。
「いそべさま」とよばれた磯部。

鎌倉時代の和田氏(ワタツミ)である。
三匹のサメを抱えるこの図こそ、朝比奈であった。

 


和田義盛の三男が朝比奈を名乗る。

つまり、和邇氏や丸子とよばれた大伴氏や
武蔵系の氏族は「出雲と関わりをもつ」

だいだらぼっちの豪族だったのでは?


九州~紀伊半島~瀬戸内海を掌握し、
有力な交易の民となり豪族と関わりながら、北の政権を目指す。

そのバックにあったのが安曇氏と、思う。(志賀海:志賀→鹿)
大和は、奈良県にあり。(初めは)


奈良の大和といえば、この当時有力だったのは「葛城氏」

葛は、茨城県の地名由来の伝説にもあるように、
土蜘蛛ともよばれ、彼らが「手長足長」だったこともある?

陸奥国の海側に非常に多い「貝塚」が物語る。

 

※阿武隈川

 

 

日本最大の貝塚は千葉県にある

 

淡水から貝塚へ繋がったこと。

和邇氏や丸子氏らは、淡水に生息する貝類、
ヤマトシジミなどを食べていたのかもしれない。

なぜ、宮城県の海側に鹿島神社が多いのかもわかってくる。

手長足長のだいらぼっちを追って、
鹿島の神がやってくる。

手長足長という民族は、
ポリネシアンの方では?という説もある。

 

縄文人のルーツは、ラピタ人という人類初の太平洋を航海した
人達という説もある。

 

※ニューカレドニアの紋章。

ラピタとは、ニューカレドニアの文化をもち、「穴を掘る」
「穴を掘った場所」の意味があるハペタアが由来だとするが、
発掘した遺物のことを指すらしい。

→穴に住む土蜘蛛と関連づけられる。

マオリやタヒチ起源説もあり、
狩猟採集で身体に装飾の刺青をしていた人たちが
縄文人と骨格が似ていることもあって興味深い。

----------------------------------

千葉県は、日本で最も貝塚が多い。

日本最大の「加曾利貝塚(かそりかいづか)」があり、
約7,000年前から約2,500年前までの生活の痕跡があるが、
巨大な貝塚は、縄文時代中頃の約5,000年前から縄文時代の終わり頃に
かけての約2,000年の間に残されたものである。

 



※1926年時点の関東平野の地図に
縄文海進領域(斜線部)を重ねた地図。
霞ヶ浦周辺の斜線が香取海。

 

縄文海進とは温暖化により海面が上昇したこと。

関東平野では、香取海が形成された半島で、
縄文海進により貝塚の存在が提唱され、
海岸線にかけて多数貝塚があることから、
海進説が定説となった。→内陸奥に発見されたことから。

今より、もっと海は内陸にあったこと。

例えば、宮城・福島県堺にある「鹿狼山」は、
だいだらぼっちの貝塚伝説があり、

 


 

祀られているのは、手長・足長(諏訪地方)明神。

 



ここも養蚕の山。

狼と鹿。

 



 

山頂には、手長足長明神が祀られており、
すぐ下には貝塚があったことから、ダイダラボッチ(巨人)が
山から長い手をのばして貝を食べて貝を捨てていた伝承。


 

諏訪の神とされているが、
貝を食べていたのは、特に淡水(海と陸の間)の
ヤマトシジミは多くみつかり、
これらの海藻類を食していた海民には巨人説が多い。

※鳥海山にも手長・足長伝説あり。

霞ヶ浦いったいは、貝塚の宝庫。


塩の精製も行っていたと言われるが、
ここを治めていた鹿島・香取の神があるのは、
海民がいた場所(タケミナカタ・・・?)
をタケミカヅチが征服したことと関連ありそう。

タケミカヅチが北上してきたのは、
巨人の海民を追っているためでは?

宮城県柴田町にある鹿島神社のそばにも
貝塚があり縄文時代の土面もみつかっている。

 

 

上川名の鹿島神社

 

 

上川名貝塚
上川名地方は、縄文時代早期より(9000年前)、

 

 

 

またここは阿武隈川のそば。

貝塚の中心をなすのはヤマトシジミで、
その層の厚さは2mとも4mとも言われ、
その下にハマグリなどの階層が確認されています。

これは槻木耕土が入海であった時代から汽水域となり、
真水へと変化したこの地の数千年にわたる歴史を教えてくれています。」

 



水は、その塩分濃度によって、淡水・海水・汽水の3つに分けられると。

淡水は塩分濃度の低い水、
海水は塩分濃度の高い水。
汽水域は、塩分濃度は中間。

だから、このあたり一帯は、ヤマトシジミがよくとれた。

淡水とワニが繋がる!


 

岩沼市のサイトより。
※畑堤上貝塚(岩沼市)で見つかったヤマトシジミ

 



※4,000年前頃の地形(推定図)

 

最も美味しいヤマトシジミは、
青森県の十三湖のシジミ!

 

だいだらぼっちは、シジミ汁が好き。飛び出すハート

最近、スーパーで見られなくなったのが
寂しいのだけど、十三湖のシジミはとにかく美味しい!

 

ということで、丸子を追ってみると、
千葉県~海側に貝塚の痕跡。
そして鹿島の神。

 

 

フツヌシは物部氏

 

石巻は複雑な歴史があり、なかなか踏みこめない。

しかし、ここに丸子がきていたことはわかる。

鹿島の神がいるから、

香取の神もいる。

和邇氏と間をとりもつ、物部氏も。。。

香取海は、常陸国と下総国(現:千葉県)の海上横断とされ、
東海道と陸奥国の物流起点だった。


このあたりの歴史に重要なのが、
鬼怒川に下っていった、忌部氏のこと。
養蚕が盛んになった範囲は、荒川と鬼怒川にある。

 



いずれも渡来してきた(秦氏と共に)氏族であり、

和邇氏、忌部氏が合流している。


ここに、物部氏がどのように介入しているかは、
陸奥開拓へ数名の「物部氏」を派遣していた記録が。

『続日本紀』より

「下総国の人、陸奥鎮守将軍外従五位下勲六等物部匝瑳熊猪
連を改め宿禰を賜う。
また本居を改め左京二条に貫付す。

昔、物部小事大連、節を天朝に錫し、出でて坂東を征す。
凱歌帰報。この功勳に籍りて下総国に始めて匝瑳郡を建て、
仍て以て氏となすことを得しむ。
是れ即ち(物部)熊猪等の祖なり。」


とあり、日本武尊東征伝説のほか物部氏も進出したとされ、
常陸国信太郡や香取神宮と物部氏の関連も指摘されていると。

 

物部小事を祀っている説がある老尾神社(おいおじんじゃ)神社があり、
物部匝瑳氏が足継・熊猪・末守の3代に亘って鎮守将軍に任ぜられるなど、
常陸国信太郡とともに物部氏との深い関係が伝えられる。

この中に登場する「物部小連」の父が「布都久留」で、
「もののべの ふつくる」

「ふつ」について、ちょうど、るーぱちゃんが説明してたー。。

 

 

フツノミタマの「フツ」は、「断ち切る」などの意味がある。

 

よって、香取神は、物部氏。


中臣氏より前に、物部氏が東国へ向かっていたことがあった。

下総物部氏がおり、常陸国信太郡のことの関連があり、
土器に「物部」のへら書きも見つかっている。

その信太郡は、「この地はもと日高見国なり」と、
『常陸国風土記』に呼ばれていることから、
ヤマトタケルがヒタカミを征服させたことを伝えるために、
東北地方の太平洋側には、ヤマトタケル伝承が多い。

その地に、平将門がいることがまた面白い。

物部氏のフツが、タケミカヅチと関わりをもったのは、
中臣氏(鹿島神)への服従もあると思う。

しかし、本来の意味は「断ち切る」ことだったが、
物部氏は、蝦夷征伐に翻弄する。


「熊」「猪」の名前から、
古来は動物のトーテムで呼んでいたので、
不思議ではないけれど、

熊や猪の動物となれば・・・はるか遠い
アナトリアの文明と結びたくなる。

 

禹の石碑を探して珍道中だった時。

(禹は、また徐福の姿)


熊=中国の東胡=ツングース。

熊は、青銅器文化から神格化されていた。
鮭がよくとれるから。

それに対し、秦氏は、
狐=鉄文化。


青銅器文化から鉄文化への転換期とは、
熊から狐になる。


やはり最後は、ここにくる。

 



石巻に上陸した丸子の地。


そこには、いつも、鹿島の神がいる。

 

でも、本来の神は、大島だった。


巻石だった小さい島(被災した)に大島。

 

 

ここは、本来、大島神社だ。

=住吉神社(二ギハヤヒ)

 


彼らは、ここから北上し新たなヒタカミ建国へ。

 



再び、戻ってくることを約束したのだろう。

日本海~青森へ。ナガスネヒコ
太平洋~石巻へ。ニギハヤヒ

 

合流した。

海が運んだ記憶。

まだまだ丸子が伝えたいことがあるけれど、
あの出雲の夢を思いだす。

いくつもの箱を何度も何度も鍵であけて、
大きな扉の先にあった部屋は、空箱の展示室。

ベランダにでると、広い海が遠くにみえ、
家族だろうか、「潮干狩り」をしていた。

目の前に藁ぶきの家。
なんとも平和な風景をみて、

「これが出雲か」・・・と思った。

 

 

------------------------------------------------


石巻にある葛西氏の城だった「神取山城」

 


 



 

香取のかとりは、神をとる。

ここに出雲神があることは、不思議ではなかった。

 

 



神をとった、出雲を。
物部氏は、ここで断ち切った。

フツときった。

なぜだろう。

またここに戻りたいと丸子が、
そう言っているのかもしれない。

おしまい。