今日はスーパームーンというのですが、
ふと外をみたら、大きい!

 


ほんとに大きいぞー。
光っているぞー。

 



ちょっと写真をとってみた。ぼけた。
月を写真にとる時、ドキドキしませんか?ニヤニヤ

今日は午後、
少し大きめの地震があり、
池袋西武がスト。ガーン
帰省する時に、西武がなかったら泣きますよ。

デパ地下は残して・・・

なんて日だ!

そんな、ざわざわの日、
懲りずにパート2。コアラ

 

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卑弥呼といっても2000年以上も前?
とかなると、たくさんいたんでは?(←もうなんでもよくなった)

神も分霊というように、アニミズムな中で
卑弥呼という人は、先進的な人で、
人間性に長けていた、という勝手なイメージがあります。

勝手だな・・・

東北の伝説、伝承をみると、往々にして
新羅が追われている内容が多いです。

この時代、過去世、生きていた人が(ワタシダ)
この内容を読んだら潜在的に出てくるモノがあると思います。

しかし、八戸の新羅三郎の伝承があるように、
(だんぶり長者)
今にも乱闘が起きそうな緊迫した状況の時、
踊りや舞などで、その場を収束した話しがあります。

日本には笑いの文化がありますし、
世界中には、踊りや舞の芸能があります。

芸能で互いの和合を結び、迫害を受け屈辱もあっただろうけど、
未来の、また子どもたちのために理解し、受け入れる努力をした
先祖がいたことを、忘れてはなりません。

中世になると、神楽舞は敗者が行う場合もあり、
神社の神主を命じられている氏族もいます。

しかし、それらの鎮魂というのは、一族の遺伝的要素というものは、
関係なく、その土地を浄化することに至ると思うのです。
なぜなら、死者は、土に消えていくのだから。

さまようモノがあれば、その霊を舞でおさめただろう。

先祖を鬼にされ、
末裔は鬼の舞をさせられ、鬼退治を演じさせられる。

しかし、それを一緒に慰める。
慰めが、笑いの文化、芸能に発展したのだが、
その敬意が、今の日本は薄れているのかもしれない。

 

金庾信は、それを案じているのだ、と。

私はそう受け止めている。

 

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さて、謎の「イ」
いつも「飯」が繋がりますが、わかりません。

九州志賀島で発見された「漢倭奴国王」の金印は、
(2千年前のもの)


禹王が建国した夏王朝にも類似しているものがあるというが、
実際どういうものかは、わかりません。

 



共通するのは、取っ手は「蛇」で、
魚の意味がある内容の刻印だとか・・・?

ただ、この夏王朝があまりにも古く伝説となっているのですが、
中国では、禹王が建国したことにあり、
後の王朝が「殷(イン)」なのです。

邪馬台国と九州の共通点には、「猪」があった?
「イ」=「亥」が卑弥呼と関係するのだろうか?

徳島県には「猪鼻」の地名が3箇所もあるというのですが、
鼻は岬の意味ですけど、猪はなんでだろう?

たしか、イとよますのは、
漢倭奴国王の倭=「ナ」ではなく「イ」と読むとの説がありました。

謎は、神功皇后が、難波から新羅征伐に九州へ行ってますが、
神功皇后も新羅人(息長氏)で、海洋民族です。
なぜ、対立するのかは、神功皇后を卑弥呼の神話に重ねているのかもしれず。

「神功皇后が三国を治めた」という神話は、
卑弥呼がコムナリ連合を治めたことに、似ている。

この「コムナリ」というのは、百済語ときいた。

熊津(うんじゅ)という地名があり、「津」は、川で、
百済の言葉では「コムナリ」と呼ぶそうです。

コムナリ伽耶というのが、伽耶連合で、
これらを治めた(伽耶と倭国=九州)が邪馬台国であり、
卑弥呼であったという説です。

 

しかし、邪馬台国が九州に限っていたとは言い切れず。

「熊」が古代アジアでは神だったことにあると思います。
その熊の姿をしていたのは、禹王だった伝説もあるのです。

出雲が関係する理由には、青銅器があり、
夏王朝も青銅器文化が最も発達していたそうです。
いろいろ、このあたりはカテゴリで禹王についてのせてます。

 

 

人質となった金春秋

 

最後に、花郎(ファラン)の一人、金春秋の方ですが、

 


 

善徳女王が亡くなった年が647年とあります。
その年にこんなことがありました。

「新羅が金春秋らを遣わしてきた、金春秋を人質とする(日本書紀)」

とあり、花郎の金春秋が日本にきていました。

善徳女王の後の歴史では、

「647年新羅、真徳(ちんどく)女王即位
金春秋(後の武烈王)を倭国へ国情視察のため派遣する


金春秋は、自らが王になりたい為に、
倭国との友好を積極的に結んでいる
ことがみえるのです。

系譜をみるように、真徳女王をたてたのだと思います。
真徳女王の次(29代)が、金春秋が王になっていますから。

善徳女王の後に即位したのが、「真徳」で、
真だから同じ系譜と思うのですが、真徳をたてたのが、
金庾信と金春秋ということです。

しかし、それから新羅と倭国との関係が不安定になってくるのです。

人質とありますが、
遣新羅使として「高向玄理」という人がいて、
日本から新羅へ派遣されており、戻ってくる時に、

金春秋を人質として連れて来たという事。


翌年、金春秋は、今度は唐に派遣され手がらをたて、
昇進しているので、唐と新羅が同盟を結ぶために、
金春秋を向かわせたことになります。

 

それから、百済が新羅と唐に倒されるのです。

(660年百済滅亡)

百済滅亡のきっかけに金春秋の政治力、軍事力があった。
それが、花郎の強さだったのかもしれませんが。

 

これらの新羅と百済の関係が、そのまま日本に渡った氏族により、

対立を続けていくことに。

 

だから、聖徳太子は「和を以って」と言ったのだろう。

新羅は、主にペルシャ、ローマをルーツとしている人たちとされます。
交易が盛んだったからです。

 

例として

4、5世紀に登場する秦河勝、は、善徳女王より前ですが、
シルクロードを使って交易の民となり、
日本に先に渡来した弓月であるとすれば、
そんな弓月の元へ、渡来したかった伽耶、新羅人は多かったでしょう。

世阿弥が記した
『風姿花伝』第四にある内容に、秦河勝は、
摂津国難波浦から出航し、播磨国赤穂郡坂越浦(現在の兵庫県赤穂市坂越)へ
漂着した後、大避大明神(大荒大明神)となったとされている。


そのため、兵庫県赤穂市坂越で没したとする説がある。
坂越・大避神社はこの大避大明神を主祭神とし、
神社の神域である生島には秦河勝のものと伝えられる墓があるそうです。

 


※こちらは京都の大酒神社。
秦始皇帝を祀ると言う。

主神:弓月王(ゆんずきのきみ)、秦酒公(はたのさけきみ)
相殿:兄媛命(えひめ)、

弟媛命(おとひめ)=呉服女、漢織女、

京都へ行った時に参拝した所。

 

 

世阿弥は美少年だった?



世阿弥が美少年だった説は、いろいろ聞かれます。
そのため、時の将軍、足利義満(当時17歳?)
が、世阿弥に興味をもったそうです。
芸能は美ですから、よくある話かも・・・

能の元は、「申楽(猿楽)」にあり、
秦河勝が考案し、聖徳太子に舞をさせたといわれます。


※即興のこっけいな物まね言葉芸のこと。

 

※コトバンク(申楽)

新札往来(1367)上「新座・本座之田楽、并和州・江州猿楽」

聖徳太子が伽耶系の蘇我馬子?の蘇我氏であるとすれば、
彼もまた美少年だった?から、秦氏は舞をみたかったのかもしれない、
という妄想が、炸裂してしまう・・・。

しかも、今の能とは想像つかないのですが、
猿楽や能は、もっとテンポが今より2倍速も早く、
舞う人が歌うのを、後ろの楽器、笛や太鼓がそれに合わせて
奏でていたというのです。

今でいう、ヒップホップやラップに近いようなスタイル
だったのかもしれないという専門家の話し。

だから~
花郎みたいだな~。

男性が化粧をする、女性化することを受け入れていた時代、

化粧=化ける能力とは内在する力だった。
現代は、それが抑圧されていますね。

文化的な性は、男性も女性も関係ないことを、
過去から学ぶこともあるのでしょう。

また、芸能の女神といえば「弁財天」がそうです。
サラスバティーは、インドの女神。

 

※12世紀のサラスバティー

日本は、弁財天信仰が非常に多いのですが、
秦氏は、それを「イチキシマヒメ」と呼ぶのです。

 

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そーゆーことで、いろいろ考察はできると思うのですが、
アジアの古代史は、ひとつの国では説明できません。
アジア全体で「ひとくくりにする」
そんな世界をもう一度、紐解いてみると、雄大すぎます。

アニメや漫画、ドラマ、映画などで
アジアの歴史が若い人たちに受け入れられる時代へ。

あっぱれ。

これにて、韓国の歴史はおしま~い。

せっかくなので、日本に渡来した仏像について、
蘇我氏が伽耶系であることについても、
言及されていたので、そのへんを紹介しておきます。

 

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※宮城県川崎町にひそかに祀られている新羅の石碑があります。

ここは、八戸に逃れた新羅三郎の伝説があり、

新羅人を数十名住まわせ、ここから八戸へ向かったという。