前回のつづきです。

 

まさかね~、
何も知らないでいったところが一番ヒットする。
こんなに長い妄想になるとは。

 

 

 

イルカの海民とは

 


日本海らしいお話です。

旦飯野神社(あさいいのじんじゃ)が八幡神であるのは、
神功皇后の三韓征伐があります。

旦飯野神社の由縁に、
「角鹿笥飯大神、飯津神を祭れば汝の里に百姓また種物が出来る」
との御教によって、旦飯野神社と号し、奉祭したことによります。

 



角鹿笥飯大神は、
気比神宮と関係する食=ケ、霊=ヒでした。
別称は「伊奢沙別命(いざさわけのみこと)」。

『古事記』に、伊奢沙別命(イザサワケ)が皇子に名を交換しようと言う。
そのことを最初に告げたのが「武内宿禰」
となっており、その宿禰の夢枕に現れるのが、イザサワケです。

※以下カタカナで表記します。

そして、名を変えた話から、
こんな続きがあります。

「御子と名の交換をしたい」とイザサワケが言います。

建内(武内)宿禰、「恐れ畏み「意のままに」」

イザサワケ 「翌朝、浜に来なさい」

その通り、建内宿禰と御子が浜に行ってみると、
鼻がつぶれたイルカが大量に打ち上げられていました。」

 

※クノッソス宮殿 イルカの壁画


ということで、「イルカの鼻」が登場。

鼻がつぶれた、という描写とそうでないのがあるのですが、
ここは「イルカの鼻」とします。

「鼻」とは?
これは、「端」のこと。
つまり、岬です。


例:宮城県の鼻節神社(猿田彦)の「鼻節」とは、
岬の端のことです。

また徳島県にも「猪の鼻」の地名が多く、
端の意味があります。

そして、浜にイルカがいたことから、
このイルカを普通にイルカとみるか、
人物でみるのか。

 

 

伝統のイルカ漁

 

イルカを見せられた宿禰と皇子。

イルカと関わりをもっていたイザサワケがいることに。

この話はとても興味深い話で、
イルカや鯨などの哺乳類と人類の関係は、
かなり古くからの伝統漁があります。

それは、「追いこみ漁」というもの。

イルカを追いこみ捕獲する方法で、
槍などの道具は使わないそうです。

専門家の意見では、追いこんだ時に、槍などの道具を使って
いたかもしれないとの事。

イルカ漁と検索すると、
動物保護団体の反対運動のサイトばかりになりますが。

さて、そんなイルカをみた宿禰と皇子。
この浜には、たくさんのイルカがいるのだな~!
と、感じたのかどーだか。

日本海の縄文といったら真脇です。

「イルカ漁のムラ」と言われる「真脇遺跡」

前期末葉から中期初頭にかけての地層から、
大量のイルカの骨が発見されています。

 

※赤点・・真脇遺跡

真脇遺跡にイルカが多い理由は、

「真脇遺跡の面する富山湾では対馬海流の分岐流が流れ込んでいるため
そこに集まる魚やイカを追って真脇の辺りにもイルカの群れが
やってきたと考えられているとの事。


イルカ漁もイオマンテのように祭のシンボルとして
丸太を使っていたかもしれないという事も。

※真脇遺跡のサイトより

 

環状木柱列



やはり、古くからの日本海ルートを考えると、
船にのったら自然と対馬暖流にのってれば、青森県に到着する。

それは、「イルカを追っていた?」こともあるのでしょうか…

青森県諏訪神社、
通称「イルカ神社」


古来より「祭日に海豚が群れをなして堤川をのぼり参詣する」

という話がありました。

 

※イルカねぶた

 

 

そう、真脇遺跡と同じく青森の湾内に、
イルカが集まっていた。

 

 

ごちゃごちゃと情報を入れてますが、

黄色い○が、イルカがいた湾。

ここにぐるっと集まってくるわけですね。

 

イルカと同じく
鯨漁の古くは、バイキングです!
ノルウェー9世紀頃。

 



こんな船ですから~
芸術ですよね~。

 

※ノルウェーの代表する船(古代)

バイキングは日本にも渡来してますので船葬と思わす伝承があります。(気仙沼など)

さて、イルカが地名由来になっているほどだから、
イルカとは、そのかわいいイルカなのでしょうか・・・

これを神話で読み解くと、ある神が登場。

「事代主」

でた。真顔

 

 

イザサの神は安曇磯良?

 

 

人物でみると、恵比寿・事代主。

 

※気仙沼のえべっさん

思いだしたのは、栃木県の八幡宮で見かけたモノ。

ここも八幡です。
ここでみつけた「宝船」七福神。
チームジョフク(徐福)が大量に渡来したことを示している神々のような〜。

 



その中にイルカがおります。

 

 

「海豚恵比寿(イルカえびす)」

八幡宮本殿にイルカの骨が発見!!とあった。

真脇遺跡と同じです。

 

この場所は、下野薬師寺跡があった所です。

天武天皇の時代、古代の薬師寺として古い。

道鏡が左遷された所でもあり、偶然、いったのには、驚いた。

 


八幡神の特徴に、イルカが?

ということは、イザサの神は、

出雲族(アジスキタカヒコネの鴨家)か
安曇氏(安曇磯良)では?


「海豚恵比寿」
イルカとエビス。

陸のハンターは、狼
海のハンターは、イルカ。

 

これが、けっこう、繋がる。

エビスの漢字は「戎・夷」と書く場合があり、
戎は「いましめる」という意味をもつ。
未開の人という意味もあるのですが、

これを用いている神社といえば・・・

難波!

きたよ~。
またここに戻ってきたよ~。
しつこいよ~。www

毎度、こっちに目を向けられてますよね。

難波のここも、
「予定外」の神社だったので、いまだにここがヒットする。

この「戎」の漢字を用いて祀っている神社といえば、
「御幸森神社にある御幸戎神社

 

 

忍坂皇子を唯一祀っているという。
難波といえば「仁徳天皇」

※旦飯野神社の応神天皇の皇子(大山守皇子)は、
仁徳天皇の皇子とは異母兄弟。

この漢字を用いているのは珍しい。

 



これは、安曇磯良と思います。
イソラのことです。
ふりかえるとそうなっている。

だから、志賀海のシカに繋がると思います。
イザサワケの正体は、安曇磯良と同一とは
言いけれないけど、安曇氏に深い関わりのある人ではないでしょうか?

というのは、気比神宮の『気比宮社記』によると、

「仲哀天皇の時に神功皇后が三韓征伐出兵にあたって
気比神に祈願をすると、海神を祀るように神託があり、
皇后は穴門に向かう途中で海神から干・満の珠を得た。

そして仲哀天皇8年3月に神功皇后と武内宿禰が
安曇連に命じて気比神を祀らせたといい、
これが神宮の創建になるとしている。

またこの時、気比大神は玉姫命に神憑りして
三韓征伐の成功を再び神託したとも伝える。」


名を変えた(or魚を献上した)ことが、「ケヒ」の神となり、
海藻などの食べ物も含まれているとすれば、
宿禰にイルカを献上したイザサワケは、

安曇氏との関わりをもっていたと読める。

ちなみに、ワカメは名取郡でも古くから献上してました。
(奈良時代だったかな)

安曇連は、太平洋側のルートがメインと聞きます。
瀬戸内海から関東へ。

それに、共通するのは、栃木の八幡宮も御幸森も
また、恵比寿のいるところに「菅原道真公」を祀っていることです。

 



菅原道真は、優秀な航海技術者だったそうです。

また、ここにも玉依姫がいます。

息長氏も。

さて、なぜ、難波が繋がるのかは、
古代の大港だったからです。

 

※津名道代著『トベ達の悲歌』

難波は、かつてはとてもにぎわった「津」でした。

西では「茅渟」は「黒鯛(ちぬ)」といった。

 

716年からすでに記録がある黒鯛。

なので、恵比寿さんは鯛をもっている。

「防人(さきもり)」というのが九州の方にありました。

防人とは、国防の前線に立つ駐屯兵のことで、
東国の農民が当てられ3年の任期で壱岐や対馬の守りについたという。

選ばれた防人たちは、国司に連れられ難波津(大阪)に集合し、
船に乗り九州の太宰府へ来たそうです。

そこで訓練を受け、筑紫・壱岐・対馬へと配備されたとされる。

 

 

海豚(イルカ)と猪は同じ?

 

ということなので、人物でみるとすれば、

事代主や恵比寿の信仰があり、

それが安曇磯良と繋がる理由は、こちらに書いてました。(限定)

 



亀の甲羅と松の模様(蛇松神社)のこともそうですが、
亀と蛇→ウロボロス思想があります。

 

蛇が「波にみえる」ことからうねっている様子を重ね、
そこから蛇=海蛇信仰になった説もあります。

 

 

「北方の玄武、甲殻類の長である

 

海老やカニの伝説が東北に多いのですが、

赤色の甲羅をもつものが特徴。

 

例えば、カニが登場する伝説をよめば、

蟹と思いがちですが、

カニモリ」という
出雲の斐川にある加毛利神社と思われ、
「蟹守」という職(清掃する)に変化したという。

 

海老も恵比寿というように、

出雲族の人をさす?他の民の別称として、蟹や海老という言葉で現わしていると思うのです。

 

イルカを海豚と書くのは、中国なのですが「豚に似ている」というのですね。

それが有力な説というのですが、イルカが豚に似ているとは、

私は思えないけどな~。

 

おそらく、「豚は猪」だったからでしょう。

豚=猪だから、海豚は、猪でもある。

どーいうこと?

 

中国では、豚を家畜にしていましたが、

元は野生の猪を飼いならして豚になったというので、

生物学的に同じらしいのです。

なので、中国では、豚を猪とも言うのです。

 

秩父では猪鍋(ししなべ)が有名なんですが、

山民の御馳走なのです。

 

動物を「肉(しし)」として霊魂を捧げる風習があったのですが、

そうでない風習をもつ民は当然いて、

ワカメなどの海藻類が消化できない欧米人が多いので、

合わないこともあったと思います。

 

仁徳天皇は、肉食ではなかったのか?

佐伯氏が「猪の地名に住んでいる人たち」だったのですが、

鹿を殺して貢納したことがあり、

仁徳天皇が激怒して安芸に遠ざけた、という話があります。

 

鹿は、いろいろな意味が含まれていますね。・・・


たぶん、食べるための家畜を野蛮とみたユダヤがいたのですね。なので、食文化を変えたかったのでは?

鹿は、諏訪の御頭祭や、鹿のナフタリ族がいるように、

家畜ではなく神聖な動物です。

 

動物、海のほ乳類を食肉としていた狩猟の民に対し、

「稲」を常食とした人の違い、という事になるでしょう。

 

そんなことで、食の神とは、

狩猟の民(肉食)を主にしていた風習→イザサワケという先住の海民

から、稲に食をかえて文化も変えた→応神天皇の八幡神

 

ということを伝えている伝承と思います。

 

ちなみに、

 

イザサを「伊の笹」ということもあるというので、

イの国。
阿波国です。

倭国は「イ」と呼んだ説。

 

これもイルカということに・・・ごり押し。コアラ

---------------------------------

深い、新潟探訪ですね。
こんな風に繋がるのも、何か伝えたいことがあるから、と思います。

まあ、妄想ですので、
違う世界もあると思います~。

イルカミッション終了。イルカ

まだ旅の記録はつづく。
また北へ。
一番暑かった新発田市へGO。