行きも帰りも同じルートでしたが、
ここの神社は、帰りにたちよりました。
主人がみつけた神社。
「パワースポットで評価もいいよ」
というのですが・・・
聞いたことがない「旦」の「飯野」とは・・・
「旦飯野神社=あさいいのじんじゃ」とよみます。
(日がのぼる神?)
場所は、阿賀野市。
新潟市から北へ。
阿賀野市は「五頭山」登山ができる所です。
白鳥飛来の「瓢湖」などがあります。
旦飯野神社の由縁
通常、神社の入口に看板などの由縁が書かれた
説明があるものですが、何もないので
情報がよくわからないまま参拝。
ご祈祷されている方がおり、
駐車場にも平日の月曜なのに、
県外ナンバーも見られ、若い方が多かったです。
安産の神様や子宝に恵まれるとして、
知られている神社のようです。
「延喜式内」とあるので、古くからの由縁があり。
御祭神:誉田天皇(ほむたのすめらみこと)=応神天皇
創建由来は、
御宇元年(391年)8月15日に大山守皇子へ貢米を奉った際に
「角鹿笥飯大神、飯津神を祭れば汝の里に百姓また種物が出来る」
との御教によって、旦飯野神社と号し、奉祭したことによります。
長野麿(神官の大祖)なるものが、応神天皇(第15代天皇)の
御弓、御衣、御石を祀ったとされる八幡宮であり、
日常生活に根ざした諸願成就の神様です。」
由縁にある内容については、後で説明します。
「社殿の裏にある直径1.5メートルほどの大きな「御神霊石」は
神様が宿る石として、触れると神様の御力が授かるとされています。
邪気を祓い、災難を消除し、様々なご利益があるといわれ、
旦飯野神社の神様の御恵を感じることができます。
また、人の手を一切加えていない天然のままの丸い形状は、
妊婦のおなかにも似ており、触れた後に「子を授かった」
という声も聞かれます。」
消毒液が・・・
2つも置いてあった・・・
写真だけ撮らせて頂く。
御神池。
粟嶋神社、三輪神社、香椎宮の三神を祀る。
粟島は、スクナヒコで女性の信仰を集めています。
(福島県に多い)
こちらは、雷神。
左:伊夜彦神と薬の神。
右は、コノハナサクヤヒメになっていたので、ヤマツミです。
石が多いですね。
詳しくは、こちらを。
ケヒ=食の霊
ということで、鎮守の森の雰囲気は
きれいに整っており、気持ち良かったです。
さて、神社の話しではなく、歴史を。
何も知らない、あまりピンとこない神社こそ、
隠された深い歴史があるのです。
家に帰ってから調べたら、
ばんばん繋がりすぎてまとめられません。
久しぶりにドーパミンはじけました。
郷土史はわかりませんので、
ネット情報のみで。
由縁にある「角鹿笥飯大神」がわからないので、
調べてみたら、日本海らしい歴史です。
何かが隠されている気がする~。
考察してみます・・・
由縁にあった
「大山守皇子」とは、応神天皇の皇子。
仁徳天皇・菟道稚郎子の異母兄に当たる。(大山守命とも)
「角鹿笥飯大神」という名は、気比大神のことで、
日本書紀では『笥飯大神』と記している。
気比大神は、
福井県敦賀市にある気比神宮、「笥飯宮跡」とし、
角鹿の発祥と言われる。
応神天皇と深い関わりがあるという。
※気比の松原(wikipedia)
人物より「食」の意味がありそう。
「ケヒ」から「ケ」=飯(食べ物)
に転じたと思いますが、
「御食津(ミケツ)」の意味もあったので、
津というのは港。
稲という食文化をもたらした海民がいたと考えます。
※熊野のケツミコとも同じ。
そして、この津が「難波」に繋がりそうなのですが、
そこまでまとめられるかわかりません。
稲がもたらされる前の
それ以前は、狩猟がメイン(海と山の)焼畑農業など、
大陸から稲作文化が広まり、日本へ上陸した際に、
穀物などの種をもたらした稲=稲荷=ウカノミタマ信仰もあるわけです。
日本海には「遠賀式土器」(弥生時代)が青森まで
広がっていますので、東北地方にも早くに
稲作があった説もあります。
※(『海から読み解く日本古代史』)
植民地化するためには、
まず先に食文化を変えます。
(定住するためには、稲作と水の確保が必要)
ウカも同じく「食」の意味があります。
ウケとウカも同じ意味と考え、
食=ケ、霊=ヒ→「ケヒ」
食物を貯蔵する倉庫があったと思います。
飯津神は、ウケモチやウカノミタマなどの
同じく「食」の神様と思います。
それをもたらしたのが、日本海航海ルートの出雲があったと思い、
出雲族の海民。九州~出雲~青森。
なので、青森でも「ケ」は「食べる」意味がありますね。
国学院大学の古典文学のサイトよれば、
「ケヒという語は宮廷に海産物を朝貢する海人部
がいた土地を指しているとする説」
ということで、今、日本の食が危険だからこそ、
繋がる「食の神様」なのかもしれません。
ここは食べ物の神様がいたと思いますので、
食を扱っている方などには、おすすめの神社と思います。
イサザワケの神
ここでまた新たな神が登場。
旦飯野神社が気比神宮と繋がっていることから、
「イザサワケ命」という人が重要なカギになります。
気比神宮の配神とされていますが、
旦飯野神社由来にあるホムタワケ(ホンダワケ)の皇子ですが、
皇子をつれてきた(敦賀あたり)のは武内宿禰であり、
「皇子とイザサワケの名を交換した」と『古事記』で言われる。
交換して、と言ったのは、イザサワケの方。
皇子は名を「イザサワケ大神」とし、
この大神を食料を供献する「御食津神」→丹飯野神社の神
と名づけ、それが気比大神のこと。
気比大神の別称が「伊奢沙別命(いざさわけのみこと)」
伊奢沙別命(伊奢沙和気命)=気比大神=御食津神。
これを素直に読むと、
名を変えた皇子の前に「イザサワケ命」という人がいたことに。
イザサ「ワケ」
応神天皇はホムタ「ワケ」
ワケは男性の呼称ですが、
イザサとは?
①イザ=誘い、促し、「サ」は稲。
②保食神(ウケモチノカミ)
③敦賀の海産物朝貢地のためそれが反映されて在地の神となる
④海人族の守り神
⑤新羅のアメノヒボコの神宝(太刀)のこと
と、いろいろな説。
詳しいことは、後で繋がった時にでもかきますが、
⑤が新羅王=アメノヒボコ=ツヌガアラシヒト。
この方は難波に上陸しているから、難波にも関係すると思います。
しかし、別説では、
名ではなく「魚」のことを「ナ」と言ったので、
魚を献上した意味ではないか、の説もあったり。
であれば、イザサワケ命は皇子に魚を献上したことになる。
大和政権の交代に重要な儀式であったこと。
先住の海民(出雲かもしれず)から八幡神(ヤハウェへ)
だから、出雲族は東北へ逃れた(東北の地で生きるために)
すると海の海産物をみにえとして奉納していた海民と、
その麻をもって祈祷していた忌部も関係します。
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ところで、角鹿の地名由来については、
「都怒我阿羅斯等(ツヌガアラシト)」から由来している
と思ったのですが、
『古事記』に、「イルカの(鼻)の血」から「血浦」
から「ツヌガ」になった説がありました。
この「鼻」も後で繋がります。
『日本書紀』では、角があった人から角鹿。
これは、すべてあてはまると思います。
鹿もそうですが、
志賀海のシカであることも、繋がっていくのです。
つまりは、この神社由来の背景には、
海人族がいた後に渡来人がやってきて、
稲文化を広めたことになっていると思うわけで、
その先住の民というのが・・・
「イルカ」だった?
長くなりますね~。
つづく