徐福が好きすぎて、なまはげが登場。
この時期になると、いつもなまはげを思いだす。ニヤニヤ

なんでだろう~と調べたら、
お祭りが2月だったのね!指差し

1月にやっていると思っていた。
2月の第二土曜日に開催されるとの事。

 

 

 


秋田のなまはげ伝承のある地にも、
徐福伝説があります。

他は、青森県。
(後で説明します)

北東北の日本海といえば、
出雲のルートですよね。

徐福一族は、東北まで広がっていることが、
あってもおかしくありません。

 

前回の続きとします~。

 

 

和歌山県新宮市には、徐福の墓があります。

 

 

 

「秦徐福之墓」

 

 

 

 



『ロマンの人・徐福』に、

「日本に渡った一行も後難をおそれて、
秦、羽田、畑、波多などなど、徐姓を名乗っていない」

ということで、全部、ハタさん。
かえって目立つでしょ~ぅ。てへぺろ

畑と畠も同じなので、
畠山重忠の武将も、秦系だと思うが。
だから九州の卑弥呼を祀るわけか。

それに、秩父は思兼命(アマノコヤネ系)
の秩父神社があり、機織を奨励してきた地だから、
畠山氏も秦氏(徐福)崇拝があったのですね・・・(なっとく)

 

 

  アテルイとモレの「ハタ」

 

ということを考えると、アテルイとモレの慰霊碑がある
「出羽神社(イデハ)」もそうですね。(岩手県水沢市)

 



地名は、羽田地区。
タタラ場は、大体「羽」が多い気がする。

 

地名は羽田町。

水沢のことを「ミッサ」と呼んでいたので、
水沢になったとの事(高橋富雄先生説)

羽黒神社で、
祭神がウカノミタマなのだから、秦氏(徐福)の痕跡。

他、愛宕神社がある。

 

奥州の蝦夷である悪路王を攻めて勝利をしたので、
羽黒権現を祀ったとあります。

 



「この地点で、10個の柱穴跡、
石囲炉跡、土師器、鉄製品、などの出土が報告されました。

発見された柱穴跡について、
古代の烽火台(のろしだい)跡や物見櫓跡と期待が
もたれましたが、確定までには至りませんでした。」

 

※アテルイとモレイの慰霊碑

紀州熊野新宮市にあった阿須賀神社が、
途中で「飛鳥」とも呼ばれていた。

「熊野川のすぐそば」です。

すると、同じように、
名取熊野三社にも、飛鳥の地名があります。

 

※飛鳥・飛鳥上・中・下・西とある。

古来は、名取川がもっと南下していたと考えられ、
川沿いに、飛鳥の地名が置かれたかもしれず。


名取熊野新宮は飛鳥明神を祀っているとの事ですが、
棟札がずら~と大量に社務所に置かれているのを

たまたまみかけまして、それがみんな、飛鳥神社だったのです。

 

阿須賀から飛鳥に変えている理由はわかりませんが、

年代では、1600年代から「飛鳥」が一般的になっているようです。

 



秋田県鹿角市にも、飛鳥明神が祀られ、(↑)
やはり、昔は湿地帯で「船着き場」だったとの事。

 

 

大日堂舞楽の駒舞の馬頭を御駒様として、
納めて置くところです。

 

この上にもタタラ場があったそうです。

 

(かつては集落があった)

つまり、飛鳥(阿須賀)の地名は、徐福一行が
上陸した地から由来しているとも言える。

住吉神とあるので、大歳神では?
大歳神=二ギハヤヒ=徐福
という説が多いが、どうなのかなぁ。

徐福は富士山にもいっているので、
ナガスネヒコを追っているから、
二ギハヤヒ説になるのでしょうか?

炭鉱の地(金が多くとれた)所に、
出羽や羽黒、蜂子皇子などの伝承があるため、
もちろん、ヤタガラスも。

奥州藤原氏が代々庇護しているお寺も鹿角の
吉祥寺がそうであった。
あの「だんぶり長者」

徐福=秦氏は秋田物部氏を、

バックアップしていたことは確かでしょう。

阿部氏もしかり。

 

ということで、「だんぶり長者」(トンボとお酒)は、
金をもっていた長者になるのだけど、

 

※大日堂神楽(黄金マスクは、金がとれたことから)

八戸にも似たような話があり、
こっちは「えんぶり」です。
鳥の頭になってフルフルします(一説には大地を震わす意味)

 



新羅三郎という人が、争いになりそうな雰囲気になったのを、

唄と踊りで場を和ませたことから由来。

 

 

※八戸市新羅神社(えんぶりの祭は最初にここで神事を行う)

 

(長者山)

それは、猿楽(申楽)であったと思い、
舞で争いを鎮める発想は、秦氏そのものです。
後の「能」です。

 

マイムマイムとは違う?ニヤニヤ

 

※秦河勝。

オーラがいろんな色をもっている風にしてみた。

 

起源は、紫宸殿にて上宮太子(聖徳太子)の前で舞わせたものが
「申楽」のはじまりであると『風姿花伝』に記されている。

 



源義光は、源氏ですから、
能は、大体、平家が亡霊(シテ)になる語りが多い。

しかし、現在は、異なった解釈が流行してしまい、

本来、悪神の「ご機嫌とり」をするために、
「唄や三味線をつかって疱瘡神をたたえる」
ことが起源であったのを、

人(相手や敵)に対して行われる祭りになった事がある。
相手のご機嫌をとって、だましてきた。

ということで、もう少し、秋田と青森の

徐福伝説を追ってみます。

 

 

  秋田県男鹿半島の徐福伝説

 

簡単に、男鹿半島の徐福伝説を。


本当に上陸したのかは、別として、
言い伝えとして共通すること。

・五帝(五色人種)
・柴灯祭りが熊野神倉神社の御燈祭りと似ている。

 



999段の階段の伝説は有名です。(↑)
(鶏が鳴いて中断した)

ここにきた時、5つの社が宇宙の電波塔にみえて・・・

 

(イメージ)


宇宙と交信していると思った。
変な雲があったので、間違いなし・・・キョロキョロ

 

 

宇宙からも見えていると思われる五社壇。

もちろん海のすぐそばですから
「上陸する船を偵察する灯台」であった可能性大。


菅江真澄が描いたスケッチより
中央の○のところに「徐福塚」描かれている。

 



「古、渤海及び鉄利の人一千百余人が吾国を慕い来て
出羽国に置き、衣食を給して還したと続日本紀にある。

その異国の人たちがこの処にいった頃、
武帝の廟或いは大保田村の
蘇武塚や、この徐福の塚など、その当時祭ったのかもしれぬ」


門前に伝わる徐福伝説を後世に伝えようと、
真澄の図絵を参考にこの地に産する門前石で、
徐福塚を復元しています。

 

たしか、これがそうだったと思う。

この説ですと、
九州~紀州~日本海へ。
たぶん、出雲が拠点にしていた港(敦賀)=ツヌガアラシヒト
がいたから→青森方面へ?

福井県は「羽」の聖地ですよね!UFO

しかも、男鹿半島のこれを「舞台島」と呼ぶのですが
(パンフレットの写真より)

 

 

 

 



※漢の武帝が舞台島に降りたち、巫女に舞をさせた伝承。

 

そーいえば、名取熊野新宮付近の飛鳥の地名の他、
「舞台」の地名があった・・・。

 

舞台上、中、下。

偶然なのだろうか・・・
まあ、紀州熊野新宮(速玉大社)に模しているから、
そうなると思うが。

もう徐福=熊野と言っているような。

 

男鹿半島の五社壇についてはこちらを参考に。

 

 


最後に、青森の徐福さんを。

 

 

  青森県小泊町の徐福伝説

 

小さな村ですが、小泊岬の頂上
尾崎神社があり、その南麓の海岸下の部落に熊野神社があります。

地元の伝承によれば、
「尾崎神社は、源平時代の元暦(1184年)の頃、
阿部一族を頼って紀州から来た尾崎一族が、
この地方に住みつき、熊野大権現を祀ったという。」

 



※徐福像:青森県北津軽郡中泊町大字小泊字下前
(津軽半島観光アテンダントより)

「文禄年間に尾崎豊隆が紀州の那智大社の宮司となり、
後に津軽に帰り、熊野権現の神徳を広めた。
その子孫が今日まで神官を継承している。」


尾崎神社には、木像の徐福像があり(高さ25センチ)
現在下の熊野神社に安置されているそうです。

 

写真が本にのってまして、
お顔がとても凛々しくて大陸系かな~と思います。

 



※赤い点線部分が、小泊地域。
十三湖に近い!

 




また、
「徐福は、紀州熊野についたが、徐福が乗った船は
風浪のため、津軽の下前に漂着した。

しかし、徐福は中国に帰って死んだといわれた為、
子孫が1711年に下前に渡来して定着したと。
その時、徐福像と観音像を持参したという。
そして、飛龍大権現(那智大滝)と称した。」


もうひとつの説として、

「その木像は、
最初は、紀州新宮市の阿須賀神社に寛永時代まで
あったのを誰かが、小泊へ持っていたのでは?」

というのだ。

 

ほんとに、ロマンの徐福~。雪

 

※熊野那智滝

 

「この那智山には、
大国主命並びに、いざなみの命をお祀していたのですが
仁徳天皇の御代(5年)に社殿を新築した際熊野の神々、
即ち十二所を合祀しました。

 

この熊野大神十二所を遷した時の行事が
「扇祭」または「火まつり」として伝えられています。」

 

 

 

 



ということで、長い徐福妄想でしたが、
徐福は不老不死として名を残すように、
薬師如来=スクナヒコと同一になっています。

大国主(出雲)と関わりをもった神話は、
新たな開拓を求めてやってきた少名彦命が、
徐福の渡来神話とされ、出雲族と霊的な公約を結び
新しい国家に貢献しようとしていたことが想像できます。

 

※『日本国開闢由来記』巻一より波に乗ってオオナムチ(大国主)

の前に出現したスクナビコナ(右上)

しかし、それに反対する者もいたと思うので、
反対する出雲族は北東北へのがれ、元来の縄文精神を
受け継いでいったのだと思います。

 

 

なので、オオナムチや大国主信仰が

東北には多いのです。

 

そのことをいつまでも、出羽と熊野が継承していると思えば、

東北の精神性も、縄文と弥生のバランスがあってのこと。

 

しかし、縄文時代、東北は広く分布していたので、

その縄文的な精神というような宇宙思想、ユダのもつ部分は、

西日本よりは強かったと思います。

 

※熊野灘

長々とありがとうございました。