会津から帰りは、喜多方ラーメン飛び出すハート

が食べたくなり、
喜多方~米沢~七ヶ宿~仙台のルートで帰ることに。

ラーメンの近くに、塞神がありました。

 



佐牟乃神社

 



佐牟乃神社の創建年代等は不詳ながら、
小名大小田付に鎮座していた当社を、
百姓神明総兵衛が当地へ遷座したといいます。

 



三神というのは・・・ちょっと三島を思いだした。

喜多方は、三島神を多く祀っています。

 



大三島の最もな神といえば、大山祇神社

大山祇神社の宝物館は、
日本に現存する国宝、文化財級の甲冑や太刀などが、
40%も集まっているという。


ここに奥州鍛冶の太刀や甲冑などが
大量に集まっているという話し。


詳細は、こちらを参考に。

 

 


越智氏は、伊予国の大豪族。

といえば~、

伊達藩が登場するわけで。



■美しい飯豊山の伝説


やっぱり、飯豊山が素晴らしい~。

 



飯豊山は、遠くて幻想の山。

飯豊山地は、「山容飯を豊かに盛るが如き」と表現され、
これが飯豊の語源になっているとの事。

若松城主となった蒲生氏郷が、
蓮華寺の僧宥明に命じて
廃絶していた参詣道を整備させている。

とにかく飯豊山信仰は、深すぎですね。

やっぱ、私にはマタギが気になる。
小国のマタギ。ニヤリ

すごいんださー。

阿仁マタギが東北各地をまたに掛け、
狩猟技術を伝えたことから「マタギ」
と呼ばれるようになったのではないか、

 

という説もあるそうです。


マタギの世界では、
「12」という数字をあちらこちらで耳にします。

12人で山に入るのは縁起が悪いといい、
どうしても12人になってしまう場合は、


山の神様が加わると13人になるから大丈夫」


などと話す人もいるそうです。

は~、13人の権現みたいな。

 

 
 


やっぱり、地元の人にとっては、
大事な聖なる山ですから、

揉めるんですよ・・・真顔

「県堺」で。

県堺は、「水脈で切る」と言われます。


どうやって決めているのかわかりませんが、
飯豊山のように広大な山ですと、
どこで県堺を設けるのか、難しいですよね。

wikipediaより
明治時代の廃藩置県で、


それまで会津の一部であった
飯豊山の奥宮が、
「新潟県」東蒲原郡実川村(現・阿賀町)に
編入されることになる。


これに大反対したのが、
耶麻郡一ノ木村(現・喜多方市)。


結果、
参道にあたる登山道および
山頂を再び福島県にすることで決着した結果となり、
いびつな県堺だと言われている。


それほどまでに、奥の院は、喜多方・会津だ!
と主張したかった。

 

・・・そこが「耶麻」地区であることが、

気になった。

 

ヤマですよ。

ヤマ・・・・タイ・・・・

 

てか、やっぱ、会津の人も強いね・・・笑

 

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さて、物部氏も関係している山ですが、

宮城県の鳴瀬川の近くに
飯豊神社(いいとよじんじゃ)があります。

 

 

 

※鳴瀬川

この神社にもイワクラがあり、
養蚕の石碑もありました。

 

 

 



だいたい、石(イワクラ)と養蚕はセットです。


「飯豊」には、興味深い意味があり、

飯豊とは「いひとよ」とよみ、
古語で「フクロウ」の意味をもつ。


フクロウは、古ヨーロッパでは土器に鳥の象徴として
フクロウが多く用いられ、

夜を司る鳥として、他の鳥とは違った伝承があります。

そのため、月と結びつけられる場合もあり
女神(母系社会)を象徴とした鳥にもなっている。

(イナンナですよね)

福島県の飯豊山は、役小角が「飯豊」という
名前をつけたと言われます。


山頂に5神の王子を立てたと伝わりますが、
五子王は、「越王(こしおう)」がなまったらしい。

おそらく役小角が「飯豊」と名付けたのは、
「忍海部女王」という人がいて、
「おしぬみ」とよぶが、

葛城内にある地名からきていると思われる。

ものづくりに関わる渡来人の集団です。

同じ名前に

「飯豊青皇女(いいとよあおのひめみこ)」がいます。

『陸奥国風土記』より、

陸奥の国の風土記に曰はく、白川の郡。
飯豊山。此の山は、豊岡姫命(とよおかひめのみこと)
の忌庭(ゆには)なり。


又、飯豊青尊、物部臣をして
御幣を奉らしめたまひき。

故、山の名と為す。」

※豊岡姫=豊受大神


飯豊青尊は、皇女のことと思う。

 

「青」ですね~。

5世紀末、清寧天皇の後、
飯豊天皇となった時代が少しだけあったそうだが、

崩御後、時期天皇に誰が相応しいかを

占っていた巫女だったという。

しかし、忍海部女王という人もいて、
二人の人物が関わっているところから、
巫女だったかどうかよくわかりません。


桓武天皇の時代、それまでは上毛野氏が
陸奥へ開拓にやっていたが、

エミシと、なーなーの関係になっていたので、
坂上田村麻呂が、上毛野氏を都へ戻し、
代わりに、物部の名をもつ2名を使わせたことがある。

蝦夷語がわかったから、ともいうが、
タタラ製鉄だったわけですよ。

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また、
飯豊がフクロウとすれば、
洪水伝説と結びつけられているようだ。



【スマトラ島のバタク族の伝説】

ナガ=ポダハヘビという蛇が
頭を揺すると地震がおこるので、
神は娘を下界に降ろした。

娘は、その時一羽の白いフクロウに乗り、
一匹の犬をお供にやってくる。

しかし、下りようとしても「陸がない」
そのため、「バッカラ山を天からおろしそこに降りた。」

 


こーいう感じ?


※ガフールの伝説より
(C)2010 VILLAGE ROADSHOW FILMS (BVI) LIMITED

 

■不思議な円仁(慈覚大師)の夢

話変わりますが、

不思議な夢をみました。


東北は、天台宗が多いです。


7月に入ってみた夢だったか、
先月末だったか、忘れたけど、

知らない住宅街を歩いていると、
まあまあ立派なお寺の門がありました。

 

あ、そうそう空に何か飛んでました。

そのお寺みたいな所へ向かっているのですが、
ぞろぞろと身長が2m以上はある巨人が
本堂から出て来ました。

門をくぐると、観光ガイドのような女性が
看板の前で説明しているのですね。

そばを通ったら

「円仁は、はしはかおう の子です」

と、聞こえた。

・・はしはかおう、・・・王?


すごく気になって、話を聞いてみたいと思ったけど、
帰らなければならないので、後ろ髪ひかれる思いで
帰る夢でした。

黄泉の世界っというか何なのか、

知らない町へ行っている時、

早く帰らないと、と思うんですね。

 

だから、ゆっくりいられないのです。

それがいつも残念。

 

それ以上は、教えないんだろうけど。

 

しつこい私は、気になったのでちょっと

調べてみようと思ったけど、わからんっ。

「はしはか」と聞いたら、
箸墓古墳が浮かぶ。


円仁は、延暦寺の開祖、最澄の弟子です。
比叡山のことを「比江山寺」と言っていたそうです。

もともと比叡山(日枝山)の地主神であったという。

 

いやいや、驚き。

 

それって会津の話で書いた

赤坂、永田町の日枝神社とつながっとるよ。

 

 

日吉大社は、
もともと近江国日枝山

ひえのやま:後に比叡山の字が充てられた)
の神である「大山咋神」

おおやまくいのかみ)を祀っていたもの

・・・そこからまだ見えてないが、
これが関係しているのならば、

 

ええー!

隠された大山咋神が、

やっぱ、何かあるーーー。ラブ

 

南相馬の山田神社に、

大年神、一柱を祀っていた。

 

でも、なぜ円仁?

 

室根山祭祀に、

円仁が深く関与していたという。

ん~、

空海とは違う、東北の瀬織津姫もあるんだなぁ。


あの夢は、巨人(高身長)の人たちの
系譜が関係しているかもしれない・・・

 

そうそう、茶で有名な千利休は、

180センチくらい背が高い人だったそうだ!

 

なのに、なぜ、ちっさい茶室をつくった?

 

千利休のご先祖は、千家家なんですよね。

(裏千家・表千家)

出雲系なのかな?

また何か濃厚に繋がったら
書いてみたいと思います。。。

 


おまけ-------------------------------

 



※喜多方ラーメン(うめ八)指差し

 

 

こちらは、喜多方のおくまんさま~。