山形県の米沢を通って喜多方へ向かっている途中で、
懐かしい「犬の宮」の道案内の看板を発見。
犬の宮は、震災を思い出します。
まほろばブログを書き始めたのは2010年の10月で、
2011年3月3日に犬の宮のことを書いてました。
実際、犬の宮へ訪れたのは、もっと前です。
犬の宮の記事は、
マタギ犬(高安犬=甲斐犬)の話しでしたが、
私にとっては「始まり」だったんです。
「探求とはスタートに戻ること」と書いてました。
これから探訪が始まると思っていたわけで、
宇宙の法則でもあるという事を。
長年暮らしていた仙台を離れて埼玉に帰る予定だったからです。
まさか、その1週間後、退職届を出した日に震災が起こるとは・・・。
私は、震災については、避けられない何かがあったと思っています。
それから秩父に戻ったのですが、秩父でも宮城県出身の方と出会い、
そのことがきっかけで蝦夷について興味を持ちました。
今では、こんなブログを書くようになってしまいましたが、
意味があっての行脚だと思っています。
あれから自分がすっかり変わってしまったので、
仙台も変わりました。
仙台に関しては、何も感じられなくなりました。
もう今は、県南に夢中~。
やさしそうなおじぞうさん
※亡くなったペットの写真だらけなので、
高安犬の存在を感じません。
ここは、安産の神様です。(犬は多産なので)
ちなみに、猫の宮もあります。
※犬の宮 高畠町サイト
https://www.town.takahata.yamagata.jp/kanko/miru/856.html
■喜多方の三島神社--------------------------
次は、喜多方へ。
喜多方は、初めての上陸な気がする(上陸って)
来たことがあるかもしれないけど、
あまり喜多方はわからないな~。
喜多方というと蔵の町と喜多方ラーメン♪
お店はこの道の奥に。
「赤レンガ」というお店。
喜多方に入ったのはお昼頃だったので、
早速、喜多方ラーメンを頂きました。
美味しかったです!
食通ではないので、レポできません…笑
小さい古峰神社
来る時に神社があったのでいってみたら三島神社とありました。
会津に三島という地名がありますが、
喜多方の三島神社から由来しているとの事。
ここだけ鎮守の森です。
喜多方市上三宮町上三宮籬山に
上三宮三島神社があり、
三島神社太々神楽(福島県指定重要無形民俗文化財)があります。
江戸時代初期の元和七年(1621年)に、
同社の宮司をつとめていた高村権太夫が京都吉田神社の
卜部家から習得したものと伝えられている出雲流神楽だそう。
出雲流神楽は福島県中通り地方中部に多いとの事。
確かに、三島神社が喜多方には多く祀られています。
※湖=猪苗代湖
総本社は伊予(愛媛県)の大山祇神社と伊豆の三嶋大社。
大山祇神社(伊予) : 大山積神
三嶋大社(伊豆) : 大山祇命、積羽八重事代主神。
会津では、大山祇神を多くみかけました。
以前、ブログで御嶽神社の狼信仰で、
大三島のことを書いていました。
大三島とは、愛媛県今治市大三島町宮浦にある神社のことで、
源頼朝と共に東北へいった関東の武士団は、東北の太刀の数々を、
なぜか、大三島の大山祇神社に奉納しているのです。
大山祇神社の宝物館は、日本に現存する国宝、文化財級の甲冑や太刀などが、
40%も集まっていると!
ここに奥州鍛冶の太刀や甲冑などが大量に集まっているという話し。
舞草刀の他、住田町、早池峰や、紫波町の神社(不明)の太刀など、
東北各地にある太刀を大三島に持ってきているのです。
ワタツミとヤマツミの関係はあって、
敗者の民族の鍛冶技術を征服した側が、大三島に奉納しているのでは?
越人は倭人で入墨をしていたという。
この人たちが、越智氏(おちじ)の系譜があり、
河内国の源氏となり物部氏との繋がりを持つ。
会津には「大塚山古墳」があります。
福島県内2番目の大きさですが、被葬者は不明ながらも
会津に来ている四道将軍に関わる人ではないか、ともされる。
会津の歴史は、四道将軍が必ず出てきます。
四道将軍に関係するならば、越→越智が関係する。
山形県富神山のそばにある大ノ越古墳(おおのこし)。
入口が、富神山に向いてます。
この被葬者は、古墳の名前から越王=胡四王(こしのう)に関係していると思われ、
日本海~河川を利用して入ってきた人たち。
この古墳に立派な「環頭大刀」が発掘され、ルーツは中国大陸。
大王だった一族の可能性大。
百済時代の武寧王も関係すると思われます。
※龍(口に玉をもっている)→各地で見つかってます。
大山祇神社が瀬戸内海の要所に位置することなどから、
大山祇神社では海の神としての性格も強いといわれるので、
伊予は、海賊のイメージ。
越智氏、河野氏や村上水軍。
越智氏は伊予国の大豪族だったのですが、
源氏たち多くの武将が太刀を大三島に奉納しているのは、
越智氏が、高句麗・百済に関係する王族だったため?
その敬意だったと想像します。
海賊というと悪いイメージがありますが、
そうではなく、海の外交を行っていて悪い海賊(略奪等)
たちを取り締まる必要があり、通行許可証などを与えて
海上保障を行っていたことが注目されているそうです。
鎖国は、日本の戦場で男女を拉致していく「人取り」が行われていた
ことを阻止する目的もあったようです。(奴隷貿易のこと)
オレンジのライン=大三島、今治
※湯築城だより(PDF)
http://www.ehime-maibun.or.jp/kankobutsu_hoka/yudukijo_dayori/yudukijo_dayori5.pdf
倭寇(海賊集団)が、高麗王朝を滅亡させたと言われ、
「明」ではその阻止に100万人ほどの人員を配備させたという。
倭寇の7割は中国人で、残り朝鮮人で、日本人はごくわずか。
これらの厄介な海賊に対し村上水軍(河野氏)は、
日本列島を守るために闘っていたんですけど、
豊臣秀吉にやられました。。。
すごいのよ~。
「日本遺産:村上海賊」というサイトがあるんだよ~。
http://murakami-kaizoku.com/
『「襲う」「奪う」よりもむしろ「守る」。
村上海賊は、この地を渡る船の安全や祖先から受け継いだ信仰、
かけがえのない穏やかな暮らしや、
大名顔負けの優雅な文化、
そして何よりもこの美しい瀬戸内海の風景を守ってきました。』
熱いね~。
※河野氏の家紋(大三島の三を組み合わせた)
東北の海賊といえば、青森の安東水軍!
■天正・北方合戦---------------------------
神社前に城壁のような跡があったので、近くの看板を読んでみると、
合戦場だったのですね。
慶徳善五郎700人に襲われてますな。
のんきに、三嶋神社参拝どころじゃなく~。
大三島の聖地だったわけで。
米沢に近いので、伊達政宗が登場。
「伊達政宗は会津を自分のものにしたくて、
1584年に桧原を攻め落とし、
次いで翌5月大峠を越えて入田付から攻め入った。
最も激しい戦いの場が中田付周辺から二軒在家にかけてで、
伊達に加担した関柴備中は討たれ、
伊達勢は命からがら逃げかえった」。(看板の説明より)
摺上原から黒川に逃れるには、日橋川を渡るしか道はなく、
会津勢は、日橋川で行き詰まり、伊達勢も五百余人が討たれたと。
※中央の森が三島神社
今では喜多方ラーメンが食べられるのどかな風景が広がっていました。