まだ続いています~穂積氏。

前回の義経の家臣の中で、
「赤坂」がでてきましたが、
これがよ~く繋がるのです。

なぜか「水の森」がピンときて、
そういえば、ずっと前に当時、山好きだった
職場の人と数名で水の森散策をしたことがありました。

まだ、何も歴史に興味がなかった時だったけど、
藤原秀衡の道という看板があったのを覚えてました。

それだけ覚えていた!

ということで、それだけ思いだした!笑

それでこの前、青麻神社のことを調べるために
わざわざ図書館へいって『仙台市史』を読んでいたら、

「七北田川南岸 

上谷刈「丸子」の地名、丸子郷」

とあった。

 

丸子!
ワニさん!!

和邇氏が七北田川に・・・?UFO

 

(歩いたコース)

 



マップをみたらやっぱり~~、

 



「赤坂」
あやしい。

しかもそこにあるのは、「水の森」だった。

赤坂の由来は、あがる坂から、
上がり坂→あが坂→赤坂になったというが、

・石巻の真野零羊崎神社近辺。

・名取の今熊野神社の坂(三輪氏系の地名有)

・塩釜神社の交差点(多賀城方面)

 

も、赤坂の地名。

共通するのは、「穂積氏」
藤白鈴木家の熊野!

前回、書いたこと。

穂積氏の由縁に3人の人物が登場。

「榎本」
「丸子」
「稲積」


そして、
もうひとつの理由に、赤坂は人物名であった事。

和邇坐赤阪比古神社(奈良の天理)ってことを。

和邇(王仁)=ワニさんがいる神社。

以前、「赤坂」について書いてました。
朝廷とエミシの溝をなくしたい思いで。
に、しても、ずっとここをぐるぐる。・・・ニヤニヤ

 

 


そして4月に大阪へいった・・・

 


百済のトラウマの地へ。

 

和邇(王仁)のうた。

(梅)を咲かせよ、と何度もいってくる。

 



またここに戻ってきた感じだよ。

ということで、水の森は、和邇氏がきてる!
と思ったので、散歩してきました。

 

 



「さんぽ」ってところが良い。

 


行ったら、この時期、花粉症だってことを
忘れていた・・・・笑い泣き

 

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ひっさしぶりの地下鉄八乙女駅からの散歩へ。

 

東から、

 

 

西へ。

 



暑かったーーー。オエー

暑さになれないので、しんどかったけど。

それに毎年、思いだすんだけど(学習能力なし)
この時期、花粉症になり鼻水が止まりません。

ひのき?ぶたくさ?
とにかく、長い時間外にいると、
鼻水垂子(はなみずたれこ)になります。

これも修行。ゲッソリ

そんなことを忘れていて、
鼻かみかみの森歩きでした・・・

約6キロ(往復)。
寄り道しながら3時間くらいの工程。
カロリー消費432キロ。←気休め


■八乙女駅~貴船さんのところへ


まず、神社があったので行ってみました。

 



貴富祢神社は、西の賀茂神社に対し、
東の貴船神を祀ったそうです。
(江戸時代)

 

 

けっこう、石碑がありましたよ。

(山神)

 

 

三角マークがある観音様 飛び出すハート

 

 

 

 

 

 

 



伝承より

上谷刈に三宝荒神社があり、金神社という。

七北田では荒神というが、
雲水神社(二渡神社)があるので、これも水神になっている。

ここには賀茂神社もあるが、留守氏が祀っていました。

しかし、後の伊達政宗が仙台城に移ると、
1607年に塩釜神社を造営し、

左宮に賀茂・貴船神社(現在の小角にある)を移したそうです。

これに対し、1695年伊達綱村が塩釜神社の縁起を考証した結果、
賀茂・貴船神社は塩釜神社とは由縁がないということで、戻している。

 


なんと、この「白藤」のタイトル。
前に、その小角の貴船神社へいった時。


「白藤」とは、
藤白ではないかっ!?

 

「白藤のムチを逆さに突き立て・・・」の由縁。
白藤を逆さにしたら、藤白だ。。。

 

 

こちらは、小角の貴船さん。

穂積氏(鈴木家)の熊野が、
賀茂明神と貴船神を塩釜神社に置いていた?

か、あっちこっちに移していた・・・?

江戸時代に左右の一棟(塩釜神社)と並んで、
別々に貴船神社と、只州(ただす)の二柱が存在していたという。

泉区の賀茂神社がその塩釜神社にあったところから
移された糺神社になっている説。

「ただす」とは、
下鴨神社の「糺の森」では?

 

「糺勧進能」の能に(中世)発展しました。

それが、熊野信仰→賀茂明神と繋がるのですが。

 


だから、泉区には賀茂神社があるのです。(バス停)

 

 

この話、賀茂神社がなぜここにあるのか?

歴史ではなくて、民俗学でも説明ができる。

 

口寄せのこと。

でもなぜ、賀茂明神なのかまだわからないので、

わかったら書いておきます。

だから?
根の白石は、白川郷とよばれ「白」なのです。

 

 

上谷刈にある貴富祢神社は高台にあり。

 

階段を下りると、広い道にでます。

 

西へ5,6分進むと、ちょっと暗くなります。

 

 

それが、この道。

奥州山道。

 

 

 

 

このあたりから水の森の道を「秀衡街道・義経街道」と呼ぶ。

中世以前からあったと伝えられている。

 

 

仙台空襲では、この道を通って逃れたそうです。

 

元の道は暗いので、広い道へ。

信号を左折し、坂をのぼっていきます。

 

 

下っていくと、

 

丸山峠。

 

 

石碑があります。

 

 

「西に長命館跡、平泉藤原氏の関わりがあったと思われる。

 

江戸時代にはいろんな民間信仰が盛んになり、

丸山峠では、地域で祀る松尾山その他数基の塔碑がある。」

 

松尾山!!

秦氏崇拝?

 

長命・・・という地名からして不老不死っぽ。

 

■丸子氏とは

簡単にまとめておきます。

大伴氏流と武蔵江戸氏流がある。

・大伴氏流

陸奥国・紀伊国・信濃国・相模国などに点在する
大伴氏の支族。

・武蔵江戸氏流

名族秩父氏の流れを汲む武蔵江戸氏の支流の一族。
本姓は桓武平氏。

江戸氏を養子として継いだ、
畠山重保の孫・重長の三男である家重が丸子を称したのが始まり。


「丸」の地名は全国に多く、
丸山、丸谷、丸丘・・・など、地名につける場合がほとんど。

 

実家にも「丸山」がありますが、

日向の山名もあり、九州がルーツのようです。

日本の古代史では、百済から多く影響を受けています。

 

余談、
「孫氏兵法」といった戦術も彼らがもたらしたと思われます。
(百済経由で)

百済系の坂上家がそれを重んじていたらしい。

マロの戦術がそんな考え方。

 

リスクをおさえる戦い方、みたいな。

 

兵法を日本にもたらしたのは、(留学時持って帰る)

吉備真備であり、称徳天皇であった。

 

上海にいった時に買ってたんよ。うける~笑い泣き笑い泣き

(まったく読んでない!)

今でも思う、youは何しに中国へ?

 

 

孫武(そんぶ)が開発。
「戦わずして勝つ」という戦略思想。

いまでも研究されているものですぞ。キョロキョロ

 

 

で、

 

日本では百済経由で漢字を訓読みしているそうです。
そのため、丸(マル)ではなく「ワン」と呼んでいた。

『日本書紀』では、和邇という字をあてているが、
『古事記』では丸としている。

このへんはよくわからない。

ワン→ワニ
この転じは、春日氏にあるようです。


ワン「ン」を「ニ」した詳細は不明ですが、
和邇氏系は、春日氏が信仰しています。

秩父氏が丸子氏流であるように、
春日氏(小野氏ら)が和邇氏の子孫にあたるため。

東北では、関東から雄勝地方に上陸した
上毛野氏がおりますので、

※百済からまぬかれた荒田別(あらたわけ)の祖が、上毛野氏である。

和邇氏を大陸から日本へ連れて来たのが、
上毛野田道将軍と言う。

 



深砂大権現とよばれた、たみっちゃん。
(辰砂の王様)

和邇氏らが東北を占拠できたのは、
熊野水軍(穂積・鈴木氏)が大きく関与しているでしょう。

 


なので、義経や藤原秀衡、金売吉次伝承が
多く残されています。

 

水の森はつづく。