なるほど~。
やっぱり行ってみないとわかりませんね。

以前、大野田へ行った時に春日神がありました。

 

※大野田の春日神社

春日山古墳という名があるように、
ここの主は、アマノコヤネ系だと思っていた。

 



古墳も多いし。

でも、本来の長町(あすと長町)は、
諏訪町の地名があるように、諏訪神でした。

春日神と諏訪神も深い関係がありますが、
やはり、兄と弟なんだね。

政権をとるのは、いつも弟の方。
天智系と天武系でいえば、天武系みたいな。


■太白区の諏訪神社

 

まず先にお参りしてから、

郡山遺跡にいきました。

 

 

神社の道標?

 



 

『七十代後冷泉天皇の天喜4年(西紀1056年)、
陸奥守鎮府将軍源頼義公

阿倍頼時を征し、


地方人民を治めるため衣食住の守護神である
諏訪の大神を勧請し、創建した社である。

 

その後第103代後土御門天皇の文明年間に
粟野助五郎大膳、亮忠重の子、

右京之助、遠江国定祀堂を改造す。

第106代正親町天皇の永禄年間、

北目城主粟野多門国重祀堂を再造す。

其の後、青葉城主伊達家より生産業(五穀豊饒)の御神徳
あらたかな守護神として尊崇された。

 



大正11年(1922年)、古来の境内地(諏訪町)は
長町操車場に指定せられ大正13年(1924年)現在地に移築遷座す。


移築遷座した社殿も氏子、崇敬者の"幸"と"地域の発展"の為
御神威を現し常に篤信仰で奉られて参ったが、
社殿の雨漏れ、土台の沈下、老朽化が進み、
平成16年12月、社殿移築す。

 

 



諏訪神社は、大正13年に旧社殿は、
長町貨物操車場建設のため、
現在地に移されました。

 



元々、「あすと長町」付近に鎮座されていたのですね。

国鉄があったところです。

 

御祭神は、タケミナカタ~指差し

 

 

※いわいぬし神とは、フツヌシのこと。

 

 

 







左・八雲神社 素盞鳴尊 
中・深山神社 大山祗神 
 右・明神社 稲荷大神

 

※八雲神社

 

※深山神社

深山神社は、砂押の方の神社らしい。

 



木華開耶姫命飛び出すハート

 



小牛田のコノハナさんがいました~。

 

 

 

 

すっきりした感じで綺麗な神社でした。

 

 

大きなカエルくん。

 



王ノ壇遺跡にある雷神と共にあるのも、
山神で(これも小牛田かも?)

 

※大野田の石碑

海と山です。

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多賀城の前にあった郡山官衙遺跡ですが、
多賀城を造営したのは、大野東人とあります。


大野田にある「王ノ壇遺跡」について、

『無数の古墳群が集中し、
律令時代からの街道(奥の大道)沿いにあって栄えてきた地域。

東平王」と呼ばれる有力者を葬った墓を「王ノ壇」といい、
それが「大野田」の語源とされています。』


東平王とは、
鎮守府将軍の大野東人

または恵美朝獦(あさかり)
あるいは百済王敬福

の墓と諸説あって謎だが、全部すごい人じゃないのー。

が、引っ越してきたばかりの時に、大野田の方へ

行った時がありましたが、

嫌~な洗礼をうけたので、もう近づかないことにした。

 

「勿来」の地。

 


あるサイトに、
東平王の古墳(岩沼市)に韓国人が参拝にきていたことが驚きだった・・・。

「むかし東平王といひける唐人の墓なり」
と昔の文献にあるように唐人(異国人)とある。



『ふるさとは げに如何なれば 夢となる 
後さへなほも 忘れざるらん』


忘れさられてます・・・

 

 

千貫神社のかろうじて守られた奥の院


岩沼の千貫神社すぐ向かいに古墳がありますが、
昭和に岩沼の三本松とよばれた中に、
「二木の松、鼻輪の松、東平王の松」とされる。

ここから長町の王ノ壇と繋がっていると思い、
太い幹がからまっている感じがするのよね・・・



実際の塚はもっと東側にあり、
津波被害にあったので、現在地に移動して塚をつくったと
いうので、実際はもうないかもしれないが・・・


飛鳥時代の岩沼「南長谷」では、

遅くとも7世紀後半ごろには畿内などの
他地域とのつながりが形成されていたと考えられるという。


なので、岩沼の千貫森を「深山(みやま)といい、
斎宮伝説が残されているのでしょう。

 

それに、瀧之入不動尊で書きましたが、

中将姫の伝説なども、長谷地区ですな~。

実際、南長谷字で発掘される土器の中に、
東海~会津若松の大戸窯跡の製品と考えられる須恵器があるので、
陸路だけではなく、水上路で運ばれた可能性がある。


729年、僧善快の勧請により漁船守護の神として大山祇神を祀り、
深山大権現と称したのが、千貫神社である。

 

※千貫神社から階段をあがるとあります。

山津見神の碑

 

・・・諏訪→三輪→深山大権現・・・

 

■春日神と諏訪神


諏訪神と春日神があることから、
ちょっと兄弟の派閥を感じる。


春日大社の祭神は、「四柱」と決まっています。

武甕槌命(たけみかずち)
経津主命(ふつぬしのみこと)
天児屋根命 (あめのこやねのみこと)
比売神 (ひめがみ)


藤原氏(中臣氏)の守護神である。

 

※奈良の春日大社

 

(余談)過去に友人と春日大社に参拝した時、

どこから入ったか覚えてないけど、

友人が鳥居か何かの門をくぐった時に、

びびっと静電気が体中に走ってびっくりした、と言っていた。

 

私は、相変わらず、何もない・・・

うえに、ほとんど覚えてない。

鹿がのんびりいた。

四神をもって春日神と総称される。

天児屋根命(アマノコヤネ)は、天の岩戸の時に、
天照神が姿を現した時に鏡を差し出した人。


天児屋根命の斎名(いなみ)が「ワカヒコ」。
コヤネは、小さい小屋と考え、神の居所となる。

ワカヒコは、ホツマツタエでは本名になり、
天児屋根の身長は、2m以上という巨人だったという。

ワカヒコは、アジスキタカヒコネとそっくりだった。
(影武者?)

その霊を弔ってきたのがタケミカヅチ(鹿島神)と考えられます。

しかし、タケミカヅチと同一ではないか?
と思われる「天ノ羽槌雄(アマノハヅチオ)」という人がいる。


「東国には征伐できない人が茨城県にいた」

鹿島神の反対勢力、カカセオ(天津甕星)です。
カカセオを退治したのが、天ノ羽槌雄。
倭文神のこと。


カカセオVSアマノハヅチオ

それが絹と麻との関係にも現れ、

天ノ羽槌雄は絹と描写され、兄がいたと。

兄は、ヤサカヒコ(八坂彦)という。

このヤサカヒコとは忌部氏との説があった。

兄なので、古い=麻となり、忌部氏系といわれるのは、
そうなのかな?

弟のハズチオは、新しい=絹となり、中臣氏となる。


そう考えると納得できることがあり、
天の岩戸で鏡を差し出した話。


※神社本庁

『準備ができると、まずニワトリを一羽鳴かせました』

天の岩戸の話は、


アマノコヤネと、
忌部氏系の天太玉(アメノフトダマ)と分かれているらしい。

しかし、これは、儀式の方法にあるようだ。


アメノフトダマは洞窟の前で占いを行い、
続いて枝葉の茂った榊に、大きな鏡、
大きな勾玉を連ねた玉飾り、楮(こうぞ)で織った白木綿
麻で織った青木綿を下げた

太玉串(立派な玉串という意味)を作りました。

アメノフトダマはその太玉串を持って
アメノコヤネが祝詞を奉じるのと同時に、
アマテラスの出現を祈ったのでした。


※玉串とは、御霊(みたま)のこと

 

楮は、白木。

麻は、青木。



その
兄と弟の関係というのは、
結局は、弟の絹=秦氏系がみえてくる。

たぶん、この天の岩戸開きとは、
麻と絹の混合、縄文と弥生という大きく違う
文明の転換期を伝えている神事と思いますが、

その時、大きな天変地異があったからと考えられます。
キリスト教のように、神の審判が下された、
みたいなことなのだろう・・・

政権をとったのは、中臣氏で忌部氏にかわって
機織の神が秦氏となって神々を司ることになる。
(ユダヤに転換されたのかもよ)

 

秩父を参考にしてみると、


諏訪神は、タケミナカタであるから、
「カカセオを頼って」秩父にきたことも繋がる。

同族ではないが、共同体として活動していたかもしれない。

タケミナカタは、先にいた諏訪のモリヤを頼り、
諏訪で再建をはかる。


しかし、「何かがあって」→わからん。

一族は、秩父に入る。

秩父には、すでにカカセオ一族がおり?
その為、秩父には諏訪神と春日神が多い。
(サンカもいたし)

 

秩父の春日神社や金ヶ嶽という地名のあたりには、

石上神社(いそのかみ)神社に、

光玉というUFOみたいな名前の稲荷神社がある。

 

 

すぐ隣にある稲荷神。

 


後から春日神(アマノコヤネ)を置いているのは、
白鳥の地名で残されており(秦氏、物部氏系)、
カカセオ、タケミナカタの痕跡を追って、である。

 

→白鳥の地名には、丹党一族のルーツがある。

後、安保氏(阿保氏)と名のり、秋田の鹿角へ!指差し



秩父にも三輪信仰(大物主)はあったと思い、
それは陸奥とも似ている。

深山のことを「みやま」とよび、
岩沼がかつて、崇神天皇の痕跡と思われる
奈良の地名があったことを考えれば・・・
(「箕輪(みのわ)」の地名:今熊野神社のあたり
=安達太良にある箕輪山も…)

 

※深山麓にある山神社(小牛田の山神)

なぜ、諏訪神社に八雲神が祀られているか。
つながっていると思う・・・

詳細はこちらへ。

 



関東の武士は、祖神を天の岩戸開きと重ね、
元来の忌部氏から中臣氏の祈祷へ変えたと思います。

 

→思いを兼ねる。

ちなみに、ワカヒコと結婚したのが、
シタテルヒメ。(仕立てる機織のこと)

春日神の養蚕の神のことであり、
比売神とは、養蚕の女神の総称。

そんな歴史があったからか、
諏訪のタケミナカタについて、
影になる(どうも諏訪神は秩父でもそうだが影におかれる)
から、こんな言い伝えがあるのかもしれない。

 

■諏訪神の言い伝え

・国鉄時代の話

大正13年5月7日、
仙台駅を午後11時に出た急行列車が
長町駅を通過して間もなく、長町駅構内南部の踏切付近で
貨車が接触し、

 

機関車と一等車、二等車が脱線し、
死亡三名、重傷者五名と軽傷者若干名の大事故が発生しました。

たまたまこの列車の一等寝台車に、
政友会の高橋是清総裁(2・26事件で射殺された大蔵大臣)
が仙台遊説の帰路、乗車しており反対党の仕業ではと
国会、警察の厳しい追及が国鉄にありました。

また、翌年には、石灰を積む起重機の倒壊事故もあり、
これは先にお遷り頂いた諏訪神様のことが思い浮かばれ、
以後、国鉄長町駅事務室にお祀りされたそうです。



・井戸じまい

ある方の自宅前に井戸があったそうです。
大量の水を使うチタン工場ができてから水が枯れ、
水道が引けるようになったからで、
井戸を閉じることになりました。

まず、諏訪神社の宮司さんにお祓いをしてもらい
職人さんに埋める工事を頼んだのですが、
作業を始めようとしません。

そのため、若女将だったご本人が、
大きい石を井戸の中に入れるとやっと仕事を始めたという。

職人さんは何を恐れていたのでしょうか?


その井戸は、八本松のある場所で眠っているそうです。
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土地の権利争いとか大体、どの地域でも揉めますがね、
開拓する際も、土地神さまの立ち退きがあった。

 

土地神様としては、人間の勝手な都合で移動させられ、

行き場を失う。

 

そこにいたかったのかもね。

そんなディー―プすぎる長町でした。

その場所へ行ったら、ちょっと諏訪神を想いだしてくれれば
良いと思います。

 

※仙台市のサイトより

「あすと長町」の「あすと」の意味は、
「明日」と「US(英語で私達の意味)」と
都・街のニュアンスを含めた「と」の文字で繋いでいます。


未来の街ですから、
あすと長町は、いろんなお店があって楽しい所です。

新しい人が入ると、新しい風が流れます。
それは、とても良いことです。


しかし、例えば、東京の豊洲(雰囲気が似てる)など
埋め立てた土地と違い、

新石器時代~古墳時代という何千年も長い間、
人と土が眠っている所

を、忘れないで、という事です。

 



もうひとつ、導かれた石碑があったので、
河川の方へ向かう。

つづく