昨日、夢のメッセージがあり、
藤原の「白」と、
「シンボルはイカリ」
という言葉がありまして。
朝おきて、
前回の多賀城神社を書いたあの錨(いかり)のマーク!
と、ひらめいた。
しかし、これ。
重いね。
歴史においては、
たぶん、多賀城神社は後村上天皇だったから、
村上水軍だと思っていたが、熊野水軍みたいです。
紀州の熊野国領主で速玉大社の禰宜でした。
多賀城神社に祀られている北畠顕家(南朝側)は、
村上水軍の他、熊野水軍なども参戦し、
物資や兵を送ってもらう海民の基地として、
常陸(茨城県)の稲敷あたりを拠点としていた説がありました。
そこから熊野水軍は、船で陸奥へやってきたそうです。
だから、ワタツミのあんばさま。
大杉神社は、稲敷市阿波。
大杉が航海の時の目印になっていたこと。
気仙沼にも大杉関連の神社や、
震災で高台へ逃れた人が多かった安波山も、
あんばさまです。
阿波忌部と関係していると思います。
前回、庚甲碑についてリンクした内容も、
偶然、徳島県の阿波学会というところでした。
それに、あんばさまは、常陸坊海尊で青麻神社裏手の山で修行してたとの伝説。
アンバサマと青麻の穂積氏。
こういう事は多く、
情報でも何かが繋いでいるものです。
ちなみに、後白河天皇についた熊野水軍がおり、
衣川(平泉)で源義経と最期をともにした鈴木重家がいます。
■多賀神社-----------------------
さて、塩釜方面に向かいますが、途中、
趣のある多賀神社がありました。
多賀神社は、近江国(滋賀県)の多賀大社から
勧請するとあり、六月坂、高崎の2社あります。
興味深いのは、多賀大社は、滋賀県犬上郡多賀町にあり、
狼を飼いならす犬飼の一族が、代々、宮司として務めてきたと。
最後の遣隋使および最初の遣唐使を務めた、
大和朝廷の中級官吏・外交官の一人。
多賀大社には、こんな由来があります。
大化年間(646年頃)のころ、
年間に多数の死者が氏子から出たため、
年にひとりづつ篠山の大歳神社に人身御供を供することになりました。
くじ引きで人身御供に当たった家では、
大変悲しみ、ただ一心に神にすがり、三七日の祈祷をしたところ、
夢に童子が現れ、
「江州犬上郡の江州多賀明神に鎮平犬あり。
借りてきて、例祭の時この犬を身代わりに器に入れておけ。」
というお告げを伝えました。
家人が江州(近江)で探すと多賀明神(多賀大社)に
お告げの通りの犬がいたため、借りて来ると、
見事に人身御供を取っていた怪物を退治することができました。
※多賀大社:狼神話
http://www.raifuku.net/special/wolf/map/area/kinki/shrine/tagataisya/tagataisya.html
これは、マタギのような・・・。
山形にも同じ伝承があります。
天童の「べんべこ太郎」です。
※天童:妙見神社のべんべこ太郎の墓
現在は、妙見神社。
天童の話しも人身御供で若い人がさらってしまう悪者がおり、
信濃の国のべんべご太郎という大きな犬を
恐れていた為、べんべこ太郎が退治したという話し。
以前、調べていた伝承なのですが、
「早太郎」という静岡県磐田市にも霊犬の伝承があり、
見付天神社では田畑が荒らされないようにと、
毎年祭りの日に白羽の矢の立てられた家の娘を、
生け贄として神様に捧げる人身御供という悲しい習わしがあったという。
早太郎伝説
http://www.kozenji.or.jp/contents/hayatarou.html
天童や山寺に近いので、マタギの開祖の兄弟、
天台宗などに関係すると思います。
六月坂という名前も謎ですね。
■北門の方へ-------------------------
途中、北門を通りますが、子供たちの遊び場になっていて
平和な光景でした。
アザマロさんもほっとしているのではないでしょうか~。
いつまでも子供たちが遊べる場所であってほしいですね~。
アラハバキ神社は、一度参拝したことがあるのでスル―。
へ~。
どの石がどうなんだかわからず。
ちょっと暗い森
■陸奥総社宮---------------------
そして、陸奥総社宮へ。
毎度、ぴったり12時に参拝。
多賀城市は、12時のサインはメロディーなんですね。
クラシックだったかな。
12時のサインを聞くと、何かが終わった気がします・・・。
目的を果たした気がして、帰る気満々です。
それにしても、マニアックな東北の神社名がすごい。
入り口となる鳥居を抜けた
両側の神名額には、陸奥国大社十五、
小社八十五の神社名が列記されていると。
ざっと写真で。
延喜式神名帳陸奥国百社。
福島~宮城県。
もうひとつあり。
宮城県~岩手県。
目が回る~。
由来は・・・
「本社の鎮座年月は明らかではありませんが、
往古陸奥国の府内にして陸奥国府に属する総社で、
かつて歴代の国司の奉斎したところとなります。
国司は任国内の諸社に神拝することが定められていましたが、
巡拝の手間を省くため、国内の神社を一箇所に
集めて詣でることが広まりました。
当社は陸奥国府多賀城に赴任した国司が、
多賀城東門の近くに合祀勧請したのが始まりとされています。
鎌倉時代には、奥州留守職伊澤氏が国司に代り祭祀料として
三干刈の地を寄進したと言われています。
また、伊達政宗公も当社の再興に意を注ぎ、
別当寺市川山神奏院(真言 塩憲法法蓮寺末寺)を置いて社務を行いました。
歴代藩主の尊崇篤く、親拝代参などがあったとされ、
世間一般からも篤い信仰を受けました。
明治四年十月に村社列格。明治四十一年には貴船神社外七社を合併し、
大正十二年八月に供進社に指定されました。」
※陸奥総社宮サイトより
さて、この後は、塩釜へ向かいます。
■餓鬼憑きタイム-----------------
そろそろ餓鬼憑きが暴れる時間です。
・・・腹減った。
陸奥総宮社~塩釜神社までは、歩いて20分~25分。
しかし~、山歩きは足は疲れませんが、
コンクリートは足が痛くなる!
やっぱり、土を歩くのが楽です。
そういえば、多賀城は塩釜神社の鬼門のために置かれたらしい。
だから「鎮護」なんだそうです。
東北は、鎮護ばっかりですわ・・・
塩土爺さんの話しは、こちらを参考に。
「野菜カレー」の文字が目に入った。
カレー!
刺激をくれ~っ。
スパイスがきいててぴり辛。
懐かしい家庭の味。
龍がうつっているという雲の写真がありましたが、
私はこーいうのは、わからない。
普通の雲にしか見えない。
ひといきついて、餓鬼憑きが大人しくなったところで、
最後に目標としていた観音堂にいってきました。
つづく