五本樋の湧水から山の方へむかっていくと、
八ツ沼がありました。
朝日町は沼が多いんですね?

きれいな沼ですが、伝説があったとは知らず。
家に帰ってきて調べたら「弥生姫」という伝説がありました。

 



ここはかつてお城でした。(八ツ沼城)

「八ツ沼城の発祥は南北朝時代に南朝の武将が、
若狭からこの地に移り築城したのが始まり」

との事。

えー!また若狭!?
しおさんが書いていた記事にシンクロしてるっ。
福井県です。


しおさんのブログ

福井旅行の話。若狭彦神社・若狭姫神社より
https://ameblo.jp/lightning-2015/entry-12596285597.html

しおさんの記事で、

「8世紀ころの若狭国は製塩がさかんで、
税も塩で納めることを求められており、
その量は全体の38%に及んでいたという記録が、
当時の木簡に残っているそうです。」

私は気づかなかったのですが、以前書いていたことに、
塩釜神社の御釜神社(牛石藤鞭社)の説明より


「昔、和賀佐彦(わかさひこ)という神様
7歳の子供の姿になって塩をのせた牛をひかれました。」

とあり、「わかさひこ」と言っているのです。

和賀の彦?それとも若狭彦?
塩の交易とトベの話しは、愛知県のヤマトタケル伝承で有名な
熱田神宮でも書いていました。

「志波彦、志波姫と若狭彦、若狭姫が同じでは?」と
しおさんも話しているように、そうかもしれない。
ヒメヒコ制のあった時代と考える。
で、これが次に紹介する弥生姫に繋がっている気がするね~。

 



まず、八ツ沼の歴史とは・・・。
敦賀(つるが)と繋がる。

若狭からきた武将(南朝)は、北朝方の山形城主斯波兼頼(最上氏の初代)
によって滅ぼされる。

戦国時代に敦賀城主の原美濃守が敗戦の後、
当地に逃れて八ツ沼城に入ったという。

「八ツ沼城の東方に鳥屋ガ森城があり、
城主の岸美作守義満には弥生姫という美しい娘がいた。

八ツ沼の原美濃守と和合の但馬守秋広の二人が弥生姫に結婚を迫ったが
岸美作守は娘を八ツ沼に嫁がせることにする。

但馬守はこれを妨害するために山形城主最上義光に近づき、
八ツ沼城と鳥屋ガ森城を攻略させた。

 



こうして永禄八年(1565年)最上義光により八ツ沼城と鳥屋ガ森城は攻略された。
義光は両城を置賜地方からの侵攻を防ぐ最前線として確保した。

慶長五年(1600年)の関ヶ原の戦いに伴う慶長出羽合戦では、
上杉景勝の重臣で米沢城の直江兼続が山形城の最上義光を攻め、
別働隊が最上川沿いに北上して八ツ沼城、鳥屋ガ森城に攻めかかった。

壮絶な戦いの末、関ヶ原で西軍本隊が敗れたことにより上杉軍も
撤退して辛うじて城を守り抜くことができた。」


まとめると、
八ツ沼=敦賀城主の原美濃守が逃れて住む。
東方に鳥屋ガ森城(岸美作守義満)があり、娘は弥生姫。

弥生姫と原美濃守(敦賀)は、仲良しだった。

同じく弥生姫に恋こがれていた但馬守は、
嫉妬して最上義光につき八ツ沼城と鳥屋ガ森城を倒す。

結婚を妨害された弥生姫については次の伝説が残る。

 



「昔、八ツ沼の隣村に弥生姫という美しい姫がいた。
村祭りに遊びにきた弥生姫は八ツ沼城の若君と出会い一目ぼれし、
二人は恋仲になった。

ところが先隣村の若君も弥生姫に想いを寄せ、
弥生姫は二人から結婚を申し込まれる。

弥生姫は八ツ沼城の若君に嫁ぐが、
先隣村の若君はこれを奪取しようと兵を差し向けるが返り討ちに
遭ってしまう。

二人が夫婦になったことが我慢できない先隣村の若君は山形城主に
「八ツ沼城主は山形城を不意討ちするつもりだ。」
と嘘を密告し、山形城主に八ツ沼城を攻めさせた。

山形城主の大軍を前に八ツ沼城は善戦するが多勢に無勢でついに落城した。


 

若君と弥生姫は追い詰められて城の裏手の春日沼に身を投げてしまうが、
二人は湖底で夫婦として暮らし、
湖面に木の葉が浮かないのは弥生姫が毎朝未明に湖面をほうきで
きれいに掃くからだと伝えられている。


※八ツ沼城より参照
http://www3.omn.ne.jp/~nishiki/yatsunuma.htm

■弥生姫-------------------------------

もうひとつ、「竜沼」ともよばれ、昔、雨乞いもしていたそうです。
晴れているのに雨が降ったり、
それも一時ではなく、ずっと降っているとか。
不思議な天候になるそうです。

 



弥生姫というのもね~、

実名かどうかまでわかりません。
機織とか渡来人の女性の象徴とさせた伝承のようでもあり。

最終的には、直江兼続が「取り戻した」と考えてしまう。
本来の敦賀だった城を?
妄想だけど。

タイプが違うというか、美濃守と但馬守。

古くから若狭湾は、日本海の交易の海路でした。
古代の敦賀は、「ツヌガアラシヒト」という角の人。
意富加羅国(大加耶/大加羅)の王子で、
地名「敦賀(つるが)」の由来の人物
といわれる。

 

そうそう、これが伽耶のこと。(加羅ともいう)

草野姫(カヤノ姫)とも繋がるね。

知人から聞いたのは、とても慈悲深い国だったそうです。

新羅王と言われる人でもあり、
敦賀には式内社として白城神社・信露貴彦神社といった
新羅(白城/信露貴)系の神社も分布とある。

妻は、アカルヒメといった。(メノウという石)

だから、男が白で、女が赤。

「新羅は伽耶国を征服した」とあるが、

征服したというのは、婚姻関係をもって統合したとみる。

互いの「降伏(幸福)」のために。


鉱石(宝石)などを装飾品として
身に着けていた人たち。(伽耶国や新羅は)
鉱石を女神として崇めていた風習があったようなのです。

例えば、翡翠の女神は、ヌナカワヒメというように。

でもその発祥は、日本だったのです。

なので、渡来人とは「帰化人」とも言う。

戻ってきた人。

越後と敦賀を結び、最上川で内陸に入っている。
翡翠の交易も積極的に行っていました。
そこに「塩」の交易も入ってくる。

そのような末裔が山形に入ってきて
八ツ沼城あたりを治めていたという想像が。

対立した但馬とは、現在の兵庫県です。

八ツ沼は、別名「春日沼」。
春日神社も祀られているので、春日大社というのは、
藤原氏の氏神ですね。

直江家に関係するから?
よくわかりません。

八ツ沼ではなく、果沼という場所でも
弥生姫と落ちのびた郎党なども自害した伝承があります。
いずれにしても亡くなっているのですね。

無念にも自害してしまった姫たちを、
後になって沼で亡くなった話しにしている場合もあるようです。
その沼で暮らしているという話し。
沼も、黄泉国。

沼で夫婦が暮らすという話しは、全国にあります。
大体が、土砂災害で大きな沼ができた場合や、
治水工事がうまくできなかった場合など、
人柱をたてる風習に関係します。

タブーな歴史になりますが、人柱の対象となってしまう
若い男女は、大体、被差別部落のあった場所です。

それが「シンラ」という言葉にある気がするのです。
「白」のことなのですが、
新羅は、昔、迫害を受けてきた民族ではないか?と思う。

中国で治水神といわれた禹(う)は、「猿」と、
中国の歴史では書かれています。
岩場に住んでいた人らしいが、逃れて住んでいた説もある。

 

※中国の太湖(禹が洞窟に住んでいた伝承ある大きな湖=隕石説あり)

で、禹王は塗山(とざん)氏の娘、女嬌に人目惚れしたという。

岩にいた白狐に一目ぼれしたと。
いくつかの説がありますが、女嬌は九尾の狐のことだった…。

なんだか、禹が猿田彦で、
妻の狐が、アメノウズメっぽい?

日本でも治水の伝承のなかで、岩場にいる猿が邪魔する話しが
よくありますので、やっぱり湖や沼に深く関係します。

災害をもたらす場合、人柱とする風習は大陸からもたらされ、
治水の技術をもっていた人たちの風習と言えるのかもしれない。

それは、禹の先祖といわれる猿にも関係し、
その猿が、具体的にどういう意味かは不明なのですが、
日本では猿は「申」ですが、庚申碑などが多く、
この庚申塔は、草庵を建てた尼寺などに多いのです。

 

 

※宮城県岩沼市「斎宮」伝承のそばにある「青面金剛碑」

青面金剛・・・日本の庚申信仰の中で独自に発展した尊像。

ちょっと余談になりますが、
新羅は「シンラ」と言いました。
シンラ→オシラサマのシラという説もあり、
シラ→シロになって白となる。

白というキーワードに被差別部落があるかどうか不明ですが、
白は何かと神格化される色でもあるのです。

猿がという神の言葉になっている事と同じです。

神という漢字は、「しめすへん」で、神の啓示を記す意味。

それが「申」なのですが、「もうす」とよぶ。

 

祝詞でも「申す」は、「白す」と書く。

なぜ白!?


白とは、民族の肌の色に関係するものではないことがわかる。

まおす」という言霊の意味。

なぜ、「さる」と呼ばせたのかは、方角が関係するようだけど、

猿も何か関係するのではないかな~。

他に、福島県の半田沼でも娘が沼に沈められた伝承がありますが、

水の中で機織の音がするというので、のぞいてみると機織をしているわけです。

水の主である赤牛と娘は結婚しているのですが、娘は龍にたとえられています。
結婚して幸せに暮らしていると。

 

 

※半田沼 半田沼自然公園より(画像)
https://www.gurutto-fukushima.com/detail/308/index.html


水に沈められるのは、牛と機織姫(龍神)

青森の十和田湖と同じ。
角があるツヌガアラシヒトが、深い沼で伝承されているような・・・。

もっと深く探れば、「赤牛」で「赤」なのです。

その半田山の麓に「赤頭」と言われた悪路王が祀られる神社があることも。

赤頭は女性と思う。


半田沼の土砂災害があり、人柱があったと思われ、(中世か江戸時代)
半田沼の伝承もいろいろあります。
赤は、赤土という土砂災害に関係する土の成分などとも言うけれど、
そんな固い話しではないのでは?
まあ、大体、土砂災害のあった所は、赤牛伝承が多いです。

しかし、赤と白を登場させている気がしてならず。
色を何かの象徴としているという事です。
赤と白で紡がれた甲冑が青森県にあるわけで。
「櫛引八幡宮」のことね。

もしかしたら、塩を交易としていた先住民も迫害を受け、
彼らの移民に深く関係していたのが直江兼続ではないか、と思ったわけです。

ぼんやりとではありますが。
直江家が、先住の海民を知っていた人という感じを受ける。

姫彦制の古い思想をもつ人々の影響を受けた武将の一人が、
直江兼続と感じたのです。

 

※直江兼続の肖像画

■姫の像-----------------------------------

実際行った時は、全然気づかなかったのですが、
遠くに弥生姫の像があったのですよ。

 



写真でも全然見えないくらい遠いから、気づきませんでした。
秋田の辰子像みたいだけど、こっちはもっと小さいくて寂しそう。

弥生姫が何か理由があって、
沼に沈められたとしたら、小手姫と同じだな、と思ったわけで。
本当のところはわかりませんが、
後で誰かが、水に沈むのは、機織姫であるとしている?

一周できるそうですが、時間なくて沼だけ見てきました。

そんな話しがあることなど、全く知らずに立ちよってしまいました。
ですけど、私が感じたのはとても静かで、
蝶もヒラヒラ飛んでて、穏やかな沼という印象でした。


※水色のきれいな蝶(ルリシジミ)

あと、興味深いのは、角田にも繋がっていましたよ。

角田流獅子踊というのが、八ツ沼に伝わっています。
(大谷・八ツ沼)(県指定 無形民俗文化財)

朝日町大字大谷と大字三中字八ツ沼に伝わる獅子踊で、
その由来は、大谷の方は文化年間(1804?1818)に
村の天満宮社の別当白田清安が仙台藩伊具郡角田村の切幕獅子踊から習った

八ツ沼の方は天文年間(1532?1555)に、
八ツ沼城主が同角田から楽師を招いて村人に伝習させたという。

 大谷獅子踊は、以前は210日の風祭に奉納したが、
今は8月15日夕刻の送り盆と8月31日の風祭神事として踊っている。


 八ツ沼獅子踊は、以前は8月10日、12日、16日に踊っていたが、
今は旧の閏年の8月15日の春日神社の祭礼に奉納されている。


※山形県朝日町
https://www.town.asahi.yamagata.jp/portal/life/shogaigakushu/bunka_sports/4046.html

最後に、
八ツ沼には、七不思議があるそうです。
1.鈴ヶ森の鶏の声 2.沼中の変水 3.沼尻の阿吽の清水 
4.大石の化け石 5.大石の提灯石6.小関壇の異変 7.自在坊の活地蔵 

 



大石の化け石は看板がありました。
ここは行ってないですが、写真がのってました。

 

なんじゃ~~

 



※あさひまちエコミュージアム
http://asahi-ecom.jp/?p=log&l=180213

さて次は、けっこうテレビでもやっていて有名?になった
知る人ぞ知る不思議な沼へ。