「鳥戸野陵です。以上。」なんて言われてしまいそうだけど。そんなことは言われなくても皆さんわかっていますよね。

そういうことではなくて、あの鳥戸野陵の兆域の中のどの古墳だろうかっていうことです。兆域内に16の古墳があって、

その中のどれかだろうと思われていたようですが、特定はされていませんでした。

平成11年から13年にかけて陵墓調査室で、鳥部野陵の墳丘外形調査がされていて、その時に、低墳丘墓を16基を確認していて、

宇治陵とかの比較により、低墳丘墓が、平安時代のお墓だろうということです。従来からあった古墳のうちの3基と新たに13基が、低墳丘墓とされています。この資料から見ると要するに、この低墳丘墓のうちのどれかが、一条天皇中宮定子のお墓である可能性が高いということですね。平安時代は、通常火葬して、その後別にお墓を設けることが多かったのですが、中宮定子は、この鳥戸野陵に土葬されています。

 

当初の16の古墳の位置

 

明治12年10月16日に宮内卿徳大寺実則の決裁により 、 鳥戸野陵以下5火葬塚がここに治定されます。

 

一條天皇皇后定子(長保2(1001)12月16日崩御)鳥戸野陵
醍醐天皇皇后穩子 (天暦8年(954 ) 1月4日崩御 ) 火葬塚
圓融天皇女御尊称皇太后詮子(長保3年(1002)閏12月22日 崩御 ) 火葬塚
白河天皇皇后賢子(応徳元年(1084)9 月22日崩御)火葬塚
後朱雀天皇皇后禎子内親王 (寛治8年(1094) 1月1 6日崩御 ) 火葬塚
堀河天皇女御 贈皇太后苡子(康和5 年(1103)1 月25日崩御)火葬塚

 

 その後、大正15年11月9 日に
後冷泉天皇皇后歡子(康和4 年(1102)8 月17日崩御)火葬塚
が加わり、1陵 6 火葬塚となった。とあります。

 

 

新たに外形調査で分かった、12の古墳と16の低墳丘墓   低墳丘墓は⚫️印でアルファベットAからPのところ

 

元々の古墳として番号がふられていて、今回低墳丘墓とされたのは、⚫️H,I,Oの3つです。元々の10.11.14に該当します。

 

H号墓(旧第10号)他の多くが古墳周辺に密集する中、 それらと一定の距離を保って位置する。
長 径 約 6 . 5 m 、 短 径 約 6 m で 、 ほぼ円形を呈する。 裾と頂部の比高は約1 . 3 mであり、今回確認された低墳丘墓の中では最大の規模を有する。隣接するI号墓も大きく、両者の規模は際だっている。
I号墓(旧第11 号 ) H 号 墓 の 西 面 に 完 全 に 接 し て い る 。 現 状 で は H 号墓に被っているように見えるため、H号墓より後に営まれたものと考えられる。長径約5m、短径約4mの橋円形を呈す る。裾と頂部の比高は約60cm である。

 0号墓(旧第14号)第9号墳と第11号墳のほぼ中間に位置する。長径約5m、短径約4. 5mで、不整円形を呈する。裾と頂部の比高は約40cmである。と記載されています。

 

定子のお墓は、H号墓あるいはI号墓に当たるのではないのかなって思っています。

崩御の年が、醍醐天皇皇后穩子が一番早いのですが、火葬後に宇治陵に埋葬されています。

陵は、一条天皇皇后定子だけなのと、土葬ということもあって、大きさは火葬塚に比べて大きいものだと思うのですが、どうなんですかね。

 

ここからさほど離れていないところに、中宮定子にお仕えしていた、清少納言が住まいしていたと伝わります。中宮定子がお亡くなりになった後も、おそばでお仕えしていたんですね。

 

上皇陛下上皇后陛下は、従来の土葬ではなくて、火葬にすることを望まれているそうですけど、まあ時代は色々。すでに、武蔵陵墓地では、上皇陛下上皇后陛下の陵の用意が粛々と進められていますね。土葬だと場所を取るから火葬って伺っていたけど、大正天皇、昭和天皇の陵に比べても遜色ない兆域に見えるけどもどうなんでしょうね。