なにかというと偽書偽書といわれる竹内文献ですが、それは、いわゆる学問の世界でのことであって、信仰しているものにとっては神典であります。それに基づいて祭祀がおこなわれているからです。狩野亨吉の天津教古文書の批判によって偽書とされていますが、あれは、ある意味いい加減なもので、一部分を否定することによって全部を否定するという手法がつかわれています。文献を全部読んだのかと思ったら読んでもいないのですから。まあそもそも無神論の人間に神の世界のことは響かないんだろうからなあ。
竹内文献を現代に活かすにはどうしたら良いのかと思って、通常の記紀による歴史観と違うところを出してきて、考察してみたいと思います。

神倭朝の意義

神武天皇は2度即位したのか?

ある意味今神倭朝は、神武天皇がはじめに即位した不合(あえず)朝の末期の状態です。何かって?存亡の危機に瀕しているということです。
これは、竹内文献などの古史古伝をご存知の方なら知っていることですが、神武天皇は、もともと不合朝の第73代天皇でした。そもそも2度の即位ってなんなのかっていうと、1度目は、不合朝第73代、狭野尊(さのみこと)天皇としての即位です。一般には、西暦紀元前660年の辛酉の年の即位とされている神武天皇の即位年ですが、それは、現行の神倭朝の神日本磐余彦尊としての即位です。こちらはある意味2度目の即位で。では、1度目の即位はいつかというと、これも辛酉の年ですが、遡ること60年西暦紀元前720年のことになります。ところで神武天皇は誰から譲位を受けて即位したのかというと、これは兄の彦五瀬天皇からです。五瀬命として記紀にも登場するのですが、即位したとは書かれていませんね。でも不合朝の天皇として即位されていたんですよ。まあ、記紀は不合朝を出してきていないので、即位とかなかったことになっていますが。彦五瀬天皇は、即位35年に弟の狭野尊に譲位しています。記紀にあるように、長髄彦との戦で、負傷されたからでしょう。ここら辺のことは、古史古伝によって内容に差があります。上記(うえつふみ)では、死後の追号になっていますが。この怪我で譲位後に崩御されます。これは由々しい問題でした。私はこの兄帝の戦の怪我による崩御が、73代続いてきた不合朝から神倭朝への移行の大な要因だと思っています。実は不合朝74代までは決まっていたんですよ。後の神倭朝の第2代天皇です。それが何で、新しく王朝を起こしたのか?

 

隠されていた王朝

通常の歴史観では、神武天皇が日本の初代天皇とされていますが、それは、そうではないとしか言えません。その前の不合(あえず)朝が隠されてきたんですよ。不合(あえず)朝は、その初代の天皇、武鵜草葺不合尊(たけうがやふきあえずのみこと)に由来する王朝名です。
記紀では、神武天皇の父君は、彥波瀲武鸕鷀草葺不合尊(ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)ですが、竹内文献では、天照国照日子百日臼杵(あまてるくにてるひこももひうすきね)不合第71代天皇です。彥波瀲武鸕鷀草葺不合尊は、不合朝の初代天皇のことです。
そういうことが、だんだん日の目をあびて表に出る時が来ました。エジプトのツタンカーメン王みたいなものですよ。いなかったはずの王が、王墓の発見とともにでてきたように。神官たちによって勝手に皇統譜から抹消されていたのが、王墓が発見されたので、王の存在がわかったわけです。都合の悪い物は、王名ですらなかったものにされてしまうっていうことは、歴史の中で実際にあるんだと認識しないといけませんね。日本もしかりです。特に第二次大戦で敗戦してからは、日本の初代天皇とされる神武天皇ですら、いなかったなんて論調となっているので、おそろしいことです。日本を日本人を貶めたい勢力が日本の中にもいるんだということでしょうね。

現在まで続く神倭朝は、武力で前の王朝を倒してできたとかいうものでは有ません。というか簡単に言えば、王朝名を新たに改名し、名称変更しただけっていうことです。でもその改名自体は、大きな意義があったのですよ。

不合(あえず)朝は剣の名を負った王朝名に変わった

昔はのんびりしていたのかなあ。不合(あえず)朝の名前の由来は、浜辺に産屋を作って屋根を鵜の羽で葺いていたけど、その屋根が完成しないうちに子供が生まれたっていうところからきています。でも当時、不合朝は、存亡の危機に瀕していました。神武天皇の兄不合72代彦五瀬天皇は、長髄彦との戦いで負傷してそれが元で崩御されます。そのまま長髄彦が戦に勝てば、王朝は交代して、饒速日命が、即位して、饒速日朝を立てることになったのだと思いますが、そうはならずに、そのまま不合朝の第73代をついだ狭野尊が、日本の統治を続けるのですが、戦にさいしてか、神武天皇は、即位に先立って名前を改名しています。狭野尊は、即位前に何と改名したのか、竹内文献には、御神宝の、神日本魂御剣の名前を取って、改名し「神日本磐余彦(かみやまといわれひこ)尊」と称された、とあります。
要するに、戦の最中だから、ご自身の名前に、御神宝の剣の名を負ったということです。今ふうに言えばご自身に霊的シールドを施したということです。そして即位後は、次の不合74代までは、天皇は決まっていたのですが、ご自身が戦で崩御してしまえば、王朝は、交代してしまうので、王朝名もそのご自身の改名した名前と同じものにしたのだと思います。自分だけのシールドから、王朝自体のシールドへ、いかにその戦闘が厳しいものだったかということが推察されるというものです。この御神宝の剣は、3振りあったので、この神倭朝は、わかりやすく言うと、御剣(みつるぎ)朝、三剣(みつるぎ)朝というべき性格を持っていたのです。竹内文献には、万国棟梁の御宝剣とあり、絵が載っています。

ヒヒイロカネとは、太古の金属名です。それで出きた剣ということです。右、カシネコのヒヒイロカネと有ますが、これは、カシコネのヒヒイロカネの誤植ですね。

一般には、神世七代の神とされる、不合朝の前の時代、上古代第18代大斗能地天皇、20代惶根天皇、21代伊邪那岐天皇の作成の3振りです。これを持つものが世界の統治者ということです。

 

神武天皇の改名は兄天皇の亡くなる11年前のことです。そして、負傷した兄帝から継いで、不合73代、狭野尊天皇となられました。初めに不合朝の天皇として即位されたわけです。その年は、西暦で、紀元前720年辛酉の年でした。即位時に*112歳です。即位61年に、王朝は不合朝から神倭朝になります。このとき、神日本磐余彦天皇となったわけです。西暦紀元前660年の辛酉の年ですね。

そして、西暦紀元前585年、不合朝狭野天皇として即位されてから、136年、3月11日崩御されます。御寿246歳でした。

日本書紀では、御寿は127歳、古事記では137歳ですが、崩御の年は同列になるので、その前の誕生年がかわってきます。

 

*112歳。計算すると111歳になる1年の誤差が出ます。

神倭朝は、剣で勝ち取ったのではなくて、剣で守られてきた王朝です

その守りも今は、どうなのだろう。外的要因では、周辺諸国は、不穏な動きを隠そうとしません。ロシアはウクライナに軍事侵攻して、戦争中です。チャイナ国は、全世界に、新型コロナウィルス感染症を撒き散らして、周辺諸国とは領土問題を作り上げて、軋轢を増しています。それに便乗するかのように、北朝鮮は、ミサイルを盛んに日本の方に射ってきます。チャイナ国が、台湾に侵攻すれば、沖縄占領は目の前ですし、北朝鮮がミサイルの命中精度が上がったらもうそれでおわりですよ。ミサイルを大阪府庁、東京都庁に向けた、発射ボタンを押すぞって、宣言すれば、それだけで、府知事、都知事は万歳して、日本政府より先に、降参しますってやってしまいそうだから、そうなれば、日本の主権は無くなって、現王朝は滅んでしまいそうです。

内的要因では、秋篠宮家の内親王の、国民の望まない結婚は、人々の心から皇室離れをひきおこしています。皇室いらないっていう雰囲気は、恐ろしいことです。

 

自分が良ければって言う考えもあるけど、日本が占領されてしまえば、そんなこといってられないのですよ。ウクライナがなんであれだけ、すぐ降参なんぞせずに、泥沼とも言える戦争を続けているのか。降参したら、酷いことになるのがわかっているからです。チャイナ国に占領されれば、日本人は、ウイグル自治区のムスリムや、法輪功の修学者のように、強制的に捕まって、内臓を売買されてしまったり(要は殺されてしまうって言うことですよ)、北朝鮮に占領されるとどうなるかって言うと、二日市病院が全国各地に出来たりするんじゃないかって、本当に心配になりますよね。

神倭朝として皇紀2683年、神武天皇が、王朝名を変更して、この日本に施した霊的シールドは、そろそろほころびが出て来ているのかな?。竹内文献を多くの方が目にして、本来の日本人のあるべき姿に目覚めてほしいものです。

 

ちなみに、この神倭朝の名前の由来になった、3振りの神日本魂御剣。(あぼいのたから)っていうらしい。私は、写真でしかみたことがないけど、すべて焼けてしまったと思われていた竹内家の御神宝、実は、数百点は現存していて、毎年3月の春の大祭の後、奉賛会の特別会員だけ、拝殿に上がって、御神宝拝観が叶うので、剣もその時に見られるようです。まあ私は、特別会員でないので見たことはないけど。ケースにはいった数点の御神宝を拝観でき、手をかざすと神気を感じると言われています。