達人のような動きや察知能力を身につけたいとおもい、
武道武術をやったものの、
道場では出来るようになった。
が、実際に日常生活では出来ないということが多い。
それは、
道場の稽古は全て、何かしらのルールが限定された中でやっていることだからだ。
だが、
日常生活では、そこにはルールは存在しない。
車がルールを守っていたりするように見えるけど、
あくまで法定ルールであり、それは自分と共通のルールなのかどうかはわからない。
つまり、
日常生活では、
一見同じ共通ルールを持って生活しているように見えて、
実際には人それぞれ独自のルールで生活しており、
それらが混ざり合った世界が社会という名の場所なのだ。
だから、
そんな中で道場の稽古でやったことを試そうとしても、
それが通用しないことはすぐにわかる。
なぜなら、
相手は自分の思ったとおりになど動いてくれないし、してくれるとは限らないからだ。
お店に入って何かを注文したり、自分が思ったとおりに話をしてみても、
実際には自分の思ったとおりになることは少ない。
そして、得てして我々はこういう言葉を使って、
その自分の思い通りにならなかったことを、正当化しようとする。
「融通がきかないなぁ」
と。
でも、ちょっと待ってほしい。
これが武道・武術の世界で言えば、
「自分の思ったとおりに相手が動く」
という大前提で行ってるわけだから、
当然、この後相手に斬られるのは、自明のことである。
だが、
今の現代ではそんなことは滅多に起きないので、
自分の思いや考えどおりにいかないと、すぐに愚痴や不平不満を言って、
相手のせいにしてしまう。
それを繰り返した結果、
日本のサービスは隅々まで行き届くようにはなったものの、
わがままとしかいえない、理不尽な一方的な思いだけが増えるようになってきた。
これでは、武道武術でやっていることの意味はないし、
そもそもなぜ武道武術をやっているのかという目的すら見失っている。
なぜ武道武術をやるのかといえば、
こういった日常生活において、その場で柔軟かつ適切な対応が求められるからであり、
その求められる能力を養うために、やっているのである。
それが出来ないのであれば、武道武術をやっている意味はないし、
やる必要はないのだ。
つまり、
日常生活において使えることが、
本当の意味での稽古したことの実践であり、自分の経験や体験、智慧となるのだ。
だから、もしこういった融通の聞かない相手やお店に出くわした時は、
自分の反応をよく観察すること。
そして、その臨機応変の対応を求められた時に、その場で最善と思われる行動をとること。
取れなければ、
それは道場の稽古はまだ自分の身体に落としきれてない、ということになる。
きちんと、
実践の場で検証することが大事なのだ。
だから、
自分が冷や汗をかいたり、思考が固まってしまうような場面に出くわすことが、
この武道武術をやってきたことの何よりの実践的検証の場になると心得ながら、
日常を過ごすことで、自分がレベルアップしていくということを認識するのだ。
かくいう自分も、
そういう場面に出くわすと、
まだまだそこまでの対応が取れていないことが良く分かる。
言ってみれば、
どんなに後で反省しようと、次はこうしようと思ってみても、
すでにその時の対応で自分の判断は決まっており、またその対応がまずければ、
その時点で自分は斬られていたのだ。
その点を十分にかみ締めて、普段、日常生活からやっていく以外に、
武道武術のレベルアップはありえないと日々考えている。