センター試験が終わったあと、私はどこの大学にも出願しませんでした。


あの結果を見てしまったら、もう何もかも無理だと思ってしまったのです。

今思えば、最後まで受けてみるという道もあったのかもしれません。

でも当時の私は、そんなふうに考えられる状態ではありませんでした。


もうだめだ。

私はそう決めてしまっていました。


そして、その代わりのように、ある専門学校のパンフレットを手に取りました。

言語療法を学べる学校でした。


これなら行けるかもしれない。

ここなら何とかなるかもしれない。

そんな気持ちで、私は母に「この学校に進学させてほしい」と頼みました。


今振り返れば、あの時の私は完全に逃げていたのだと思います。

その学校に本当に行きたかったのかと聞かれたら、正直、自信がありません。


ただ、これ以上受験勉強をしたくなかった。

もう失敗したくなかった。

これ以上、自分がだめな人間だと突きつけられたくなかった。

たぶん、それが本音でした。


母は、私の話をひと通り聞いたあと、静かにこう言いました。


「それは本当にあなたのやりたいことなの?」

「ただ受験勉強から逃げたいだけじゃないの?」


図星でした。


私は何も言い返せませんでした。

その時の私は、自分でもそれがわかっていたからです。


さらに母は、自分のことを話してくれました。


母は本当は大学に行きたかったこと。

もっと勉強したかったこと。

けれど家にお金がなく、すぐ働ける看護の道へ進んだこと。

そして今、看護師として働いていること。


「私は大学に行きたかった」

「だから、あなたにはどんな大学でもいいから大学に行ってほしい」


そんなふうに言われたのを、今でも覚えています。


あの時の私は、母の言葉を聞いて、はじめて立ち止まったのだと思います。


今までは、自分の情けなさや苦しさばかりを見ていました。

でもその時、母にも母の人生があり、母なりの願いがあり、それを私に託してくれていたのだと気づいたのです。


もちろん、その場ですぐに立派な気持ちになれたわけではありません。

もう一年頑張ろう、と思い直したとしても、不安はそのままでした。

本当に今度こそできるのか。

また同じことを繰り返すのではないか。

そんな気持ちは消えませんでした。


でも、それでも私は、もう一年やり直すことを選びました。


そして今度は、宅浪ではなく、予備校に通うことになりました。


それも母の勧めでした。

「次の一年は、ちゃんと予備校に通った方がいい」

そう言ってくれたのです。


私は地元に二つあった予備校のうち、一つを選びました。

それが、私の人生を大きく変える場所になるとは、その時はまだ思っていませんでした。


今になって思うことがあります。

あの時の母の言葉は、厳しかったけれど、私を責めるためのものではありませんでした。

私の弱さを見抜いたうえで、それでも本気で立たせようとしてくれた言葉だったのだと思います。


もしあの時、母がただ私の言う通りにしていたら。

「そう、じゃあその学校にしようか」と言っていたら。

私はたぶん、そのまま流されるように別の道へ進んでいたと思います。


それが悪い道だったとは言いません。

でも少なくとも、今の私はいなかったはずです。


それに、あの頃の私はまだ知りませんでした。

自分の家が、実はそれほど余裕のある家庭ではなかったことを。


私はずっと、うちは普通に暮らせていると思っていました。

習い事もさせてもらっていたし、お小遣いももらっていたし、食べるものにも着るものにも困ったことはありませんでした。

ゲームも買ってもらえたし、携帯電話も持っていました。


だから私は、自分の家のことを何もわかっていなかったのです。


でも大人になってから、少しずつ知りました。

家のローンが残っていたこと。

父が会社を早期退職していたこと。

父の妹に多額のお金を貸していたこと。

決して、余裕のある家ではなかったこと。


そんな中で、両親は私にも妹にも、不自由を感じさせないようにしてくれていたのです。


だからこそ、もう一年予備校に通わせてもらうということの重みを、今の私はよくわかります。


あの時の私は、まだそこまで見えていませんでした。

でも、母の言葉に背中を押されて、もう一度だけ頑張ろうと思った。

それが、本当に大きな分かれ道だったのだと思います。


次回は、予備校に通い始めてからのことを書こうと思います。

勉強する場所ができて、友達ができて、私は少しずつ、人生を立て直していくことになります