僕は篳篥吹きだけど、笙も龍笛も演奏する。

龍笛とうぎ

笙 狩衣


笙や龍笛は習ったことはなく、見よう見まねで自分でなんとかしている。

龍笛は得意ではないからあまり演奏しないけれど笙は結構いろいろな演奏をこなせる。

いきなりのコラボのセッションでもどんな和音をどのように追従させればその曲が生きるか、などのひらめきが自然に出てくるのだ。


篳篥吹きは絶えず篳篥の舌(リード)を気にしていないといけない。

ひちりき

蘆で作るリードの部分は消耗品だから大変。

音が良くなくなってきたり、音程が定めにくくなってきたりすると

新しいリードを作らなければならない。

でもその作ることがとても大変。

調整がとても厄介なのだ。

コンサートに向けて、いつもいいタイミングでいい状態のリードでなければならない。

年に百回以上もコンサートをするということだと、そのどこかでリードがダメになる時期と重なることもあるから気を遣う。



さて、今回は笙のこと。 笙も大変だ。

時々調律をしないといけない。

僕がいつも使っている笙は特に歴史的に古いものではない。

東儀笙


我が家にはとっても古くて立派な笙もあって、それらももちろんお気に入りなのだけど、

たまたまいま一番よく使っているものが新し目のもので美術品としての気遣いはあまりしなくて楽に使えて、しかも音がいい、だからこればかり使うようになってしまった。

昔のものは煤竹(すすだけ)といって、茅葺き屋根の中の支柱として使われていた竹を使って作られている。

屋根の葺き替えは80年や100年単位で行われていたというからそれだけの間、いろりの煙が浸透した竹、というのが煤竹なのである。

煤竹は触るほどに手の油がなじんで光沢も出て美しいし、ねじれも少なくなるし、虫もつきにくい。

茶道具や美術品にもよく用いられるのが煤竹。

いまでは茅葺きがほとんど無いから煤竹は貴重なものなのだ。

篳篥や龍笛も煤竹で作られる。

日本のものはただ機能だけではなく、見た目の美しさも重要なのだ。

笙に至っては手で持つ部分には高蒔絵などが施されるものが多い。

さすがに平安貴族のたしなみの楽器であるから。


でもいくら素材がいいからといっても楽器としての響きに満足がいかなければ

その楽器は使わなくなってしまう。

現実的には煤竹であるなしより、気に入った音が出るものでなければ演奏会やレコーディングでは使えない。

笙の音は竹の根元に付けられた薄い金属の板(リード)が振動して鳴るのだ。

その金属の良さが要なのだ。

錫や銀、真鍮などの合金なのだがその割合や削り方によって音は大きく差が出る。

古いものはこの金属が厳選されたものが多いからいい音がする。

上品な音がするものが多い。

現代の安価に作られたものは見てくれはなんとかなっていてもこのリードの素材が粗末な場合が多いからやはり音も大きく違ってしまう。

いい素材で有ればいいというのでもなく、

いい素材を削るときに熱を持たせるとそれだけで音が悪くなるので、

ゆっくり時間をかけて砥石にこすりつけながら手作業で薄くしてかなければならない。

とにかく大変な作業なのだ。それだけで値段が上がってしまうのはしかたがないのだ。そういう価値なのだ。

そしてその上で煤竹で、しかも蒔絵の素晴らしいのが施されていたりすると、

楽器(音)の価値、美術品としての価値、伝統の匠の価値、が相まって値が跳ね上がるのは無理も無い。あたりまえなのだ。

そこに昔のもの、という歴史的価値が加わったらもうとんでもないことになるのも理解していただけると思う。

でもそういうものこそ、大事に奥にしまったままにしてはダメになる。

楽器は息を通し、手で触れてあげなければいけない。ときどき調整しなければいけない。

愛情をこめて接しなければね。

我が家にはとても古い楽器があるけれど、とっても上品な音がする。

向田笙
こちらも時々使う

そういう音を知っているからいろいろな音に対して意見が持てるのだ。

そういう意味でも先祖に大きな感謝を捧げたい。


あ、誤解してもらってはいけないのだけど、現代でも、素材や作りにこだわった作家もちゃんといて、頑張っている。


さて話を戻すけど。

僕のいま最も使っている笙は煤竹でもないし、蒔絵もない。でもとっても使いやすい。

で、最近この音程がわずかにずれて来たので調律をしたのだ。

笙は時々調律をしないといけない。使っているうちに少しずつ音程がくるっていくものなのだ。

それを自分で直すのだけど、これがとっても繊細な作業なのだ。

笙調律


金属の板(リード)に音程の微調整のための重りとして蜜蝋が乗っかっているのだけど、

その蜜蝋のほんのわずかを足したり減らしたりする。

百分の一グラムとかそういう感じの誤差を調整する。

まるでミクロの世界。

笙調律2


火鉢の炭で熱したコテでそれをやる。

コテはそれ専用のものなのだけど、昔の人たちは自分用にやりやすいものを作って持っていた。

我が家ではそういうコテもたくさん持ち伝えているからその中の僕の使いやすいものを選んで使う。

コテの加減、つまり指先の加減が要!

そして耳がたより!

全体的に演奏して、

「あ、〇〇の音がわずかに低くなっているな」とか気がつくと調律をする。

それに気づかなければ笙を扱えているとは言えない。

また、それを治す調律も自分でできないと本当の笙吹きとは言えない。

僕は手先が器用なので、

調律はけっこう得意なのだ。

耳にも自信があるしね。


でも実はこの調律のしかた、習ったことはないのだ。

宮内庁に努めていた頃に、笙吹きの仲間がやっているのを見たことや、話を聞いたのを自分なりに試してできてしまったのだ。

調律だけではない。

笙の洗い替えという、言わばすべてのオーバーホールも出来るようになってしまった。

好奇心からね。

そういえば、宮内庁にいたとき、僕の器用さを見て笙吹きの仲間が壊れた笙を僕のところに持って来て直しを頼まれたこともあった。

いい経験をしたよ。



さて、また話をもどすと、

で、先日調律をするにあたって、ついでに他の笙もやっておこうと出してきた。

その笙も決して古いものではないけれど、こちらは煤竹、蒔絵の美しいもの。

笙すすだけ

笙すすだけかしら

やはりこういう見た目も大事だなあ、とつくづく思った。

なにしろ平安美学も同時に表現するものなんだもの。


ちょっといつもの気に入っている笙の「かしら」(手で持つ部分)と交換してみよう。

それには穴の大きさも調整しなければならないけど、でも普段使いの笙でも綺麗な蒔絵があったほうがいいと思って調整して、組み替えた。

結構素敵!

よし、もとの「かしら」には歴史的なものと肩を並べられるほどの高蒔絵をしかるべき蒔絵師にしてもらおう!

なんだかとっても雅な気持ちにさらにスイッチが入った。

ワクワク!!!


ところで、調律でもうひとつ気にしなければならないことがある。

洋楽と雅楽とでは微妙にピッチが違うので、洋楽とのコラボの時のためには

洋楽のピッチに合わせて調律をしないと、まったく使えない楽器になってしまう。

僕はいつも古典雅楽用のピッチのもと洋楽用のピッチのものとを使い分けている。

篳篥は僕はどんな場合も同じ楽器を使って、口で調節しながらピッチを替えながら吹いている。

専門的になるけど、雅楽と洋楽とではピッチは10ヘルツ違う。

これは音楽的には打撃的に激しい差なのだ。許容範囲はとっくに越えていて、

混在して楽器を鳴らそうものならまるで音楽にならない。耳障りなだけになる。

その10ヘルツを口と息の加減だけで変えて吹かなければならないのだ。

でもそうやって絶えず楽器とコミュニケーションを取り続けているからか、

どんどん篳篥のことが解ってくる。個性の生かし方、セッションでの生かし方、など、

可能性をどんどん見つけてあげられるようで楽しくなる。


話が脱線したけど、

僕は簡単そうに涼しい顔して篳篥や笙を吹いていると見えるかもしれないけれど、

実は奏でる以前にかなり繊細な、複雑な作業があってこその楽器表現なんだ。

そして篳篥に至ってはいいリードが出来ても

優しい音で、いい音程で演奏するのはとっても大変なことなのだよ。

でも僕はそういう音で吹きたい。それが心を伝える大きな手段になる。

中国の大昔の古文書に「戦乱の時、篳篥のせつない音色を耳にした兵士たちは自分の故郷を思い出し、戦う気持ちが薄れていった」とある。

篳篥は元々そういう音色の楽器でもあるのだ。


洋楽的な音楽を演奏するにも、篳篥でなければならない表現、

篳篥だからこその表現をとても重んじている。

例えば洋楽だからといって五線紙の通りに正確に吹くだけでは篳篥の役目をはたせないのだ。


でもそういう感覚は「大変なこと」でなく、だ~い好きなことのさ!


笙も篳篥も楽器の価値が下がってはいけない。

古典でもオリジナルでも、どんなジャンルでも楽器が喜んでくれそうな演奏を心がけている。

それがTOGISM (トーギズム)

篳篥どうぞ

篳篥 狩衣

ひちりきシャウト
全国ツアーでノリノリ

笙アー写

ジャケ写
最新アルバム
「ヒチリキロマンス~好きにならずにいられない」

日本の歌ジャケ写
来月、3月11日発売予定、「日本の歌」(ヒチリキによる日本の叙情歌集)


TOGI   リュウテキ ショウ2 ヒチリキ