NHK の旅番組「きらり えん旅」(12月17日放送予定)の仕事で
福島県の白河に行った。
「郷の夢」直売所というところに行って
地元の農家の産物を味わったりした。
山のふもとの、周りには田んぼや畑しかないところ。
地元のおばちゃん、おばあちゃんたちがたくさん集まって井戸端会議をしながらゆっくり時間が流れる。
「こんにゃく煮たから食べってって」
ストーブの上の鍋にはこんにゃくがどっさり
手作りのこんにゃくだからきめが粗く、そのおかげでダシがすごくよくしみ込んでいるし、口の中でほろほろっと砕けていく歯触りもよく、とってもいい味だった。
おもわず「こんな美味しいこんにゃく食べたことがない!」と叫んでしまった。
時間と心をたっぷり使って作られた味はこういうことなんだ。
ショウガ醤油で刺身こんにゃくもでてきたけれど、
これもとっても美味しかった。
何切れも食べまくった。
そして昔ながらの鉄の釜に籾殻をくべてその場で五箇米というその地域のお米を炊いてくれた。
これまたとってもとっても美味しかった。きらきら輝く白いご飯の一粒一粒がしっかり味をだしていて、噛めば噛むほど甘くなる。おかずなんかいらないくらい食べ続けたくなる。
おばちゃんたちとストーブを取り囲みながら世間話をする、その時間もとっても美味しい時間だった。
「今日は寒いねえ。 忙しいのかい?」
「ほら、りんごむいたよ。これは◯◯さんのとこのさ」
「あんれま、とーぎさんでねえの! こんなとごで会えるなんて今日はとくしたなあ」と言って加わるおばあちゃんも。
なんでもない会話にとってもあたたかな、そして優しい空気を感じる。
昔はきっとどこでもこうだったんだ。
本当はこれがあたりまえでなければならないんだ。
でも都会ではもうそんな空気に触れることはなくなってしまった。
おばちゃんたちとそうしているとき、あたりまえの時間がとてもいとおしく感じられた。嬉しくなった。
優しい気持ちになる。
ところで、その地域の農作物も、風評被害でそうとう深刻なのだそうだ。
検査しても問題ないものばかりなのに、福島というだけで、心配されてしまう。
悲しいことだ。
こんなに美味しくて、こころのこもった作物なのに・・・。
なんでもかんでも深刻に大声で心配し、危険を叫ぶ人がいる。
もちろん科学的な危険は避けなければならないけれど、
一事が万事のように声を上げることに僕は嫌悪感を感じる。
何でもない安全なものまでが巻き込まれて、回復できないでいる。
こんなことはあってはならない。
ご飯ひとつ、農作物ひとつに対しての扱いも文化だ。
その文化はいつでも自然に生きていなければならない。
普通の生活の中で、普通に存在していてほしい。
風評を云々したり、どこそこのなになにには注意しろ、危ない、とかやたらと吹聴する人がいるけれど、自分が直面する対象にのみ自分が心配して自分なりの判断をして自分の中で解決していってほしいものだ。それには自己責任もかなり関わってくるが、回避するという簡単な方法はいつでも選べる。風評被害に合う側の人たちはその被害を回避したくてもできないのだから。それは不公平だ。
おばあちゃんたちは残ったご飯をおにぎりにしてくれた。
うっすらと表面にお味噌をつけながら。
そのおにぎりをにぎるしわしわの手を見ていたら、
涙が出るくらい嬉しくなっちゃった。
普通のことのはずなのに、なんだか心がきれいになっていくような感覚だった。
大事な感覚だ。
お礼に、篳篥で「ふるさと」を吹いた。
涙を流して聴いてくれるおばちゃんもいた。
またここに来よう。
福島は僕に大きなものをくれた。
白河 大大だ~い好きさ!
福島県の白河に行った。
「郷の夢」直売所というところに行って
地元の農家の産物を味わったりした。
山のふもとの、周りには田んぼや畑しかないところ。
地元のおばちゃん、おばあちゃんたちがたくさん集まって井戸端会議をしながらゆっくり時間が流れる。
「こんにゃく煮たから食べってって」
ストーブの上の鍋にはこんにゃくがどっさり
手作りのこんにゃくだからきめが粗く、そのおかげでダシがすごくよくしみ込んでいるし、口の中でほろほろっと砕けていく歯触りもよく、とってもいい味だった。
おもわず「こんな美味しいこんにゃく食べたことがない!」と叫んでしまった。
時間と心をたっぷり使って作られた味はこういうことなんだ。
ショウガ醤油で刺身こんにゃくもでてきたけれど、
これもとっても美味しかった。
何切れも食べまくった。
そして昔ながらの鉄の釜に籾殻をくべてその場で五箇米というその地域のお米を炊いてくれた。
これまたとってもとっても美味しかった。きらきら輝く白いご飯の一粒一粒がしっかり味をだしていて、噛めば噛むほど甘くなる。おかずなんかいらないくらい食べ続けたくなる。
おばちゃんたちとストーブを取り囲みながら世間話をする、その時間もとっても美味しい時間だった。
「今日は寒いねえ。 忙しいのかい?」
「ほら、りんごむいたよ。これは◯◯さんのとこのさ」
「あんれま、とーぎさんでねえの! こんなとごで会えるなんて今日はとくしたなあ」と言って加わるおばあちゃんも。
なんでもない会話にとってもあたたかな、そして優しい空気を感じる。
昔はきっとどこでもこうだったんだ。
本当はこれがあたりまえでなければならないんだ。
でも都会ではもうそんな空気に触れることはなくなってしまった。
おばちゃんたちとそうしているとき、あたりまえの時間がとてもいとおしく感じられた。嬉しくなった。
優しい気持ちになる。
ところで、その地域の農作物も、風評被害でそうとう深刻なのだそうだ。
検査しても問題ないものばかりなのに、福島というだけで、心配されてしまう。
悲しいことだ。
こんなに美味しくて、こころのこもった作物なのに・・・。
なんでもかんでも深刻に大声で心配し、危険を叫ぶ人がいる。
もちろん科学的な危険は避けなければならないけれど、
一事が万事のように声を上げることに僕は嫌悪感を感じる。
何でもない安全なものまでが巻き込まれて、回復できないでいる。
こんなことはあってはならない。
ご飯ひとつ、農作物ひとつに対しての扱いも文化だ。
その文化はいつでも自然に生きていなければならない。
普通の生活の中で、普通に存在していてほしい。
風評を云々したり、どこそこのなになにには注意しろ、危ない、とかやたらと吹聴する人がいるけれど、自分が直面する対象にのみ自分が心配して自分なりの判断をして自分の中で解決していってほしいものだ。それには自己責任もかなり関わってくるが、回避するという簡単な方法はいつでも選べる。風評被害に合う側の人たちはその被害を回避したくてもできないのだから。それは不公平だ。
おばあちゃんたちは残ったご飯をおにぎりにしてくれた。
うっすらと表面にお味噌をつけながら。
そのおにぎりをにぎるしわしわの手を見ていたら、
涙が出るくらい嬉しくなっちゃった。
普通のことのはずなのに、なんだか心がきれいになっていくような感覚だった。
大事な感覚だ。
お礼に、篳篥で「ふるさと」を吹いた。
涙を流して聴いてくれるおばちゃんもいた。
またここに来よう。
福島は僕に大きなものをくれた。
白河 大大だ~い好きさ!