Macが置かれている机に向かってスリープしていたディスプレイに明りを蘇らせ

た。そこに今日の森合との打ち合わせからイメージできる言葉をテキストに打ち始

めた。その時にディスプレイの脇に置かれた『新明解国語辞典』が目に入った。辞

典を手に取って「恋愛」を引いた。

 恋愛――特定の異性に特別の愛情をいだいて、二人だけで一緒に居たい、出来る

なら合体したいという気持を持ちながら、それが、常にはかなえられないで、ひど

く心を苦しめる(まれにかなえられて歓喜する)状態……

「うおぉ~。合体っすかぁ~。なんか思い切った直球解説だな~。さすが金田一先生」

 でも的を得てるな。う~ん、合体ねぇ……。

 まっ、それはいいとしてだ。今日の打ち合わせの内容は、参ったね。というのも

クライアントが希望しているデザインの内容が小難しい。というか抽象的過ぎて……。

 今のところ、私の得意分野はとしては対象がはっきりしているのが一番楽(得意

分野とは云えないけれど)なんだよね。そんな訳でこれまではファーストフードの

ポスターとか雑誌の表紙とかが主な仕事だったし、そう云う抽象的な仕事は避けて

いた。でも、今月は仕事量が少なくて選んでいる余裕も金も無く、何でもするから

仕事くれって云い続けていたら苦手な仕事が舞い込んで来た訳だ。

 で。その仕事は小説(短篇集)、タイトルは『鋼の子ども』の表紙のデザイン。

森合から取り敢えず出来たゲラを渡されて、こう云われた。

「作者の要望としてはね、陰鬱でありながら、生きる希望とか生きようとする力を

感じさせる表紙にしたいとの事なんだ。あとは作品を読んでのインスピレーション

も読者側からとして取り込みたいと。それを打ち合わせ含めて二ヶ月で完成させて

貰って、今のところの制作費はこの額を支払います」

 うわあ~。すっごい抽象的。しかもインスピレーションって私独りのでいいの?

私の独壇場じゃん。ってかそうする事しかできないぞ。う~ん、難しいなこれ。で

もオイシイ仕事ではあるんだよね。再版が決まればまた自分が創った表紙が使われ

るからその分の使用料が発生するし、まず二ヶ月って期間も良いし、提示された金

額が中々良いんだよなあ。とか思いつつも既に仕事は請け負っちゃってるんだよね。

ってかやらないと厳しいし。まっ、取り敢えず読んでみますか。





 ……――暗く、そして、重い。絶望や悲観だけの余韻。


 ……――生きる希望の力など微塵も感じられない。




 一度読み終えたばかりの感想……否、感覚はそれだった。





 一体、何の為にこの作品を創作したのかが七海には理解できなかった。

 否、元々人と人は理解し合えない。それを無理に理解しようとなんてするからそ

こに因果関係とか合理性なんてものを持ち出して来てしまうんだ。まったくもって

不憫な生き物だ。そんな事をして挙句の果てには誹謗中傷までして生きてる連中が

いるんだから。

 はぁ~っと溜息が出る。友人の言葉を憶い出した。

 ――溜息してると幸せが逃げるんじゃなくて、不幸が迫って来るよ、くくく。

 これは私には効果覿面で、確かに良い事が逃げるより、嫌な事が迫って来るって

のが判ったら怖いよなあって思って、それ以来なんか溜息を吐くのが少なくなった。

 そんな彼女は、実はそんな事を云い乍ら私より溜息が多かった。けど、もうそん

な事は出来なくなった。彼女はいわゆる、お星様になったからだ。

 本の影響もあってか、だんだんと涙腺が弛んで来て、彼女と過ごした日々が脳裡

を徘徊でもするかの様にぐるぐる、ぐるぐるとして、膨らんで大きくなって涙と鼻

水が溢れて来た。そこでふっと涙の過去を辿ってみる。いつ頃から泣いていなかっ

ただろう?

 ベッドに横たわって、私は天井を視詰め乍らその答えを出そうと自問を反芻した。

けれど、答えなんて見付けられなかった。そうして涙を流し続けて目元の肌がカラ

カラになってからスケッチブックを開いて、藍錆色の絵具を筆に撫で付けて迷う事

無く一本の緩やかな曲線を描いた。出来上がった藍錆色の線を視詰めて大きく深呼

吸する。すうっと力が抜けて、私はベッドへ潜った。

 七海は翌朝、いつもだらだらと過ごす午前中をそんな風にはしないでてきぱきと

出掛ける準備をしてある場所に向かった。

 ある場所――火葬場。彼女の肉体が高熱で焼かれ骨だけにされた場所。私は駐車

場に車を停めて、バスから降りて来る喪服の列を眺めた。



 ――あの時、私もあんな行列の中にいたんだ。

 DRAMAGODSの〔Something About You〕 を聴いてそんな風に念いながら少し視線

をずらすと奇天烈だけれどどこか視憶えのある後ろ姿が入り込んで来た。

 仁王立ちに、ベルボトムジーンズに虎柄のアロハシャツ。



 ――げっ、じっちゃん!? 何でこんなトコにいんのよ?

「おぉ~い!」



 広いベランダに立ち、真蒼に澄んだ空に昇る太陽に向かって近所の迷惑など一切

お構い無く大声を発した。

 理由は大した事ではない。こんな街中に住んでいても谺って聴こえるんだろうか?

とふっと思い立っただけの事からだ。そうして耳をすましてみると谺なんてまった

く無くて空に吸収されてしまったかの様な余韻だけであった。




 ――まっ、そんなもんか。




 と思う。幼い頃の田舎に住んでいた頃とはまるで違う訳だ。そう憶うと昔に視た

空と、今こうして視ている空は、何かが異なっていて真蒼に澄んだ空だと想えた空

が酷く滑稽に念えて来た。

 そんな空を視上げて、全身を大きく伸ばし乍ら深呼吸をして吸込んだ空気を吐く

と同時に躰を弛緩させた。


 さて、一眠りしますか。




 時間は十四時を過ぎたばかり。

 大声を出したベランダに出て、また真蒼な空を視上げる。


 ――世界は壊れてない様だねぇ……ノストラダムス予言はどうなったよ?


 そんな下らない思考を巡らせてベランダから部屋へ戻り、机に向かってMacを立

ち上げて早速仕事に取り掛かった。どこかの会社にかこわれてない、まぁいわゆる

フリーのイラストレーターってやつで何とか細々と飯を喰い繋いでいる。今、主に

仕事としているのは雑誌の表紙を創ったり、ファーストフードの小物(カードとか)

を創っている。稀に来る大きな仕事と云えば、どこぞの団体のポスターだとかイベ

ントで派手なイラストを創る事くらいだ。まぁそんなでも取り敢えず、描けるんだ

な。でも――



 ――でも、何で注文通りのモノを描けるんだろうか?



 それは自分でもよく判らなかった。

 私がこんな仕事をしているのは、単純に企業に勤めるのが厭だったからだ。それ

で大学で専攻していた事もあって、当時では渾身の作品をあるコンテストに応募し

てみたら、大賞を受賞。それで最初はもてはやされたんだけど、時代はそんな事は

すぐに忘れてまた別の事件とか若い人が何かの大きな文学賞を受賞したとかで、結

局私は置いてけぼりをくらい、現在は取り敢えず描いているだけだ。描けるから何

とか喰いっぱぐれはしないですんでいる。

 で。朝方に出来上がった作品を確認してCD–ROMにデータを移行して約束の打ち

合わせに出掛けた。

 さっきも視上げたばかりの空を、もう一度視上げる。

 さあ――っと風が吹いて伸ばし始めた髪を巻き上げて通り過ぎて行く。ふわりと

そんな風を孕んで髪は静かに肩を翳めて、揺らいだ。




 ――いいね! もう少しで春も終わって、夏が来る。いいね。この蒼空。


 ゲフッ。




 ビールを片手にそんな蒼空を視上げてこんな爽やかな想いを馳せているとは、第

三者からしたら思ってもみないだろう。特にスーツを着込んで腕時計と睨めっこの

格闘をしているサラリーマンからしたら、ちくしょうなんだよあの女!? 昼間か

らビールなんて飲みやがってくらいに思っているだろう。

 これ、重要。これが自営業の良いところ。そう云うところは自分で抑えられる事

なら幾らでも自由になれる。でももしもの時にはそのリスクは自前でなんとかしな

いとならないけど……。

 そんなこんなで、打ち合わせは無事終了。クライアントも納得してくれる作品を

披露して運が良くてその場でゴーサインも出た。後はその会社の編集者が頑張って

くれるだろう。クライアントが途中で気紛れを起こさない限り。そしてその打ち合

わせの後にまた別の編集者との打ち合わせがあって廊下を歩いていると小さな窓か

ら夕陽が強く射込んで来て私は今日何度目かの視上げる行動をとった。何となくド

キドキして急いで打ち合わせ室へ這入って窓を開けて紅に染まった空を視上げた。





 ――なんて――美しいんだろう。





 私は暫くそんな夕焼け空を眺めて、どこか別の次元に意識だけが飛んで行ってい

た様で、肩を叩かれるまで呼ばれている事に全然気付かなかった。

「七海さん、どうしたんですか? 打ち合わせ始めますよ」

「あっ。はい、すみません。宜しくお願い致します」

「こちらこそ。あっ、何度も擦れ違ってたけど仕事するのは今回始めてですよね」

「あ~、そう云えばそうですね。えっと、名刺です。宜しくお願いします」

「有難う御座居ます。私も名刺を」

 そう云って何度か擦れ違った男から貰った名刺には森合博文と書いてあった。何

となく、気になった。何がって訊かれても上手く答えられないけど、何となくね。

気になったのよ。ただ、それだけ。でも……。

 でも……恋なんてもう面倒だ。人はよく恋愛なんて言葉を簡単に云ってしまうけ

れど、恋イコール愛じゃないと私は想っていたりする訳。だからどうして「恋愛」

なんて単語を誰が創ったんだ? なんても考えたりするんだけど、そんな事はやっ

ぱり判らなくて、どんどん面倒臭くなる。恋ってなんだろう? 愛ってなんだろう?

ってそこでまた考えたりもするんだけど、それすら判らない。だからその二つがくっ

ついた単語なんて更に判らなくて混乱してしまって、私にとってはとってもデンジャ

ラス・ゾーンに踏込みそうになるんだな。まあ、今のところはそう云う場所から遠

ざかっているけれどさ。

 でも……今日は久々にそんな事をあれこれと考えた。そんで空は紅から朱色になっ

てどんどん青黒くなって仕舞いには真っ暗になった。広いベランダに椅子を持ち出

して、煙草を吸い乍らそんな空を視上げていた。暗いけど、少しだけ、いつもより

広く感じた。

 私、七海玲は恋がしたいのか。それとも誰かを愛してその誰かに愛されたいのか

も判らない。で、また想う。恋したい、愛したいって云うし愛されたいって云うけ

れど、恋されたいなんて云わないよなぁ……? やっぱ、何かが違うんだ。




 ぷはあ~……ゲフッ。