「おぉ~い!」



 広いベランダに立ち、真蒼に澄んだ空に昇る太陽に向かって近所の迷惑など一切

お構い無く大声を発した。

 理由は大した事ではない。こんな街中に住んでいても谺って聴こえるんだろうか?

とふっと思い立っただけの事からだ。そうして耳をすましてみると谺なんてまった

く無くて空に吸収されてしまったかの様な余韻だけであった。




 ――まっ、そんなもんか。




 と思う。幼い頃の田舎に住んでいた頃とはまるで違う訳だ。そう憶うと昔に視た

空と、今こうして視ている空は、何かが異なっていて真蒼に澄んだ空だと想えた空

が酷く滑稽に念えて来た。

 そんな空を視上げて、全身を大きく伸ばし乍ら深呼吸をして吸込んだ空気を吐く

と同時に躰を弛緩させた。


 さて、一眠りしますか。




 時間は十四時を過ぎたばかり。

 大声を出したベランダに出て、また真蒼な空を視上げる。


 ――世界は壊れてない様だねぇ……ノストラダムス予言はどうなったよ?


 そんな下らない思考を巡らせてベランダから部屋へ戻り、机に向かってMacを立

ち上げて早速仕事に取り掛かった。どこかの会社にかこわれてない、まぁいわゆる

フリーのイラストレーターってやつで何とか細々と飯を喰い繋いでいる。今、主に

仕事としているのは雑誌の表紙を創ったり、ファーストフードの小物(カードとか)

を創っている。稀に来る大きな仕事と云えば、どこぞの団体のポスターだとかイベ

ントで派手なイラストを創る事くらいだ。まぁそんなでも取り敢えず、描けるんだ

な。でも――



 ――でも、何で注文通りのモノを描けるんだろうか?



 それは自分でもよく判らなかった。

 私がこんな仕事をしているのは、単純に企業に勤めるのが厭だったからだ。それ

で大学で専攻していた事もあって、当時では渾身の作品をあるコンテストに応募し

てみたら、大賞を受賞。それで最初はもてはやされたんだけど、時代はそんな事は

すぐに忘れてまた別の事件とか若い人が何かの大きな文学賞を受賞したとかで、結

局私は置いてけぼりをくらい、現在は取り敢えず描いているだけだ。描けるから何

とか喰いっぱぐれはしないですんでいる。

 で。朝方に出来上がった作品を確認してCD–ROMにデータを移行して約束の打ち

合わせに出掛けた。

 さっきも視上げたばかりの空を、もう一度視上げる。

 さあ――っと風が吹いて伸ばし始めた髪を巻き上げて通り過ぎて行く。ふわりと

そんな風を孕んで髪は静かに肩を翳めて、揺らいだ。




 ――いいね! もう少しで春も終わって、夏が来る。いいね。この蒼空。


 ゲフッ。




 ビールを片手にそんな蒼空を視上げてこんな爽やかな想いを馳せているとは、第

三者からしたら思ってもみないだろう。特にスーツを着込んで腕時計と睨めっこの

格闘をしているサラリーマンからしたら、ちくしょうなんだよあの女!? 昼間か

らビールなんて飲みやがってくらいに思っているだろう。

 これ、重要。これが自営業の良いところ。そう云うところは自分で抑えられる事

なら幾らでも自由になれる。でももしもの時にはそのリスクは自前でなんとかしな

いとならないけど……。

 そんなこんなで、打ち合わせは無事終了。クライアントも納得してくれる作品を

披露して運が良くてその場でゴーサインも出た。後はその会社の編集者が頑張って

くれるだろう。クライアントが途中で気紛れを起こさない限り。そしてその打ち合

わせの後にまた別の編集者との打ち合わせがあって廊下を歩いていると小さな窓か

ら夕陽が強く射込んで来て私は今日何度目かの視上げる行動をとった。何となくド

キドキして急いで打ち合わせ室へ這入って窓を開けて紅に染まった空を視上げた。





 ――なんて――美しいんだろう。





 私は暫くそんな夕焼け空を眺めて、どこか別の次元に意識だけが飛んで行ってい

た様で、肩を叩かれるまで呼ばれている事に全然気付かなかった。

「七海さん、どうしたんですか? 打ち合わせ始めますよ」

「あっ。はい、すみません。宜しくお願い致します」

「こちらこそ。あっ、何度も擦れ違ってたけど仕事するのは今回始めてですよね」

「あ~、そう云えばそうですね。えっと、名刺です。宜しくお願いします」

「有難う御座居ます。私も名刺を」

 そう云って何度か擦れ違った男から貰った名刺には森合博文と書いてあった。何

となく、気になった。何がって訊かれても上手く答えられないけど、何となくね。

気になったのよ。ただ、それだけ。でも……。

 でも……恋なんてもう面倒だ。人はよく恋愛なんて言葉を簡単に云ってしまうけ

れど、恋イコール愛じゃないと私は想っていたりする訳。だからどうして「恋愛」

なんて単語を誰が創ったんだ? なんても考えたりするんだけど、そんな事はやっ

ぱり判らなくて、どんどん面倒臭くなる。恋ってなんだろう? 愛ってなんだろう?

ってそこでまた考えたりもするんだけど、それすら判らない。だからその二つがくっ

ついた単語なんて更に判らなくて混乱してしまって、私にとってはとってもデンジャ

ラス・ゾーンに踏込みそうになるんだな。まあ、今のところはそう云う場所から遠

ざかっているけれどさ。

 でも……今日は久々にそんな事をあれこれと考えた。そんで空は紅から朱色になっ

てどんどん青黒くなって仕舞いには真っ暗になった。広いベランダに椅子を持ち出

して、煙草を吸い乍らそんな空を視上げていた。暗いけど、少しだけ、いつもより

広く感じた。

 私、七海玲は恋がしたいのか。それとも誰かを愛してその誰かに愛されたいのか

も判らない。で、また想う。恋したい、愛したいって云うし愛されたいって云うけ

れど、恋されたいなんて云わないよなぁ……? やっぱ、何かが違うんだ。




 ぷはあ~……ゲフッ。