もっと強く

 

もっと強く願っていいのだ
わたしたちは 明石の鯛が食べたいと

もっと強く願っていいのだ
わたしたちは 幾種類ものジャムが
いつも食卓にあるようにと

もっと強く願っていいのだ
わたしたちは 朝日の射す明るい
台所がほしいと

すりきれた靴は あっさりと捨て
キュッと鳴る新しい靴の感触を
もっとしばし味わいたいと

秋 旅に出たひとがあれば
ウィンクで 送ってやればいいのだ

なぜだろう
萎縮することが生活なのだと
思い込んでしまった村と町
家々のひさしは 上目づかいのまぶた

おーい 小さな時計屋さん
猫背を伸ばし あなたは叫んでいいのだ
今年もついに 土用の鰻と会わなかったと

おーい 小さな釣り道具屋さん
あなたは叫んでいいのだ
俺はまだ 伊勢の海も見ていないと

女が欲しければ奪うのもいいのだ
男が欲しければ奪うのもいいのだ

ああ わたしたちが
もっともっと貪欲にならないかぎり
なにごとも始まりはしないのだ。

小さな渦巻     茨木のり子

 

ひとりの籠屋が竹籠を編む

なめらかに 魔法のように美しく

 

ひとりの医師がこつこつと統計表を

埋めている 彪大なものにつながる

きれつばし

 

ひとりの若い俳優は憧憬の表情を

今日も必死に再現している

 

ひとりの老いた百姓の皮肉は

〈忘れられない言葉〉となって

誰かの胸にたしかに育つ

 

ひとりの人間の真撃な仕事は

おもいもかけない遠いところで

小さな小さな渦巻をつくる

 

それは風に運ばれる種子よりも自由に

すきな進路をとり

すきなところに花を咲かせる

 

私がものを考える

私がなにかを選びとる

私の魂が上等のチーズのように

練られてゆこうとするのも

みんな どこからともなく飛んできたり

ふしぎな磁力でひさよせられたりした

この小さく鋭い竜巻のせいだ

知らないことが     茨木のり子

 

大学の階段教室で

ひとりの学生が口をひらく

ぱくりぱくりと鰐のようにひらく

意志とはなんのかかわりもなく

 

戦場である恐怖に出会ってから

この発作ははじまったのだ

電車のなかでも

銀杏の下でも

ところかまわず目をさます

錐体外路系統の疾患

 

学生は恥ぢてうつむき口を掩う

しかし 年若い友らにまじり

学ぶ姿勢をいささかも崩そうとはしない

 

ひとりの青年を切りさいてすぎたもの

それはどんな恐怖であったのか

ひとりの青年を起きあがらせたもの

それはどんな敬虔な願いであったのか

 

彼がうっすらと口をあけ

ささやかな眠りにはいったとき

できることなら ああそつと

彼の夢の中にしのびこんで

少し生意気な姉のように

”あなたを知らないでいてごめんなさい”

静かに髪をなでていたい

 

精密な受信器はふえてゆくばかりなのに

世界のできごとは一日でわかるのに

”知らないことが多すぎる”と

あなたにだけは告げてみたい