昨日、高垣忠一郎さんの偲ぶ会が京都教育文化センターでありました。

私は、偲ぶ会には参加できなかったのですが、大学生の頃 「小・中学生の発達と教育」(秋葉英則編著高垣忠一郎さん執筆) を教師をめざす会というサークルで教職をめざす仲間とそれをテキストに学習会を行いました。教師になってからも、こどものとらえ方、発達のすじ道、また学校教育の課題、不登校・登校拒否のとらえ方などを高垣さんの著作から学んできました。

学級づくりなど集団づくりに取り組む一方、今の学校のあり方やこどもたちの苦悩について、高垣さんはいろんな意味で私たちに幅広い視野をあたえてくださいました。

 

高垣さんは庶民的哲学教育者であり、学校やごどもの現状をいつも明解にわかりやすくそして痛快かつユーモアをもって語ってくださいました。不登校の子どもたちがいま24万人、そして教員が精神疾患になったり、しんどい思いの中で退職せざるをえない今日の状況のなかで、私たちは高垣さんが語られた言葉と思いを今一度共有また発信できたらという思いで高垣さんから学ぶというタイトルでブログを綴っています。

 

「戸谷くん。組合の教研や学習会も すぐれた実践をもってくるのでなく、困っている教師が集まれるような教研のスタイルにしていくべき時期にきているのでないか」と話されたことがずっと私の記憶にあります。今から7.8年前だったでしょうか。いま、その視点が求められていると思います。

 

教師ほど楽しくやりがいのある仕事はないのですが、そういうビジョンとは全く違う方向で学校づくりが進められ、教師の仕事本来の楽しさや面白さが剝ぎ取られ、そのあげく どこもかしこも「教師が足りない」「教師のなり手がない」という有様です。

 

けど、本当に多くの先生方は、そういう「人間が疎外される」学校で苦しみ悩み、「しんどい」ときに周囲に相談したり、ヘルプということさえ言えずに  休まれたり途中退職されたり… というのが現状です。

 

私がこのブログ書きながらたとえ一人でもそんな先生を間接的にでも応援できたらそんな気持ちで書いています。

 

 

 

 

つい「がんばりすぎてしまう」あなたへ

ここ10数年前からの「自由」に名を借りた新自由主義の支配政策のもとで、自己責任という言葉が大手をふって闊歩しています、

どこもかしこも。本当は、教育の歪みや課題は、教育政策やシステムにあるのですが、それを無罪放免にして責任を転嫁するために、一人一人の背負う困難を「自分がダメだから、苦しんだり、悩んだりしなければならないのだ」と自分を責め自分自身のせいなのだという「空気」にしむけられ、それにおしつぶされそうになります。

 

本当は、国の政策やそれによってつくられるシステムに怒りが向けられるべきなのですが、そういう「声」さえおしつぶして「言葉を抹殺」するかのまような学校システムをつくり、教師自身が自罰的・自責的に感情にすり変えられてしまいます。

少なくともいま、職員会議や職員室で「おかしいなあ」「変だなあ」「そんなことやめよう」というやりとりはやりにくくなっていると思います。それが一般的ではないでしょうか。

 

 

それが自分自身の心身に向けられ、心身の変調や苦痛へと変換されていくことになります。

 

子ども達も教師も同じ環境におかれてどちらも苦しんでいるのです。

「すべて国民は個人として尊重される」

人間は多種多様でさまざまな個性があります。ひとつのこうしなければならないという価値が支配すると、その多種多様性がはく奪されることもあります。とりわけ教育の世界においては、なおさら不完全さも含めてその人のもっている弱さが大切にされなければなりません。そうでないとするならば競争的であったり「できる」ことが素晴らしいという価値が支配すると、「自分のがんばりが足りないんだ」「自分には能力がない」となり、本人は自責の念や自己否定の気持ちを募らせざるをえなくなります。

 

いまもとめるべきは、弱さや不完全さを含めて人と人が癒し共感し互いの気持ちをうけとめあうことです。教師が指導できなかったり、経験年数の少ない先生ほど指導上の課題をかかえていることも多々あるでしょう。

 

けれども、断じていいます。それはどの世界でも当たり前であって、プロ野球でも入団して即戦力なんていうのは稀なことで、

数年は二軍で鍛えて、だんだんと実力を開花させるのが通常です。

ひとりひとりの個性を抹殺してベテランの実践力にあわせて「こういうふうに」スタンダードあわせましょう。なんてもってのほかです。若い先生にはほ若い先生なりの持ち味やエネルギーがあります。それを生かしてこそ人間味ある学校現場がつくれるのです。若い世代が生きにくい学校現場は、若い先生が忍耐がないとか、やるべきことをやらないのではなく、ベテランの中堅教師が大手を振ってやりたいように学校をつくっているといっても過言ではありません。そんなスタンダードなどくそくらえです!

 

互いに学びあい 人間教師として困っている先生を批判するのでなく助け合える実践のスタイルをそれぞれの学校・職場でつくっていくことがいま求められているのです。

新自由主義の自己責任が闊歩する壁をのりこえるにはそれしかないと思います。

 

                                             つつぐ