私は、学校と教育は、「地域」と「父母」とともにあるというは、前任の宇治田原町の7年間の教師生活のスタートにあたっての原点である。ずっとそうだった。

学校というところが、地域と父母のいろんな願い けど、「教育」というものを過剰にバーゲンしてはならない。

ほんとうにふつうにひとりひとりを大切にする。学力や部活の過剰な要求に応えるのではない。

ふつうに 隣近所のおばちゃんおっちゃんと話をするようにふつうにおしゃべりをし、井戸端会議をすればよい。

そのなかにヒントがあり、「つながり」がつくられていく。


この東宇治中学校の6年間の在任期間のなかでもふりかえれば父母や地域のみなさんのパワーと子ども達への思いは強烈だった。

 

 

 

 

東宇治中学校当時、京都府下一のマンモス校だった。ほんと、トイレに行くのも行列ができる。狭い
テニスコートに100人をこえる部員がひしめきあう。何より学年に所属しても、半数のクラスしか授業へ行かないので、子ども達の顔と名前が一致しない。学年会は定期的に開かれたが、学年交流だけでも1時間ですまない。
マンモス校の悲哀はつきない。

もちろん教育はロマンであり、夢であるので。日常の子ども達との関係性のなかでは、熱き思いをもって実践はすすめていくのだが。「多ければ」「大きければ」いいというものではない。

     どうしても、子どものことがわからない分、表面的な「管理」的な指導をすすめなければならないこともでてくる。もちろん、私は過度な管理的な指導に対しては体感的にアレルギーがあるのでしないのだが。教師間の軋轢は自然生じてしまう。
それをのりこえるためには何より「民主的」な関係性のなかで問題提起し議論することが求められるのである。

  東宇治中学校は民主的な教職員集団だった。

生徒も多ければ教師も多いが職員会議でも教職員がこどもたちのためにどんどん発言していた。討議することは、それは自然と「こどもたちの最善の利益」につながるのである。意見のない職員会議は無味乾燥な学校がつくられる。
私は、すべての職員会議で必ず発言してきたが、それは、私の脳裏にこどもたちの声や父母の声がよぎるからだ。


マンモス校解消のために「東宇治地域に中学校をつくる会」という父母市民による会がつくられて、中学校増設運動がおこなわれた。毎年、要望署名が集められ、その数は宇治市全体で2万人の賛同をこえた。
代表の高井さんだったと思うが、一市民としてほんとうに純粋に運動をすすめられた。なかなかこの請願は
政治的な力学の中で請願の採択や実現しなかったが、違った形で黄檗学園として実現する。けど、小中一貫はほんとうに教育的意義があるのか。それは疑問であり、検証が必要である。

 

 


もうひとつは奥田文子さんというお母さんが地域されていた「おやおや学校」である。保護者の学び場といったらいいか。毎月テーマを決めて学校や教育のみならず、幅広いテーマでとりくまれていた。
学校の管理的な教育体制や校則などについて、また学校の中で何を学びどんな授業を望んでいるのかなどいつも声をやわらかくあげられていた。

 

 


「日の丸」「君が代」のたたかいも忘れてはならない。80年代後半、京都府にも儀式的行事に「日の丸」「君が代」を という行政の上からの「おしつけ」の動きがあった。職員会議でも勤務時間を越えて議論がくりひろげられた。
あの悲惨な戦争体験を受け継ぐものとしては、その戦時体制のシンボルともいえる日の丸と君が代を学校現場に持ち込み強制することは許せない。分会もひとつになって戦った。地域の人々も校長室に押し寄せた。

 

「私は、あの戦争のシンボルであって日の丸・君が代を学校教育の場にもちこむことは絶対に認めるわけにはいかないのです」と

涙ながらに訴えられていた地域・保護者の方の姿がいまも焼きついています。


いまではこんなこともないかもしれないが。歴史を検証し、そして子ども達にどういう歴史を伝えるのか。
それにつながる地域父母をまきこんでのすばらしい教育的たたかいだった。

そして、私も授業づくりやクラスづくりを大いに父母のみなさんに応援してもらった。東宇治中の最終年だったが、卒業式が終わってクラスの保護者が大勢あつまってくださって学級懇談会をしてくださったことがあった。
1年間のクラスとこどもについて語っていただいたのだ。延々4時間余りお寿司をほおばりながらの懇談会。
話は尽きるこひとはなかった。おやおや同窓会の雰囲気で。
 我が子の受験のときの悩みや不安をふりかえられたお母さん。
「もう、15歳なんだから、こどもを信じて まかしてやらなあかん」とお父さん。
そして私が発信しつづけた学級通信「旅人」200号を超えたが。その旅人も家族のみなさんの中に入りこませてもらった話。

 

 
 

旅人を通して   「あんたをこんなふうにみてくれたはる先生がやはるんやから、がんばりなさい」と子どもの背中をおされたという話。
また、子ども達はこどもで、お母さんがイライラされたときに「これ読んで!」と旅人を母にむかって投げつけたということも。
お母さん。その旅人見て「ああ、こどもはジグザクなんだ。そうなんや。」
と思われて冷静になられたそうです。
お世話いただいた方が、「全然、日常顔をあわせたことのない親がこれだけ集まって話ができたというのは、すごいですね。先生、やっぱり旅人を中心に放射線状につながりって広がっていたんですね」

私は最後までこのようなこどもたちを含めて父母のみなさんの願いに支えられて 教師を続けることができたのです。

親も教師も願いは同じです。子どもの成長と安心して楽しく学校生活を子どもたちが送っていけるように手をつなぎあうことが

大切です。

こんな時代があったんだでなく、こんな地域と父母が一体となってこどもたちを応援する。

そんなコミュニティができたら。私はそれが日本の教育の変革につながると思っています。

ずっと私はそんなロマンを求めてきました。