今年度もほそぼそと小学校で仕事をさせてもらいました。
4年前 コロナ禍のなかで小学校で支援の仕事をさせてもらい以後、非正規でこどもたちと学校に関わらせてもらってきました。
なぜ、中学校だったのに小学校で。もちろん声をかけていただいたことがあるのですが、経験してきた中学校でやるとあれもこれも年寄り風を吹かせてしまう危険もあったからです。その点小学校は「初心者」なので。「わからない」ことが多いと、それなりに謙虚になれます。(笑)
でも。
「学校というところは楽しいところ」そして「教師という仕事はこどもたちを愛しみ無限の可能性を感じることかできるかけがけのない仕事」そのことはどちらにしても同じです。
何するにしても楽しく。わくわくと。それが大事です。 それこそが真骨頂で。「好き」こそものの上手なれ。ですね。
今年は5月から低学年支援にスタートして、途中担任の先生がいろんな事情で何人も休まれて。手も気持ちも足りない
非常事態のなかで10月からは授業をもたせてもらったり代行に行かせてもらったりしました。
いろいろ先生方とこどもたちのことをしゃべり、話し合いもしたかったのですがなかなかそれはままなりませんでした。
今の教育現場の困難はそこにあると感じています。
たとえ非正規であっても、1年のどこかでみんなで「チームミーティング」はなければ教育効果はあがりません。
「何をどうするのか」「授業の進捗をどうするのか」ということより「今日のこどもの様子はどうだったか?」「何か変化や
気になることはないか」などという「こども」のことが゜話題になり、関わる教師がみんなで「共有」することが大切です。
目の前のこどもたちのことを愚痴ったり感動したり腹が立ったり喜んだりうまくいったりいかなかったりそんなことをみんなで共有することが教育の醍醐味です。
困っているこどもたちを応援支援できる実践をする学校は困っておられる先生にもあたたかく声かけ互いに思いを重ね少しでも大変さとしんどさをケアしあうことが大切です。
そのとき何があれもこれもやるのでなく「剥ぐ」こと「楽になる」創意工夫をすることも大切です。
ゆとりのない学校は何かの誰かのゆうとおりの学校になってしまいます。別に校長さんがいい人でも前例踏襲主義に陥ります。
「こうしなければ」「これをやらなければ」という「呪い」のようなものに無意識のうちに縛られてしまうことがあります。
中学校でもそんなことはありました。けれども、だれかが「意味あるの?」「それが子どもたちのためなの?」という
声をあげながら、無意味な負担は 「剥ぐ」「やめる」ことをする必要があります。
そして若い世代の個性とパワーを生かしてつねに「新鮮で」「新たな発想で」実践をすすめることです。
今の学校現場は「若い世代」を一定力量のある ベテランのやり方し同じやり方で 「スタンダード」で実践をすすめる傾向が少なからずあります。「自由に」「やりたい」ように。それぞれの個性を生かして。 だって教師はそれぞれ持ち味が違うのですから。ただ、若い先生が困ったりいろいろ保護者やこどもたちとぶつかったときほど「助け舟」をだしたらいい。
今の学校の困難さは やり甲斐がはく奪さつれて教師という仕事が「忙しい」「苦労が多い」となりがちなのは、自分たちがやりたいような創意工夫あふれる「楽しい」実践ができないというところにもあります。
人生はどこでどう花開くかわからないんだから、「結果」を求めたら教育は 朧げで儚い夢になってしまいます。
「学ぶことが楽しい」「わかるってすごいな」「教室っていいところだな」その将来へむけての礎こそ、大切にできたらそれでいいのです。そういうなかで子どもたちは必ずどこかでいつか自分の「可能性」を発掘していきます。
66歳。体力もなくなり大好きなこどもたちをそして学校のありようを変えるために何ができるのかもうやめたほうがいいのか。
迷います。
ぼくは世代交代こそ社会が前に進む必須条件だと思っています。重いお荷物の高齢者かのさばっていることほど悲劇はありません。そういう組織をいくつも見ています。
私も高齢者に足をつっこんでいます。
学校とは? 教育とは? 教師の仕事とは? この根源的な問いかけにいつも真摯に向き合うこと。
若い世代が生き生きと「楽しくて仕方がない」「教師の仕事は面白い」「困難もあるけど…がんばりたい」
いろんな先生やこどもたちの「パワースポット」になれるならば…と思いますが。
そのためには「教職員集団の一員」として思いを「共有」し「重ねる」ことがなければ そういう機会がほしい。
迷います。