わたしは、元来「管理」されることが大嫌いである。理由もなく、議論もなく、納得もなく「これでやってくれ」と言われることにある種の嫌悪感を体感する。いわば管理アレルギー(笑)である。それは、いくら民主的な団体や組織の方針であってもそうだ。まあ、上から方針を「正しい」ということを盾にやらせる組織はけして民主的とはいえまいが。
納得して。本当に心からそうしたいと思って。

教師になって教師の指導のあり方や校則でおかしいな。と感じることが多々あった。たとえば名札ひとつとってみてもそうである。教師が名前を覚えればいい。たしかに年をいくと生徒の名前を覚えるのに「時間」がかかるのも確かである。同情の余地はある。(笑)けど
「寅次郎くん君のクラスは名札をつけていない生徒が15人いたからな。」よく暇なそんな数を数えるヒマに生徒とおしゃべりしいよ。年配のS先生である。S先生は校長になった。おまけに名札を忘れた生徒には紙名札をつくってホッチキスで胸にパッチンする。なんてこった。(笑)


服装点検や不要物点検なんていうのも嫌だった。服装なんか女子のスカート丈物差しもって足にあててなんて時代もあった。いまならセクハラである。不要物点検も鞄の中身を空けさせるなんて。職権乱用だぁー。

くつ下も白だけ。靴はラインのはいっているのはダメ。髪の毛をくくるのは、黒(茶色)い輪ゴムのみ。あきれるような校則がいっぱいありました。
当時はボンタンなんて学生服のズボンを少し太めのズボンをつっぱりくんははいてくることがありました。
異装をしてくると、教室に入れないんです。別室で指導をする。服装が少しくらいおかしいのと子ども達の学ぶ権利とどちらが大切なんやー。て思いました。

東宇治中学校も、人権教育を重点にしながらも、これらの矛盾をかかえていました。管理主義です。全校1000人をこえる。学年11クラス。どうしても「きまり」「校則」で一致して指導することが「教職員集団」の足並みをそろえるためには大切なんだ。という方針からです。

つっぱりくんたちを中心に子ども達の不満は大きく、彼らはそれらを守らせきろうという指導に対してエスケープや授業妨害、また校内での喫煙など逸脱行動を繰り返しました。もちろん指導の場面で厳しく迫ると対教師反抗で暴力的につかみあいになることも日常よくありました。

私だけでなく、そういう指導の在り方に「疑問」を感じ、やわらかくアバウトな指導で。子ども達に寄り添い、子ども達の心のなかの思いと応答・対話する教師もまた存在していました。