春雨じゃ濡れてまいろう

春を連れてくる雨。これは行友李風 (ゆきともりふう) 作の新国劇月形半平太 (つきがたはんぺいた) 』の京都・三条河原町で、主人公が傘を差し掛ける舞妓にいう有名な一節。小雨の中を傘なしで歩くときに、気どった言葉として使う。いまどき、そんな人はいないか。春雨とは、霧のようなこぬか雨だけに、傘をさしても埒があかないことから、この名台詞が生まれたといわれる。なんと昔の人は、そぼ降る春雨をたのしむといった、流暢な感覚を身につけていたのは確か。この時期、ひと雨ごとに春めいてくるが、三寒四温の頃だけ、半平太のように春雨に打たれる風情はほどほどに。

 

 

 

 

春雨にしてはちと季節がはやい。今年の冬は雨が多かった。そして冷たい雨だ。

啓蟄だが、虫も地上にでるのが憚られよう。

 

そして今日は 宇治の英士  「山本宣治」さんが右翼によって暗殺された日。宇治善法の墓地では雨のなか

墓前祭がおこなわれていることだろう。

私も宇治に勤務していた社会科教師の頃。有給をとってこの墓前祭に行ったことが何度かあった。

1925年 治安維持法がつくられた。25歳以上の男子のみに与えられた普通選挙法とだきあわせである。

 

治安維持法というのは、天皇制の戦争まっしぐらの軍国日本のなかで 戦争や政府のやることに反対する人々を取締り そして

1928年にはその最高刑を死刑にするという悪法中の悪法である。それが100年前の日本にはあったのだ。

 

山本宣治さんは

1889年、京都府京都市の新京極で、花かんざし屋のワンプライスショップ(今でいうアクセサリー店)を営む山本亀松、多年の一人息子として生まれた[4][5]。両親は熱心なクリスチャンだった[4]。宣治の名は宣教師の「宣」に因んだ[5]。宣治は厳粛な耶蘇教主義の下に薫陶された[5]

1901年神戸中学校に入学したが、身体虚弱のため中退した[1]。両親が彼の養育のために建てた宇治川畔の別荘(後に料理旅館「花やしき浮舟園」に発展)で花づくりをして育った[4]

園芸家を志して1906年大隈重信邸へ住み込み、園芸修行を行う[1]1907年からカナダバンクーバーに渡る[1]。5年間、皿洗い、コック、園丁、鮭取り漁夫、列車給仕、伐木人夫、旅館のウェーター等30余種の職業を転々として傍ら小学校、中学校に通う[1]1911年父が病気のため急遽帰国する[1]。この間に『共産党宣言』『種の起源』『進化論』などを学び、人道主義者やキリスト教社会主義者と交流を深めた。

山宣はよく共産党員といわれるが、実は 当時 共産党は非合法で 労農党という政党に所属、没後、共産党に加えられたのである。けれども、当時の軍国主義体制のもとでひたすら産児制限運動などを通して 貧しさにあえぐ 民衆のなかに入り、民衆を励まし、そして当時の監視体制のなかで国会議員となったのは、余程の民衆の支持がなければそう簡単なことではなかった。

ここが、今の共産党との決定的な違いがある。

民衆のなかに入り 民衆と共に生きることができるのか。当時は何の組織も後ろ盾もなかった。あるのは「反共」の嵐の政治体制

のみであった。それでも山宣は 民衆のなかに入った。

だからこそ次のような言葉が残されるのである。

 

帝国議会での治安維持法改悪反対を訴える「 実に今や階級的立場を守るものはただ一人だ、山宣独り孤塁を守る! だが僕は淋しくない、背後には多くの大衆が支持しているから……(「背後には多数の同志が……」とするものもある)」という全国農民組合大会での演説の一節は、あまりにも有名で彼の碑銘でもある。

そこには身体をはって命懸けで民衆と共に生きた無骨な政治家の姿がある。今の時代そんな政治家が少なくなった。

 

 

 

宇治の英雄である。私が社会科教師をしていた頃は 山宣の墓地がある校区のこどもたちは山本宣治のことについて小学校で話を聞き学んでいたが。

かつては中学校社会科の教科書にも山宣の記述があった。

今は宇治学というものがありながら、そういうことには触れない。残念なことである。