こどもたちは不完全で未熟であるゆえにさまざまな形でトラブルや課題となる言動を表出します。
当たり前なのです。発展途上人であるわけですから。
陰湿ないじめが起こるまでには、日常のふとした友達に対するいやがらせやちょっかいからかい。いたずら。そして暴力。授業のなかでの立ち歩き、妨害行為。遊んでいるなかでのトラブル。けんか。弱い立場の友達への差別的な言動。やる気のなさ怠惰な行動等々 日々の学校生活では当初、そのような行動がいくつも頻発することがある。
けれども、そんなときこそチャンス。そういう課題を見過ごさない。これは教師がではない。こどもたちがである。
だから最初の時期には こどもたちには「自分たちの不利益には黙っていない」ということを徹底して教える。
リーダー的なこどもたちへの指導も繰り返しする。教室のなかでもし、このような現象で困っていたいやな思いをしている仲間が教室のなかにいるとしたら「友達を守るということはどういうことなのか」ということもあわせて教える。
次に共通認識として大切なのは、「成長発達段階においてトラブルや問題が起こることはあかんことではない。問題を問題とせず見過ごすことが一番おおきな問題である」ということだ。
こういう「確認のなかで」毎日終わりの会でいろんな課題をリアルに問題を出し合う。毎日毎日起こっているリアルな事実は出しきる。中学1年の場合 1年間ずっとそういう終わりの会が続くことがある。けれども、何かが変わっていく。リアルな事実をだしていけば、子ども達のなかに化学反応がおこる。それは問題をおこすこどもたちに限らない。その事実の周囲にいるこどもたちやリーダー的な子ども達が 「自分たちのクラスはいろんな友達関係でいろんな問題もあるけれども、私たちは不利益に黙っていないということを日常の学校生活の中で大切にし、困っている仲間を守ることができるやさしさが大きくなっています」
やさしさの萌芽がひとりひとりの中にふくらんでいくのである。つまり人格の土壌が培われるのです。
「僕小学校からいやな思いをしてきたけど、こんなにも真剣に僕のことを守ってくれるクラスは初めてです」
きれいごとや叱責で道徳性は育たない。こどもたちひとりひとりの人格ー人間性を問いながら 現実のリアルな問題として
こそ道徳性は血肉となっていくのではないだろうか。
裏金問題や安倍政権時の森友加計問題や桜をみる会などの国会でのやりとりをみ限り、厳しい政治的追求はあるが、このプロセスが甘い。このような政治屋が意図した「道徳の教科化」は改めておじゃんにしなければならないし、そのことによって奪われる
自分たちの現実に起こるさまざまな問題を自分たちで解決するというこの当たり前の原則がないがしろになっている。
いま、小学生や中学生は自分たちの問題をホームルームや学級会で話し合い解決するということがあるのだろうか。
裏金やモラル崩壊をうみだした権力者が意図した教科 道徳に真面目にとりくむならば、いつか学校で大切にしなければ
ならない大切なものが失われていくのではないだろうか。
今の自民党のどうしようもない無反省なありようのように。
そして、解決できないこういう問題に国会の審議時間を費やすなかで国民の暮らしのしわよせは甚大である。
裏金づくりやモラル崩壊による今の自民党の姿こそが道徳教育をすすめていくならば数年後の学校の姿である。