本郷和人「戦国武将の選択」(2021) | 北条得宗家の鎌倉めぐり

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養老孟司教授の著書に書かれている医療や歴史の他に鎌倉散策の様子などを中心に紹介

 

産経NF文庫という訳の分からない出版で、元を辿ったら、実は産経セレクトであった。もともと産経出版と言われるヤツ。今現在は新書として扶桑社・扶桑社新書が存在するのだが、これが、名残の一つである。恐らく結構、前に出版されたモノだと思ってAmazonを調べてみたら、実際に2015年5月29日に発売日が設定されていた。その頃は仕事が忙しく、本を読む暇すらなかった。仕事で、新しいプロジェクトに挑戦する中で自然と身に付いたものである。別に誰に言われたものでもないことが、自然と身に付いたりするモノだ。世間を考える上で歴史は重要かも。

 

 

昔は食事も排泄も同等とやっていたという。人前でバクバク食べることもあれば、ズボンやスカートを脱いで排泄もしていた。確かに、ウチの東京の従妹がスカートを脱いで人前で堂々と着替えたり、入浴後に裸族のようにウロウロしていたりして。血縁関係の中では、恥じらいもないようだ。いや、それとは違うかもしれないが、中国やネパールやラオスあたりには、田舎のトイレに仕切りがないという。そんな感じなのかな?

 

 

本郷和人教授が述べるには、武田信玄が「天台座主」と名乗って、それに対し、織田信長が「第六天魔王」と名乗ったのも、ユーモアとしか思えず、それをもって彼らの宗教観を語るのは滑稽だと。確かに変な感じがしますな。何でもかんでも宗教に結びつけたり、は彼らの性格から。

 

 

他には…桶狭間の戦い、本能寺の変、松平信康の死、千利休の死、などなど「死に方」にも触れている。本当は…史実と違うんでしょうにね。

 

 

(桶狭間の各ポイント・中日新聞)

 

 

徳川家康と嫡子の松平信康のあいだに深刻な対立があった。松平信康の自害を望んだのは、通説でいわれている織田信長ではなく、実の父である徳川家康だというもの。この通説に対し、本郷和人教授は、徳川家康が「松平信康の排除、具体的には切腹」を望んでいた説には賛成できない、と述べている。根拠として、一つ目に酒井忠次のその後、二つ目に徳姫のその後、三つ目に徳川家康と子作り、であると述べる。酒井忠次の妻は薄井姫。松平清康と華陽院の娘だから、酒井忠次は徳川家康のおじさんにあたる。家族皆殺しなんて…あり得るのか?

 

 

実は1579(天正7年)に松平信康の謀反が取り沙汰されたとき、酒井忠次は弁解の使者として織田信長のもとに派遣された。ところが酒井忠次は松平信康を擁護しなかった。それで松平信康の切腹が決定した。徳川家康は深く酒井忠次を恨んだが、織田信長の手前もあり、家臣の統制の問題も考慮して、態度には出せなかった。隠居した後まで待っての酒井家への怒りをあらわにした。松平信康を失った徳川家康の悲しみ、それから徳川家康の執念深さを物語るエピソードであろう…これが本当の史実に近いのかもね。恐らくだけど否定論も持ってみること。

 

 

江戸幕府2代目将軍・徳川秀忠と松平信康には、相当の年齢差がある。徳川家康は1543(天文11)年12月26日。長男・松平信康は1559(永禄2)年、生母は築山殿、徳川家康17歳。長女・亀姫は1560(永禄3)年、生母は築山殿、徳川家康18歳。次女・督姫は1565(永禄8)年、生母は西郡局、徳川家康23歳。次男・秀康は1574(天正2)年、生母はお万の方、徳川家康32歳。三男・秀忠は1579(天正7)年4月、生母は西郷の局、徳川家康37歳。そして徳川秀忠が生まれた1579(天正7)年9月15日に松平信康が自害する。徳川家康の体力は老いてますます盛んで、50代のジジイになって、年若い側室を置いた。水戸黄門の父上、徳川頼房などは61歳の時の子。しかし大切な跡取り息子を追いやるのか?

 

 

千利休の「強欲説」は『多聞院日記』に、豊臣秀吉から切腹を申し付けられたとある。奈良興福寺の塔頭、多聞院において、1478年から1618年にかけて書き継がれた日記。千利休の記事も含めて、そのうちの多くを書いたのが法印権大僧都の英俊(1518~1596年)。英俊は大和の豪族、かつ興福寺大乗院方に属した十市氏の出身。大和国は特殊な地域で、国内の有力武士、国人が守護大名に仕えるのではなく、興福寺の被官になっていた。英俊の十市氏も、そうした武家だが、彼らの中でもっとも優勢だったのが…戦国大名化していく筒井氏であったのだ。

 

 

河合隼雄の分析によると、筒井氏が大和の大名として帰還する夢を見て「これは正夢に違いない!」と喜んでいる。さらに司馬遼太郎は、豊臣秀吉の弟・豊臣秀長の死去に際しては「多くの財産を蓄えたが、あの世には持参できない。あさましいことだ」と書いている。豊臣秀長と興福寺の英俊の利害の対立は不可避だった。その豊臣秀長が手厚く遇していたのが千利休だった。すると、英俊の利休評価は、客観的で公平なものではなく、きわめて主観的・感情的なものだったと考えられる。豊臣秀長をよく言うはずがないのだから千利休も良く思っていないのだ。

 

 

フェミニズム問題について。北条氏は伊豆出身で、天皇からすればどこの馬の骨かも分からん奴らだっただけに、血生臭い政治を施行していた。政治と言っても、だいたい鎌倉幕府や室町幕府は身体問題や身体表現が強い時期であるだけに、その中でも北条政子と日野富子はフェミニズム問題を解消していた。実際、都市では「男女平等」を叫ぶのに、事実として男女平等ではないからこそ、口に出して叫ぶしかないわけだ。こういう問題は、平家物語「祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり」や方丈記「ゆく河の流れは絶えずして しかももとの見ずにあらず」。

 

 

徳川家は源氏か藤原氏か。徳川家は清和源氏の名門、新田家の子孫を称している。ところが若き日の徳川家康は「藤原家康」なんて堂々と署名している。おそらく「源平藤橘」の姓と「新田・織田・徳川」などの家名との関係がよく分かっていなかった。織田信長のように天才ではなくとも、豊臣秀吉のように感が冴えなくても、だから努力した。江戸幕府初代将軍に就いてから、岡崎には帰っていない。故郷というのは「志を果たしていつの日にか帰る」憧憬の地。でも徳川家康にとって、それは駿府であって…岡崎ではなかった。だって東海地方を捨てたんだもん。

 

 

でも、そこから徳川は歴史を学んで、わが家は源氏であって、だから征夷大将軍になるんだ、という論理を展開するまでになる。徳川家康の好学の気風は初代・尾張藩主にして名古屋城を拠点とする九男・徳川義直に、さらに二代目・水戸藩主の徳川光圀に受け継がれる。そもそも新田氏が源氏で足利氏と兄弟・親戚の仲にあることは知っている。ただもう訳が分からない。名字より姓(カバネ)が重要だったんだろうね。

 

 

最後に本郷和人教授のエピソードですな。すでに上梓されていた『戦国武将の明暗』(2015)について。どうして若い人の意見を批判しないんですか?との問いに、本郷和人教授が「なんだか申し訳ない気がする…」と述べている。この時の本郷和人教授は54歳。1960年代生まれの鏡ですな。東大に行くぐらい真面目な人だから、そうなのかもしれないけど、現代人はあまりにワガママで…他者に対して侮辱的。もっと謙虚にならなければいけないのに、自分を発揮するなんてのは、幼稚園児に戻っている証拠。1965年前後生まれにしては、かなり優秀な人材だ。

 

【ニューソース】

潮書房光人新社・産経NF文庫 公式サイト