隈研吾「ひとの住処 -1964~2020-」(2020) | 北条得宗家の鎌倉めぐり

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別に建築が好きなわけではない…むしろビフォーアフターのようなリフォーム番組をやっていたらイライラするのでチャンネルを変えるほどだ。

 

 

建築好きはむしろオバサンたちの方じゃないのかね。ところで隈研吾は1954年生まれにして東京大学大学院建築意匠専攻。ウチの両親と年齢が近いな。本を読んでいて、コレはもしや?と思っていた。そもそも大体の年齢は音楽の趣味や自分が生きた歴史の話題で分かるものだが、それでも相手を個人として見なければならない。本書の最初の歴史は1964年で隈研吾が10歳の時から始まる。横浜市、生まれだという。

 

 

舞台は新横浜駅から徒歩数分の場所。ここに隈研吾の実家があった。新幹線の駅が田んぼのど真ん中に出来る。そしてボコボコ家やらビルやらが建っていく。その変遷ぶりを見ていた。さらに祖父母が残した邸宅が大倉山にあった。隈研吾は父親が45歳の時に生まれ、そして1964年時点では55歳になっていた。隈家の長男なので、当時としては遅い方である。その邸宅の周りは田んぼや畑であった。大倉山の集落の一角に小屋を建てる。ここが隈研吾のスタート地点となる。裏手に家が2件あり、さらにその裏手に山があって、その山を大倉山といった。東急。

 

 

家の周りに小川があったり、田んぼや畑などがあって、ザリガニやガマガエルなどが獲れた。時にアオダイショウやらムカデやらが出てくることもあったが、苦手だったという。そりゃあ、その手の生物が得意な人はあまりいないだろう。私もこの前はムカデを見て「おおっ!」とか思った。気色悪いけど、でもいていいよ。都市にいてはいけないから、恐らくギャーギャー騒いで喚きたてるのだろう…でもいるのだから仕方ない。

 

 

大倉山を出ると田園調布まで8駅あり、綱島、日吉、元住吉、武蔵小杉、新丸子、多摩川、田園調布と行く。私が覚えている頃は、多摩川駅ではなく多摩川園駅だったような…と思って調べたら、まさにその通り。1977年に多摩川園前駅から改称している。もっと正確に言うと、2000年に目蒲線の目黒線と多摩川線の分割により、駅名を1923(大正12)年に名付けた「多摩川駅」に再び戻したのである…もともとだったんだね。

 

 

その中でも田園調布に小学校があった。田園調布小学校は隈研吾の出身校である。田園調布には古い駅舎があって、それがもともとなかったみたいなのだが、復活した。私が覚えている頃には確かあったと思う。ちなみに、私の中学の同級生もここから通っていた奴がいた。隈研吾の言う通り、西口は放射線状になっていて高級住宅街になっている。こちらの方向へ進むと同級生の家があった。さすがに隈研吾ほど各駅に同級生がいたわけではないが、お宅もまあまあいいんじゃないですか的な家が少なくない。現在はこういった田園調布の家が150坪なら50坪ずつ3棟分にして売らなければならない。家が大きければ、敷地だけでも税金は高いわけで隈研吾なんてそら見たことかと言わんばかりであろう。家そのものよりも、敷地の税金の方が高いので、更地にしないから空き家問題が深刻になるわけだ。野村克也邸もこの近くである。

 

 

隈研吾はそちらよりも東口の商店街の方が好きらしい。あそこは下町のような感じがする。雰囲気はとても良い。とにかく隈研吾は建設ラッシュでビルばっかり、というのが好きではないのだ。それでも田園調布さえ都市化する。東京中心がビルばかりなので、名前だけ「田園」を残し、ここら一帯を「田園調布」と命名した。当時、霞が関ビルが最も高く36階建てで170M超が超高層ビルと言われていた。今現在の人はこんなものを「ただの高層ビル」と呼んで、超高層ビルと言えば六本木ヒルズとか虎ノ門ヒルズとか横浜ランドマークタワーとか大阪あべのハルカスを言うのだが、当時は、まだそんなもんだったという。そこに倍の高さの東京タワー(333M)が聳え立つ。どこから見ても東京タワーが一目瞭然に見えたという。それだけ東京都内の建物は低かったのだ。さらに言うと、当時の中心地は銀座であり、新宿はまだ田舎だった。池袋も野原。

 

 

旧・国立競技場

 

東京オリンピックが1964年10月10日に開幕。外国人の踏ん張りに日本人の目が釘付けとなる。当時は「東洋の魔女」と呼ばれたバレーボール日本代表の活躍があった。何としてもアメリカ合衆国やソヴィエト連邦に勝つんだという意欲であった。今なんてアメリカ合衆国や中華人民共和国に勝てるわけがない…と思われるが、当時も、実際にはそう思われていて、あくまで金メダル候補と言えば、アメリカかソ連か、だった。

 

 

日本初の屋根吊り構造といえば代々木競技場の中にある代々木体育館だった。アメリカの建物をけっこう真似して作っている。そもそも、明治期から昭和初期までにかけての日本の建物といえばヨーロッパ建築が一般的で、のちに東京大学工学部建築学科にて最初に教鞭を取る辰野金吾がデザインした東京駅をはじめ、欧州のパクリ建築が当たり前だった。その中にあってオリンピックはアメリカを目指したのであった。

 

 

1968年~1969年頃には左派系運動を展開した東大全共闘の暴動が過激化する。1970年には右翼の三島由紀夫が自衛隊・市谷駐屯地に乗り込み、割腹自殺を図る。三島由紀夫はおもに『葉隠』を好んで武士精神を育んだ。彼なりの美意識を徹底的に追求した。それもあるけど、私がウチの母親と三島由紀夫の話になるとき、私に似て捻くれたウチの母親が「頭が良すぎるあまりにおかしな方向へ行った」とか、いつも口にする。これ実は、まさにそうなのである。脳だけで何でも出来ると思ったら大間違い。相手が若いとか、中高年とか年寄りとか、だけで思想が違うのであればそんな苦労はない。そういう人こそ…他人の話を聞かないとか、他人の意見を妨害するとか、お得意の実力を発揮する。

 

 

ついでに1970年は大阪万博の年でもある。このエスカレーターの並び順が大阪のエスカレーターの乗る順番となる。東京は大阪のような庶民派と一緒にされたくないので、順番が逆になる。東京では左によって右を急ぎの人のために空け、大阪では右によって左を急ぎの人のために空ける。本当はエスカレーター・メーカーにとってはいけないとされているんだけど、イギリス人はそうしていたのだから、仕方ない。どれだけ中高年とか年寄りがブーブー言おうとも、当時からそうしていたのであって、相手が若者となると楯突くのは、仕事のストレス発散に過ぎないと、現在の脳科学でも証明されている。相手が年下だと舐めてくるのは、それは自然に対して良い思いをしていない証拠。だから自然が排除される。子供の権利はなくなり、女性は仕事中にもお腹が大きくなるときがあるのでフェミニズム問題なのである。機能として見ればそうなる。だから、セクハラいけませんよ、パワハラいけませんよ、ついでにマタハラもいけませんよ、とうるさくならざるを得ない。隈研吾も、同じだ。

 

 

1973年のオイルショックで隈研吾は東大入学。日本では建築学科という単位で工学部の属する。欧米で建築はアートに近く、医学部とかのように建築学部と単体で独立しているのが一般的である。とはいえ東大でも最初は教養学部で工学部を目指せるコースに入り、成績で振り分けられるのが一般的である。そこで勉強せざるを得なかった。そうなるでしょうね。別に勉強が好きだから東大や京大に入ったとは限らないし、目指すならどんどん上を目指した方が良いに決まっている。ついでに言うと、早稲田や慶応や同志社よりも東大や京大の方が、学費が安いですからね。これ以上の親孝行はないです。同じレベルでお茶の水女子大学であれば女子なら親孝行かもしれません。あたしも女装する。

 

 

まあそれで工学部に入るじゃないですか。隈研吾は大学院まで通ったんですね。それで原広司という有名な教授に出会うんです。そこで教授がまず初めにやったのは、業者が逃げ出すような土木工事を受け入れることでした。朝から晩まで工事作業を請け負い、その辺で寝てしまう、を繰り返したそうです。これを隈研吾は「今ならブラックなんとかやアカデミック・ハラスメントで週刊誌に書きたてられるだろうな!」なんて言っていますけど、確かに行き過ぎにせよ、今現在の人は、こういう体を使った仕事を1ヶ月間はやったほうがいい。とにかく体を動かすこと。

 

 

隈研吾はそんなこんなで、1970年代の「高度経済成長バンザイ!」に疑問を感じていたそうです。そう、頭がいい、というのは、実は素直ではないのです。ちなみに大学院では、サハラ砂漠にも出かけたそうです。憧れの原広司教授と行動を共にするだけでも嬉しかったという。そう、人間性はこうでなければいけないんのです。最終的に人間性がすべてだと肌で感じるのは、隈研吾はサハラ砂漠横断の旅に出たからです。

 

 

スペインのマドリードから出発し、フランスのマルセイユまで車2台で運転して移動(あらかじめ車を送っておく)。アフリカ大陸に到着すると、サハラ砂漠横断の旅を満喫するのです。それで何が分かるかって、それは行ってみなければ分からないでしょう。そこではイスラム建築やらヨーロッパ建築やらがごちゃ混ぜなんですね。たとえフランス語圏の国であっても、フランス語を聞いて話して書ける人なんかほとんどいないあたりはアフリカだな~と瞬時に確信したそうです。でも建築物を見せてもらいたいから、トラブル直前になるまではズカズカ入っていったので、撃たれて死ななかっただけが関の山だと言います。私は、そういうところ、行く気にもなりませんな。フランス語は、フランス国が脳の中だしね。

 

 

そういった経験が現在の隈研吾の建築デザインに反映されています。まさに「和の建築」です。これからの東京は「低い建物」です。私もボコボコ建っている高いビルを見るたびにいちいち疲れます。本当は自然のことを考えると疲れるのに、なぜ高層ビルを見ると疲れるのでしょうね。それは脳の中でしか整理していないからではないでしょうか。別に出来るとか出来ないとか、頭が良いとか悪いとか、そんなことはどうでもいいことです。私のどうでもいいとは、そういうことです。右とか左とかではなく、すべては真ん中に行かなければ、みんなバランスなのです。

 

 

その思想は人格にも表れてきます。ザハ・ハディドとかいうイラク・バグダッド出身でイギリスを拠点に活動しているオバサン建築家。この人は未来都市型構想を展開することで有名です。先述の新国立競技場でも、隈研吾は絶対に勝てないな、と思っていました。ところが、隈研吾が予想した通り案の定というか、ザハ・ハディドの案は、通りませんでした。それが以下の通り、未来都市構造の間抜けな新国立競技場でした。

 

 

これではせっかく明治神宮の森を抜けても、高さが70メートルから80メートルに及ぶ競技場を見上げるなら、首が疲れて仕方ないでしょう。そもそも、森という意味合いのある競技場ではありません。もしこれが品川区あたり、例えば江東区のお台場にあれば、フジテレビ本社と一体化して未来都市のような建築になるでしょう。でもそんなことはいっさい考えていなかった。そもそもフジテレビ本社だって機能性を考えてはいません。実は2つのオフィスビルを神殿のように左右比対称にして上部左寄りにある宇宙型の円盤で繋げる構造です。フジテレビに入社した人は機能性として、極めてご愁傷様という感じなのですが、これは機能性よりも、見た目の奇抜さしか、考えていなかったのです。哀れだろう。

 

 

そもそも中国・北京にあって日本のNHKにあたる中国中央電視台(CCTV)の本社ビルも近い構造となっていて、地元の人たちから「パンツ」と呼ばれ揶揄われているのです。これも隈研吾であれば北京郊外の「万里の長城」近くにある「竹の家」なら、中国らしくて良い。中国と言えばパンダ。パンダが食べるのは笹と竹。もともと竹は中国にしか生えていなかったものだから、やはりその方向で行かざるを得ないのです。もっと言うと、中国だからこそ、竹なのです。日本で言えば杉木のように、その土地柄に合った木材や素材を選ぶのがベストなのです。自然観。

 

 

意外に思えるかもしれませんが、習近平は北京に関して京都のような街づくりを目指している(逆か?)みたいですね。紫禁城が真ん中にあって、天壇公園やら何やら、まるで京都のような古都です。これが上海であれば未来都市のような構造が似合うでしょう。ただ北京には向かない。そういう意味では、やっぱり隈研吾の選択は間違っていなかったのです。周りの景観に合わせないと、上手くいかないものです。日本でも、実は本音と建前があって、周りの空気を読め!と言われ…空気が読めないと「KY(空気読めない)!」と言われて…イヤな気持ちになる。

 

 

やはり自然に直結するのがベストでしょうね。自然を見て、感じて、実際に体を動かして、それで嫌な気持ちになる人は、いないでしょう。それと同じですよ。虫の音を聞いただけでもいいんです。目的があると、目的が達成できなければ「意味がなかった!」とか「収穫なんてなかった!」とブツブツ文句を言う羽目になるので、あまり大きな目標を立てなくていいんです。人生設計と言われるけど、それは設計通りに行きません。ちなみに、私は何かにつけてお金をかけないタイプですが、隈研吾も、そうだと言いますね。学費にはかけるけど、ご馳走を食べに行ったり、ブランド物を着飾ったり、ということは、ほとんどしない家だったそうです。教育費以外は、ほとんどお金をかけません。そういうところも庶民的な建築デザインに反映されているわけです。やっぱり、そういうところ…人間性にも表れていて、お金持ちっぽい感覚がないですもんね。

 

 

だって考えてみてください。大きい家を買ったとします。それで、どうやって税金を払っていくのか。どうせなら普通の家で、大地震で倒壊した時に、再び新しく建て替えた方がいい。そう思いませんか? ぶっちゃけ隈研吾からも学ぶことが出来ました。やっぱり、養老孟司も池田清彦も隈研吾も、発想は私に近い(私はあそこまでアタマ良くありませんが)。出来るなら日本全体をデザインして欲しいぐらいで…貴重な体験だ。

 

【ニューソース】

新潮社・新潮新書 公式サイト

隈研吾・建築都市設計事務所 公式サイト

Kengo Kuma and Assosiations 公式サイト