私は茨木のりこさんの詩が好きです。
大正生まれで、昭和を生き抜いた
女性詩人の言葉はたくましく、
強く生きていきたい、と
願ってやまなかった私の
中学生くらいからの教科書でした。
詩「子どもたち」では、
こどもの見るもの感じるものの
大切さに共感。
詩「自分の感受性くらい」
感受性は自分で守るものだと
胸に刻みつけました。
詩「もっと強く」は、
願いを強くもっていいと励まされました。
そして「寄りかからず」では、
自立する大切さを。
でも、最近、
ちょっと変わってきました。
いや、変わらなきゃ、の、
まだまだ途中です。
なぜ、寄りかからないと
決めたんだろう?
私の思いは深く、
そして、
重くて、
人に寄りかかると
相手を倒してしまうと、
だからこそ、
自立して…が、
いつしか、
自分一人で…に変わり、
ぐらぐらと揺れながらも、
一人で立ち尽くしていました。
高校時代は、
鴻上尚史さんの脚本
「天使は瞳を閉じて」を
演じた時のセリフ、
「私は立ち続けている」と、
何度もつぶやきながら。
背骨を立てて、
足を踏ん張り、
寄りかからず、
立ち尽くして。
でも、
コロナ禍の中で
子どもがいきいきできる場を作る
活動をやり続けるには、
すごい精神力が必要で、
また、そのために思考はさらに深まり、
やりたいことは増え、
自分の生きている時間に持つ
責任にも思いは深まり、
さらに、
一人で立つには、
強靭な肉体と精神が必要になりました。
というわけで、鍛えてみれども、
自分に甘い私は、
ストイックになりきれず、
途方に暮れていましたが…
ふと、きづきました。
なぜ、寄りかかっちやいけないの?
依存してしまうから?
でも、
椅子は
「座って」と、
そこに佇んでいる。
子どもたちは、
前に進みたいと笑いかけている。
一部の保護者の方々や、
関わってくれる方々が、
面白いことしたいと、
熱意を燃やしてくれている。
そして、
理解を示し、
協力してくれる人がいる。
時代が変わってきたのでしょう。
多くの女性が
自立して、
強くなり、
シャカリキに生きています。
でも、
本当は強くないから、
自立してみせて、
強くなったと見せて、
微笑みを絶やさないようにしてるけど。
実は、
座り込みたくて、
疲れているんだから、
休憩したり、
弱音吐いたり、
したほうがいいんじゃないかな。
寄りかからず、
から、
寄りかかり過ぎなければ、
時には、
寄りかかりながら、
周りの大切な人を信じて、
前に進むのも大切だと、
やっと気づいた今日この頃。
椅子があるんだから、
時には座ろう。