突然ですが、私の名前は父の初恋の女の子の名前です
そのせいか、はたまた、それだけありふれているせいか、私の好きになる男の子は、
昔から「前の彼女と同じ名前」、「初恋の子と同じ名前」ということも多く、
もっと、変わった名前だったらなあ~と、思ったこともありました
でもどちらかというと、楽天主義な私は、「名前が一緒ならインパクトも大きいし、いいか」と思えていましたが
その私の名前が、素晴らしい名前だと実感した出来事がありました
それはかれこれ6年前です。
私が毎年、指導に行く小学校に、私と同じ名前の女の子が入学してきました。
その子は、担任の先生と一緒に私の所へ来ると、恥ずかしそうに、でもすごく自慢げに
「私、先生と同じ名前なの」と、教えてくれました
周りの一年生の中には、「いいなあ~」なんて羨ましがってくれる子もいて、
私もその子と同じであったことが嬉しくなりました
最近、≪匿名≫を希望する人が増えているようです。
「伊達直人運動」(タイガーマスクの主人公の名前を借りた、匿名の善意を施す人たちの急増)しかり、
若者のマスク現状(顔を出したくないために、風や花粉症でもないのに、マスクをし続ける若者たち)しかり、
大学のクリッカー授業 (生徒がボタンを持っていて、答えを手元ボタンで出す。誰の回答かは当事者にしか分からない。テレビの客席がよく使っているような、統計を取るのに便利なボタン)しかり・・・
顔がわからない、名前がわからない、誰かわからない中に、いいことも悪いこともまぎれていく社会です。
私はそれは寂しいことだと思います。
自分の生き方に責任を持つ、自分の行動に責任を持つ。
これは社会で生きていく上で、大切な考え方だと思います。
自分の名前が公表されたとき、周りに与える印象が、その人の今の社会的評価でもあります。
それを真摯に受け止め、成長してこそ、社会の一員だと言えるのではないでしょうか。
もちろん、ネットのように不特定多数の場や、選挙の時などの特別な環境でまで公表する必要はありません。
せめて身の回りの人たちや、安全と思える環境では、自分の名前に自信を持って公表してほしいと思うのです。
きっと今の若者たちは、そういう意味で、社会的に安心を得られる場が少ないのかもしれませんね。
名前を隠し合う「匿名」から、互いの名前が特別に大事なものとなる「特名」になる
安心できる場が、社会に増えるといいなあと思いました
そのためにも、まず、誰か自分の特別な人の名前を呼ぶときには、大事に呼びたいものですね