7月7日から個展なので、少しずつ過去の作品の画像を載せつつ、何をしてるのか、書いてみようと思っています。
身近な生き物全般が好きです。特に虫と草木。小さい頃に昆虫採集に熱中していらい、いつも「獲物をとらえる目や耳やけはい」の習慣が身に付いてます。
昆虫採集は小学校でほぼ終了。そのあとは美術方面をめざし、美大に行ったのもあり、ずっと草花をスケッチすることが多かったです。10年くらい前までは日常的にやっていましたが、このところはデザインが必要な時だけです(これはあまり良くないと思っていますが)。
日常のスケッチをしなくなって代わりに、2017年くらいに、携帯がiPhone7になって、写真で、虫や草を「拾っておく」という感覚になりました。これは、スケッチよりも昆虫採集に近くて「幼時返り」みたいな感じがあります。
このカタツムリを撮ったとき
この螺旋を使いたくなったのです。螺旋だけを大きくしてみていると、すごくシンプルで整然としていて、美しくて、見やめられなくなります。
それで、これをそのまま作品にすることを考えましたが、そのままでは、うまく使えないです。
これ以前にも、押葉など薄いものを、アクリルとアルミパンチ板に挟む、という作品は作っていたので、その延長で使うということで、
ごく自然に透明フィルムへのプリントということになりました。
透明フィルムにプリントすると、下に白い紙か何かを置かないと、画像がかなり見えづらい状態になります。それでいろいろのものの上に置いて、遊んでいるうちに、
下のような美しい状態を発見しました。
ザッと塗った墨を塗った半紙の上に置いています。
塗り残したかすれの白の効果は、ごく当たり前にありますが、くしゃくしゃにしたときにできる、フィルムと半紙との間隔の変化が、とても立体的な陰影を作ります。
そして、脱脂綿の白は、それまでも何度もつかってきた「実物の白」で、これは、すごく「光」になってくれます。綿自体に反射光の白と影があるので、白がとても際立ちます。絵の具の白では決して出せない、実物の白、です。
一見するとイラレなどでレイヤーで作る操作に似てるかもしれないのですが、この状態を作るのは、相当に手をかけねばならないのと、そうしたあげく結局一枚の紙にプリントしたのでは、全然意味がなくなってしまうので、やる気起きないです。
こうして現れた、イメージをじっくり味わっていきます。
カタツムリは貝のくせに海から陸へ上がったもので、そこは人間などの哺乳類と同じに、内側に「海」を持つものです、と、思いました。体内にある海は、外側にある海と、呼応してるとは思いますが、一方で、決して届かない「遠さ」も感じるのです。
日が落ちて、間も無く闇になる少し前の、暗い浜辺の雰囲気を、私は感じます。
遠くにある、戻れない来し方に「懐かしさ」を感じてしまいます。
このように、私のやり方は、決めたイメージを再現するのではなく、直感で、偶然を求めて進みます。
最初にカタツムリを撮ったときも、作っている最中も、イメージを拾うということでは、変わらないような気がします。
今、zoom音読で北園克衛のことを読んでいて、シュルレアリスムのことがでてきてますが、そこにとても親近感を感じます。
見るけることや拾うことがそのまま作ることになっています。
私の方法が常にこれなのかもしれません。
注文で、本の修理を頼まれたりしても、注文主からのイメージ、元の本の内容や形のイメージ、そして何か別の自分が集めてしまう「美」みたいのに、繋がりを「拾い見つける」そんな感じです。
できあがりは、蛇革の背と組み合わせて、こんなふうになりました。
窓辺に置いて撮るとこんな感じです。もちろん、私の写真が素人なので、色もなにもかもコントロールできてないのですが、実際にもこのくらいは見え方が変わります。
わかりにくいですが、背の内側に手帳を装着できるようになっています。
直感で偶然を求める、と前述しましたが、偶然というのとはかなり違うと、と最近は思うようになりました。
2017年のこの作品から、最近の作品の流れが始まりました。イメージを拾いつづけているとある形ができます。それについてしゃべったり書いたりすることが必要で、そうすると次のイメージが誰かから来たり、自分から出たりします。