このコロナの一年で、変わったことに、LINEグループ通話やzoomもですが、「声を出す」ことの非常な増加があります。

これには3種類のことがあります。「音読」「多言語や好きな歌を真似して言ったり歌ったりする」「普通におしゃべりする」。

たとえば、ヒッポファミリークラブの仲間と、チョムスキーの『統辞構造論』を読んでいます。週1回30分、LINEグループ通話で、誰かが1ページくらい音読したら、交代して、というスタイルで。うわさには聞いていましたが、わからなすぎて、毎回思わず顔がほころぶ。。。。

でも、日本語の翻訳であるから、とりあえず、字は読めるので、ぐんぐん読んでいきます。途中、なにか思いつきがあったら、言ってもいいし、30分の半分くらいは、思ったことをしゃべりあう時間です。

 

他の人が読んでてミュートにしているときも、私は一緒に声に出して読みます。きのう書いた、とりあえず「触っとく」「撫でとく」っていうのと同じです。

わからないという状態に居るということに、少し慣れて平気度が上がったというのか、わからなくても味わってはいる、というのか。

おとといちょっと書いた『パラレルワールド』という本も、数式とかを使わないで、一般読者にもわかるように、現在(といっても2006年)の、物理学的世界理解を紹介してる、と思うのですが、ポーのところをピンと来たにしても、私には、かなり、わからない攻撃、です。

これ、相当頭よくないとわからないんじゃない?とつい思ってやめたくなります。

妻としゃべっていて、私は小学生の時の天体の運行がほんと苦手で、全然わかんなかった、ということを言いました。SF好きだった彼女は、私をばかにしつつ、でも「私も最初わかんなかったけど、ある時点で急につかめたときが来た」と言ってて、あー、最初からわかったわけじゃなかったんだ、まあ、なんでもそうだよねー、と思いました。


わからなくても、興味はあるので、時々、思い出して、人としゃべったり、また読んだりします。急にわかる瞬間はとても嬉しいけれど、じんわり味わって感じてるのもいいです。理路も知りたいが、実感こそをしたい、自分です。

チョムスキーの言語観のイメージは前に書いていて、これがあってるのか、まちがってるのかどうなのか。まあ、素人の特権として、平気で間違えよう、と思っています。)

(「ポーのところでピン」と書いたエドガー・アラン・ポーの「ユリイカ」。自分仕切りのzoom音読で試しにちょっと読んでみました。これも、かなり、わからない(笑)です。タイトルがユリイカ(=わかった!)なのに。。)

(写真は、近所の公園で見つけた、なぞの物体。柱頭の上に蓋?灯篭?これも、そのうちわかる、かな?)