前のブログ(12月7日)

「わかる」が「完全に同じ」を仮説として生きる

を、Facebookにシェアして、友人の算数パフォーマーの上野真弓さんとの間に起きた、対話をそのまま以下に載せます。

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上野真弓:
最初、タイトルだけ見て、近似という数学がよく使う逃げの考えかよぉ〜って思って読んだけど、よう分かりませんでした。
読後、私の電子的な捉えと似ているのかなと高校時代の化学の時間を思い出しました。

「はっ?つーことは、原子って、同じものの陽子と電子の数でそのものが決まるって事?

はっ、はっ、数ってなんなんだぁ。」

ってそれまでの人生の1番の衝撃だったことを思い出しました。一人興奮していましたが、周りはみんな寝ていました。5次限目だったからね。

山崎:
上野 真弓 さん、多分、その「私の電子的な捉え」かな、と思います。電子は、あの電子とこの電子が区別できない、って読んだもので。原子はきっと区別できるんでしょうね、あの子とこの子が。

実物を細かくしていくと、実物として捉えられない、なんだか概念のようなものになってしまう。で、その組み合わせで、物質の個性が出る、っていうのも面白いなーと。

これは数式も含む「ことば」という概念を使って考えていくから、そうなってしまうのかな?

とか。

ことばという概念がどんな意味をもってるかは、一人一人違い、他人のそれは決して実感はできない。
にもかかわらず、深く通じた感じがあったりするのは、なんでなんだろう。(あと、虫の知らせとか、明らかにありますよね。)

何かがつながってる。
進化的に考えると、きっと一つ?の命から分化したっていうこと?

っていうイメージはあるけど、そういわれれば、まあそうなんだろうけどね。と、あんまり感動がない。

自分が「わかる」、つまり、ことばを発生してるところを、実感することを深めていけば、そこにある何か、それは「生きてる」っていうことにつながってるところで。
まあ、ことばの起こってるところが「こころ」で、その中なのかその元なのかは「いのち」。
それらは、当たり前のこととして、一個体の中にあると思われている。

でも、にもかかわらず、捉えられない。きっと違う次元にあるんじゃないか。

きっと次元を上げて?考えると、他人の中と私の中にあるものが、全く同じもの、と考えたりすることもできるんじゃないか。あの電子とこの電子が区別できない、ように。

そう思うと、自分の「こころ」や「いのち」を深く実感していけば、他の人としっかりつながっていることを実感できるはず。というイメージができたです。

では、どうすると自分の「こころ」とか「いのち」を実感できるのか?

いろんな方法があるんでしょうけど、私は、思ったことをことばにして出す、そして、それに誰かが何かを言うという、そこで自分はどう感じるかを感じる、という繰り返しをする、ということではないか、と思ってます。

素手でできる、調査みたいな。日常にあることばを使って。もちろん、使えるなら数式でも。

結論はきっと出ないけど、目標はあって、いつもずっと、列車の旅を続けてる、みたいな安心感。

この辺は「近似」いや、限りなく近づくけど、決してつかない、極限?なんか忘れましたが、そういうイメージ?

上野真弓:
山崎 曜 さん
素手でできる調査ってすごいなぁ。それを追求していくと、同じ命として、身分や年齢や美醜や貧富や善悪の区別なく人間が語れるのかもね。
そういえば思い出したけど、障碍者施設に勤めだしたころ、9歳で寝たきりの男の子の命と私の知っている尊敬すべき数学者の○○先生の命ってどう違うんだろう?ってずっと考えていた。もしかしたら、同じ命なんじゃないかなってぼんやり思ったの。