注意このブログはとても重い内容に

なっていますのでご注意ください🙇



注意20数年前からの私の個人的な思いです。




①②の続きです。
















①のくやしいといって亡くなった

患者さんの最期の表情が忘れられず、

まだ告知が主流でなかった頃から



人は

どんな形であれ最終的に

自分の死を受け入れて

亡くなっていくべきだ



との思いを強く持っていました。



同時に、病気によって起こる様々な

症状、特に痛みや呼吸苦などの苦しみは、

生きたいという意欲まで

奪ってしまうものだと感じていました。







がんの痛みや呼吸苦をとるために

段階的に非麻薬系の痛み止めや

酸素療法を使用しますが、

進行する痛みや苦しさには

通常の痛み止めが効かなくなってくると、

弱い麻薬系のお薬から始め、

最終的にはモルヒネを使います。




疾患の種類にもよりますが、

痛みは様々な薬の適切な使用によって

ある程度コントロール出来ると言われて

いますが、

決してゼロになることはない痛みです。



そして私が携わっていた中で

何よりつらいと感じたのは、

呼吸苦だけはとることができないと

いうことです。

どんなに酸素を大量に入れても

疾患によって受け入れるスペース(肺)が

狭められていると酸素の行き場もなく

苦しさがとれないのです。



そして、息ができないというのは

苦しさだけでなく

死に直結する恐怖です。



モルヒネは終末期であっても

初期の段階の呼吸苦には

少し効くといわれていますが

余命近づいてきた頃の苦しみには

あまり効果がありません。



吸っても吸っても空気がはいってこない

という患者さんの苦痛と恐怖は壮絶なもので

見ている家族にもどうしてあげることも

できず、体をさすったり手を握ったりする中でお互いに悲しみと苦しみと恐怖があり

とても重く苦しい時間となります。



【しなせてくれ】

【ころしてくれ】

【らくになりたい】

という言葉を発される人もいます。



そんな悲しい言葉があるでしょうか。



酸素を最大限使用しても

取れることのない苦しみ。

モルヒネを最大限まで使用しても

取れることのない痛み。



ご家族からも、見ていられない、

なにか手はないですかと訴えがある。

そこで終末期鎮静が検討されます。

もちろんメリットデメリットを

伝え最終的に本人やご家族が決定します。







医療、看護でいう

終末期鎮静(セデーション)とは、

鎮静薬を用いて

患者さんが苦痛を感じない程度に

意識レベルを低下させること。



死なせるために使うのではなく

残された命をできるだけ苦痛なく過ごす

ことで、ご自分と、ご家族との時間を

大切にしてもらうことが目的です。



薬の量が上手くはまると

激しい痛みで苦しんでいた患者さんに

笑顔が戻ります。

病巣が治ったわけではないのに

息苦しさもなくなったようです。



食欲が出て

ご家族の差し入れのご飯が食べられる。

思い出話に花が咲く。

退院したらあれしたい、これしたい。



悲しい希望であったかもしれないけど、

そんなときご本人さんもご家族も

とても幸せそうに見えました。



でも進行とともに

また痛みや苦しみが出てくる。

少しずつ薬を増やし、

楽に過ごせるように整えます。



そのうちに覚醒している時間より

うとうととしている時間が増えてきます。

うとうとしているけれど

声をかければ目を開け少しの会話はできる。



そんな中で少しずつ少しずつ

ご家族は患者さんの命の終わりを

認識していき、準備と覚悟をしていく。



私たちもこれから患者さんが

どのような経過をたどられるのかを

ゆっくりとお話しながら

その死を受け入れていく現状を

幾度となく体験してきました。



死を目の前にしているのに

なごやかで穏やかで、不思議な一体感を

感じることもありました。



それは苦しみの渦中にある患者さんを

目の前にしては決して出てこない

ご家族の表情でした。



眠っている間に息が止まることが

ないように吸引をしたり

褥瘡ができないように体位変換をしたり

体の清潔を保ったり、その方に意識が

あったら苦痛であろうということは

除去していきます。



そうしていくうちに

ますます眠る時間は増え、

反応も少しずつ鈍くなり

ゆるやかに。

ねむるように。

最期の時を迎えます。




ああこれは一種の安楽死なんじゃないかと

漠然とずっと思っていました。

(昔からこれが間接的な安楽死ではないかとの議論はあったようですが、セデーションの目的はあくまでも苦痛の除去であり死ではありません。)









人の死は思うよういくことばかりでは

ありません。

到底受け入れがたい出来事によって

命を終えることもあります。

思いがけない別れもあります。


 

だからある意味、ご自宅や病院で

死を迎えられるということは

幸せなことなのかもしれないと

思うこともありました。



本人だけでなく家族もまるごと

それまでの様々な思いを乗り越え

ゆっくりとその死を受け入れ、

元気であれば些細であろうことに

幸せや喜びや見出す。



最期の瞬間は、いつだって悲しい。

やりきれない思いです。

それでもその悲しみの中にも

それまでの様々な思いを昇華できるような

ものも確かにあったように思うのです。



けれど私が病棟にいた当時はまだ

本当に最期のケアは

家族の意志に委ねている部分が

多かったように思います。




そして年月が流れ

自分が患者になることで

私は一種の安楽死を

模擬体験したのです。




長くなって申し訳ありません。

④に続きます。