ほっこり小説 -4ページ目

ほっこり小説

あなたの心に勝手に寄り添います^^

せっかく動画投稿出来るようになったので、さっそくアップしてみます( ̄▽ ̄)b

ただし、音量の上げ方がわからない…






第7章へ




 いくら病気に対しての予備知識が増えたところで、自分が勝二を元に戻すことはできないということに気付いたのは、山本家に通いはじめて1ヶ月が経った時のことだった。
 1ヶ月が経った今でもハルミは未だに勝二の姿を見ることは叶わなかったし、ましてやドア越しの会話すら、まともにすることができなかった。
 山本家にとって自分の存在こそが何かを変える力があると高をくくっていた。かつて勝二がハルミの救いとなったように、今度は自分が勝二を助けるつもりでここに来た。その結果、自分の不甲斐なさだけが露呈した。出来ることなら自分も部屋に閉じこもってしまいたいとさえ思った。
 勝二が自分の部屋を出ることの妨げになっているのは、かつての交通事故が起因となった症状とみて間違いない。そのことをすぐに母親である正子へ話そうと思っていたのに、まだもう少し、あと少ししたら話そうと思っているうちにそのタイミングを逸してしまった。
そして精神が不安定になっている我が子を病院に連れて行くことによって正しい診断結果が出たとしても、その反面、精神に障害があるという事実を世間の目に晒さなければならないリスクを避けてきた母親を、結果的に責めることにはならないかと案じた。もっと早く病院に連れて行きさえすればこんな酷い状態にまでならずに済んだのにと、遠まわしにでも受け取られてしまってはせっかく築いてきた正子との関係が壊れてしまうような気がした。
 そしてもうひとつの理由こそが、ハルミが正子に病院に行くことを薦められずにいた最大の理由だった。きっかけはある日の山本家の夕食時間に、ドア越しに勝二が発した一言だった。
『・・・頭が痛い。薬が飲みたい』
 正子に聞くと時々、勝二から独り言のようにつぶやくことがあり、夕食と一緒に市販の頭痛薬を盆に乗せておくと、朝にはほんの少しの食事とともに薬が盆の上からなくなっているのだという。
 ハルミは部屋に閉じこもった人は、毒を入れられたと妄想して、食事はおろか、ましてや薬など、飲まないものだと勝手に思い込んでいた。
 そうか。自分の判断であれば薬は飲んでくれるのか。そのことを知ったハルミは、勝二を救う最終判断として、あることを思いついたのだった。
 そしてその思いつきは自分だけの秘密として棺桶の中にまで持っていく覚悟だった。その方法を実行に移す日は思いの外、早いタイミングで訪れた。

 精神科の待合室は、大きな奇声を発する患者さんや、ブツブツと独り言を言っている患者さんの集まりのようなイメージを持っていたハルミからすると、他の科と変わらずゆったりとした時間が流れているようで、待っている間、居心地の悪さを感じることもなく過ごすことができた。
 周りを見回すとハルミ以外は皆、患者の付き添いとして同伴者がいるようだった。ただし、誰が患者で誰が同伴者なのか判別することはできない。男女の比率もほぼ半々くらいで、どちらかというと学生や就職して間もない男女が多いのかもしれない。彼らがどんな症状で精神科に来ているかよりも、彼らにとって自分はどう映っているのかの方がハルミには気になる所だった。
その他に気になることがひとつ。なぜこの総合病院はロイヤルホテルのような佇まいをしているのだろうか?診察代とは別途で特別料金を請求されるのではないかと思ってしまうような豪華さが壁ひとつ、床ひとつ見ても訪れる患者にとって嫌味にならないギリギリのラインの高級感が漂っていた。
 ポカンと口を開けたまま周りをキョロキョロ見ている患者(同伴者?)は、もしかしたらハルミと同じ初診なのかもしれない。
「受付け番号27番でお待ちの方ぁ、どうぞお入り下さぁい」
 けだるそうな雰囲気を醸し出した受付の女性がハルミの持っている番号と同じ数字を呼び出した。
 診察室に入ると、後から付いてきた看護師が後ろ手でドアを閉めながら左手でこめかみの辺りを押さえブツブツ言っている。小さな声だったので何と言ったのかまでは分からないが二日酔いにでもなっているのだろうか。
「こんにちは。初診の方ですね。今日はどうされましたか?」
 目の前のキャスター付きの椅子に座るよう勧めながら武内と名乗った少しだけ猫背な男性医師は、ずり落ちそうな眼鏡をそのままに、柔和な顔でハルミの様子を窺った。
 事前に問診票のようなアンケートのような用紙を渡され、書き込んだはずだが、武内医師がその用紙に目を通さずに患者に向き合っているとも思えない。つまりはこれが精神科医のスタンスなのだろう。
 ハルミはゆっくりと口を開いた。
 武内医師は質問を交えながら話を聞いてくれた。その中で主に質問されたことはこうだった。
一番困っていることは何か?それはいつ頃からあるのか?悪くなってきているのか、それとも前に比べたら落ち着いてきているのか?それとも変わらないのか?仕事をしているならどれくらい影響が出ているのか?きっかけはあったか?その症状に対してあなた自身はどのように受け止め、対応してきたか?その結果はどうだったか?
 ハルミはそれらの質問を今まで勉強してきたことを思い出しながら、勝二の症状に重ねつつ、我がことのように受け答えをしていった。
 常人には理解しがたい幻聴や幻覚の訴えであっても、精神科の医師であれば受容してくれるため、精神病患者としての過剰な演技をする必要はなかった。
ただ、周囲の人や家族はどのように受け止めているか?という質問には答えることができなかった。
母親の正子は今も息子の現状を受け止めきれずにいる。だからこそ勝二を病院に連れて行くという考えに二の足を踏んでいる。
 精神科の入院制度は他科と入院の形態が異なり、本人が医師の説明に同意して自分の意志で入院する任意入院と、指定医が(入院)治療が必要と判断し、本人の同意がなくても保護者の同意で入院させることができる医療保護入院、自分もしくは他人を傷つけるキケンがある時、2名の指定医が必要と判断した場合において知事や市長の権限のもとで入院する措置入院という、おおむね3種類の入院形態に分けられる。
 そのため、任意入院ができない場合でも、医療保護入院や措置入院という方法をとれば、勝二を一定期間、治療に専念させることはできるのだ。
 ただし、頭では分かっていることでも、体が動こうとはしないというのは、人ならば誰しもあることだろう。ハルミが勝二を入院させるべく体を動かせないのは、そこに本来の自分の意志がないからだ。入院させずに勝二を元に戻したい。それが本音だ。だからこそ母親の正子を責めることはできない。
 では、勝二のために何が出来るのか。その答えは自分が患者として医師の診断を受け、薬を処方してもらうという方法だった。
 武内医師はハルミの言動に疑う様子もなく、次回の診察予約のついでに脳の検査予約を入れて睡眠導入剤の薬を処方されてから病院を後にした。

 処方された薬が睡眠導入剤だけだったことに落胆したハルミは、その足で他の病院内の精神科へ出向いた。
 そこの精神科の医師も同様の質問をしてきたが、ハルミは勝二のために、更に重篤な妄想や幻聴に悩まされていることを告げ、抗精神病薬の処方を希望した。しかし医師はひとりで病院を訪れたハルミをいぶかしく感じたのか、やはり先ほどの武内医師と同じく、5日分の睡眠導入剤を処方されただけだった。
 ハルミは待合室の長椅子に座りこみ、しばらくの間途方に暮れた。
 病院でうまく演技さえ出来れば、自分の希望する薬を処方してもらえると思っていた。しかし精神科の医師たちはハルミの考えを見透かしたように、ひとりで精神科外来を訪れた患者を疑った。
 ハルミは目の前を通り過ぎようとする看護師を見て、あることを思いついた。そうだ、背後から看護師に襲いかかればいい。近くには病院スタッフがいるはずだ。すぐに自分を取り押さえてくれるだろう。でも、取り押さえられるまでは殴る力を手加減してはならない。それこそ中途半端な演技だとばれて醜態を晒すだけだ…。
 ハルミは椅子から立ち上がり、持ってきていたバッグを握りしめた。バッグの中には化粧道具や手鏡、単行本やペットボトルの水など、人に向かって振り回せばかなり危険な中身が入っていた。
 大切なひとを助けるために犠牲はつきものなんだと自分に言い聞かせた。
ハルミは周囲の目を警戒しながら、外来の受付を通り過ぎて別のフロアへ向かおうとしていた年配の看護師の背後へと近寄った。廊下の角を曲がったところで歩幅を早めた。
 看護師を追って廊下の角を曲がった瞬間、ハルミはなぜか安堵していた。
 別のフロアへつながっていると思い込んでいた廊下の角を曲がると、そこに看護師の姿はなく、重厚な鉄製の扉があるだけだった。扉の上には「薬品庫」というプレートが貼られている。
 その扉を押し開けてまで、看護師に殴りかかる意志の強さを持ち合わせてはいなかった。
 ハルミはその場で握りしめていたバッグからハサミを取り出すと、右手で握り直し、自分の左腕に勢いよく振り下ろした―――。

 左腕に突き立てるつもりで振り下ろしたハサミの先は、上腕部をかすめ左腕の支点を失い病院の床へと音を立てて転がり落ちた。
「ハルミちゃんっ!」誰かが自分の名を呼んだ。
 何が起きたのか、ハルミは目の前にある光景が信じられなかった。ハルミの目の前にいるのが、よく見知った人物であったにも関わらず、現実にその場にいることが信じられなかった。左腕をかすめたハサミは大怪我ではないにしろ、間違いなくハルミの腕を傷つけ、痛みを感じているはずなのに、未だに夢の中にいるようだった。
「ハルミちゃんっ!!」
 もう一度その女性―――、山本正子がハルミに呼びかけた。
(どうして正子さんが病院に、しかも精神科にいるの??)
 昨夜、ハルミは正子の携帯に電話をかけ、明日は自分の用事で山本家へ伺うことができないことを告げた上で、病院の精神科を訪れていた。だから正子はハルミが今日、どこへ向かうかなど、知る由もないはずなのだ。
 状況を飲み込むことが出来ず、唖然としているハルミに向かって、正子は胸を撫で下ろした。
「良かった、大事にならなくて…」
 まるで自分がこのような行動をとることが分かっていたような口ぶりに、ハルミはさらに目を見開いた。
「ケガはだいじょうぶ?あっ、少し血が滲んでいるわね。この病院で診てもらう?それとも…」
 はじめは一体何のことを言っているのか、いまの混乱した頭では思い巡らせることができなかったが、正子がすぐにハサミを拾い上げ、自分のバッグに閉まった瞬間、その行動の意味を察した。
 ここは自宅でも、ましてや山本家でもなく、院内なのだ。そしてアタシの心に渦巻いていた思いは、たとえ未遂に終わったとしても、傷害罪に発展してしまいかねない行為だった。
 先ほど睡眠導入剤を処方された患者が、時間を置かずに今度は左腕の裂傷で同じ病院で受診するとあっては、病院スタッフも通常の患者と同じように診察してくれるはずもない。
 人目につかないようにハサミをバッグに閉まった正子はつまり、こう言っているのだ。『もしもたいした傷でないのなら、家に戻って手当てをしましょう』と。
 ハルミはゆっくりうなずくと、正子が着ていたカーディガンを羽織ると、誰かに呼び止められる前にふたりで病院を後にした。
 病院玄関を出るまでの間、正子はハルミを力強く抱き寄せ、小声で何度も「ありがとう」と「ごめんね」を繰り返した。
 病院駐車場に止めてあったハルミの車の中にふたりで乗り込むと、正子からの告白が始まった。

 エンジンを切ったままの車内は静かだった。フロントガラスは紅葉した落ち葉で覆われていて人目を忍ぶにはちょうどいい。この時期の空気なら窓を開け放てばほんのりと涼しい風も入ってくるだろうが、当然のことながらふたりとも開けるつもりはなかった。
「ハルミちゃんが昨日の夜に電話をかけてきてくれたでしょ?明日は用事ができて家には行けそうもないって」
「・・・はい」
「あの時のハルミちゃんの様子が、どこかいつもと違うような気がして。それにほら」
 正子は思い出したように「もしも本当に用事があったなら昼間、家にいる間に話していたと思うのね。別に何かを隠し立てるような仲でもないし」
 やさしく、追い詰めるような口調ではない。それでも何を言われるか見当のつかないハルミはこの場の雰囲気に緊張していた。
「それとハルミちゃんからの電話で一番気になったのが『用事ができて』って言ったところね。あの時にもしも『用事があって』って話していたら気にも留めなかったのかもしれない。でもあの時ハルミちゃんは間違いなく『用事ができた』と言ったのよ」
 昨夜、山本家に電話をしたのはたしかに、用事で家に行くことができないといった内容だったことには違いない。けれど、実際のところ『用事ができた』と言ったのか『用事があって』と言ったのかまでは定かではなかった。それにその微妙なニュアンスの違いで何が変わるというのだろう。
 正子は自分を見つめるハルミに気付くと、苦笑しながら話をつづけた。
「私の勝手な思い込みかもしれないけれど『用事ができる』ことと『用事がある』ことっていうのは似て非なるものなんじゃないかって思うの。つまり、『用事がある』っていうのは誰かに何かを頼まれたり、以前から約束のあった用事であったりするのに対して、『用事ができた』っていうのは、もともとの予定にはない突然できた用事。つまり、自分で作った用事なんじゃないかって思ったの」
 なぜ正子が病院にいたのかを説明するためには大事な話なのだろう。でなければこの場でこんな細かい話をする必要はないはずだ。
「ハルミちゃんが電話をかけてくれたのが夜の9時過ぎ。携帯の履歴を見たからそれは間違いない。夜の9時過ぎになってハルミちゃんから急に『用事ができた』って電話が入ったの。私にはそれが『人には話せないけど行動に移さなければならないことができました』って聞こえてきたのよ」
 鋭い。女の勘というのは、何と鋭いものなのだろうか。それは同性のハルミでさえ驚嘆してしまうほどに。けれど、ここまでの話の段階では正子がこの病院にいたことへの説明には不十分と言えた。

 正子の告白はつづいた。
「電話を切った後で、思いを巡らせてみた。ハルミちゃんならもしかしたら、私が母親として勝二のためにしてあげたくてもできなかったことを、行動に移してしまうかもしれないと」
まさか…。
「いろんな可能性がある中で、私はひとつの仮説を導き出した。その仮説こそ、私が勝二のためにしてあげようとしたけど行動に移すことのできなかったことなの。私はその仮説を証明するために自宅からいちばん近いこの病院の精神科の受付けの目立たない場所で、待ちぼうけになってくれることを期待して、あなたを待った」
 果たして、診療開始の10時から約1時間後のこと、正子にとってはいちばん現れて欲しくない人物が玄関の自動ドアを通過してきたのだった。
 その人物―――坂本ハルミは、保険証を受付けに渡すと、引き換えに番号札と一緒に手渡された診察で使用するためのアンケート用紙に、すらすらと何事か書き込んでいる。
 やがて看護師によって呼ばれた番号に反応すると、持っていたバッグを握りしめ、診察室へと消えていったのだった。
「情けないことだけど、私は仮説が外れて欲しいと願いながらもハルミちゃんが本当に病院にやって来てしまったことで、自分の想像していた通りの筋書きが出来上がっていくことへの恐ろしさに、その場から動けなくなってしまった」
 ここまでの正子の話を聞いてハルミは確信を持った。やっぱり正子は気づいていた。ハルミが勝二に成り替わり、自分の身に起こった症状として精神疾患の病名をつけてもらうことで、薬を処方してもらおうとしていたことに。
 正子の告白はやがて、懺悔へと表情を変えていった。
「病院に来た時から私にはわかっていたの。ハルミちゃんが勝二のために何をしようとしていたのか。何もかもわかっていながら、私は診察室へと消えていくハルミちゃんを呼び止めることが出来なかった。ハルミちゃんの行動力に望みを持ってしまった申し訳なさと、自分がしたくても出来ないことをされたという、勝二の母親としての嫉妬と、なぜそこまですることが出来るのかという畏怖の念がごちゃ混ぜになって、私はハルミちゃんの背中を見送ることしかできなかった―――」
 涙がこぼれ落ちた。ただただふたりの頬を涙が伝った。


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第9章へつづく。



第6章へ




 勝二は階段を上がってくる無数の足音に耳をそばだてた。仕事を辞めてから今日で、1127日目になる。いよいよ国税庁が金の取りたてに来たか。ただし取りたてに来たところで金目になるようなものなどここには無い。なぜなら今まで貯めてきた金は、スイスの銀行に預けてあるからだ。そこの暗証番号だけはどんな拷問に掛かろうとも、口が裂けても言うわけにはいかない。あれは大事な金なのだ。
足音がすぐそこまで近づいてくる。「勝二ぃ、お客さんよぉ!」そんな幻聴が聴こえる。母親の声に似ているが騙されてはいけない。あれは国税庁の罠なのだ。勝二は部屋を見回し、武器になるような道具がないか探した。闘わなくては!

足音がやみ、今度は部屋のドアをノックする音がした。「勝二、起きているんでしょ?いま体の具合はどうかしら?」今度は母親の声がした。ドア越しに振り上げた椅子を床へ下ろし話しかける。「最高だよ、母さん!今日は気分が良いんだ。ところで母さんの後ろから国税庁の連中が金を取りたてに来てるようだから、どうにかして追い出してくれない?」
「勝二…、国税庁の連中はもう追い出したわよ。それと入れ替わりに今日は勝二の知ってる人が遊びに来てくれたのよ。私も知ってる人だから危険はないわ。良かったら鍵を開けてくれない?」続いて母親とは違う声がした。「お久しぶりです勝二さん。覚えてますか?ハルミです。坂本ハルミです」
まったく!これだから信用ならないんだ!国税庁の奴らがいくら名前を変えようがボクが騙されるとでも思っているのか?だとしたら勘違いもいいところだ。もちろんハルミなんて名前に覚えはないし、今まで会ったこともない。勝二は床へ下ろした椅子をもう1度、振り上げた…。
 扉めがけて振り下ろされたキャスター付きの椅子の威力は、部屋の構造上において防音効果があるとはいえ、階段を上ってきた正子とハルミの腰を抜かせるほどの衝撃音をあたえた。
「危ないっ」正子が階段の後方に倒れ込みそうになるのをハルミは慌てて支えるのが精一杯だった。しかし、正子を支えたハルミはあと数センチのところで階段の手すりをつかみ損ね、声を出す間もなく足を踏み外し、そのまま階下へ転げ落ちてしまった。
 階段下まで転落したハルミが全身の激痛とともに思ったことは、落ちたのが自分ひとりで良かった、という安堵感だった。
 正子とともに階下に落ちていたらふたりともただでは済まないし、ましてや階段を落ちながら相手を庇う余裕などなかっただろう。
一番に痛みが走ったのは背中だった。背中から滑落した状態で最後は柔道の受け身のような格好になり、両腕でとっさに体を支えようとしたが踏ん張りが効かずに後頭部を打ち付けた。落ちた瞬間は目をつぶっていたにも関わらず、眼球の中で小さな星がチカチカと光った。突然の衝撃に体がびっくりして呼吸が止まると同時に、自分の口から声にならない、くぐもった異音がした。
 両手で後頭部を押さえながら、くの字に横たわったハルミは、正子に心配をかけまいと恐るおそる上半身を起こしてみる。
「ハルミちゃん。ハルミちゃん…!」気付いた時には正子が目の前で「ごめんなさい、ごめんなさい」と何度も謝っている。「私がしりもちをついたりしなければこんなことには…」
 どうやら後頭部を打ち付けた時に、ほんの一瞬だけ意識が遠のいたらしい。けれどすぐに「だいじょうぶです」と応え、痛みを堪えて冗談を言う余裕もあった。「海に落ちたわけじゃないから」
 体育座りのような格好をとってゆっくりと息を整える。だいじょうぶ。次に肩から腕にかけて関節を動かしてみる。少し右肩が痛いけど、動かせないほどではない。今度は足を動かしてみる。うん、何ともないみたい。心配そうな正子にハルミはニッコリと頷いてみせた。「かすり傷です。さあ、行きましょう」
「行く?行くってどこへ…?」
「それはもちろん、勝二さんのところですよ。勝二さんが待ってます」
 階段の手すりにつかまりながら、そろそろと立ち上がる。背中が痛い。後頭部が痛い。でもそれ以上に、勝二の予想し得ない行動に対し、心が痛んだ。
「残念だけど、ハルミさん。勝二はあなたのことを忘れてしまったみたい…」
 だが、勝二に会うことが叶わなかったこの3年間で、ハルミは何度も繰り返し挫折を味わったことで、折れない心を手に入れていた。
 いま、ここで、何をどうしたら良いのか、正解はわからない。だったら、まずはドア越しでも良いから勝二さんの声が聞きたい。一目でも良いから顔が見たい。指先だけでも良いから体に触れたい。
 ひとつひとつ階段を上がるのだ。それがハルミの出した答えだった。

 ハルミと正子が再び階段を上がりきると、勝二が大声で何事か喚いているのが聞こえた。
 かつて勝二が差し伸べてくれた手を握り返したように、今度はハルミが勝二に差し伸べる番だった。
ふと西側にある窓をのぞくと、乱立するビルの谷間で夕日が沈もうとしていた。ベランダの手すりに数匹の赤トンボが飛び交っている。まだアスファルトの道路は熱気を帯びて蜃気楼を作っているだろう。
 正子からの連絡が来るまでの間、ハルミは統合失調症について自分なりに勉強し、統合失調症への対応マニュアルも、頭の中にしっかりと叩き込んでいた。
 しかし彼は、何があっても、どんなことが起こっても、『山本勝二』でしかあり得ないのだ。その「病名」というフィルター越しに彼を見ていては、本来あるべき山本勝二を取り戻すことは出来ない。
この3年の間でハルミは支えられる側から支える側の強さを手に入れていた。
(強くなったなぁ、アタシ。誰か褒めてくれないかなぁ。…そうだ!勝二さんが元に戻ったら、頭を撫でてもらおう)
それはハルミが自分に与えたご褒美だった。
「今日はこれで帰ります」
 ハルミの突然の撤退宣言に正子は驚いた。
「いくつか作戦を思いついたんですけど、夜遅くなってもお互いに疲れちゃうだろうし。それにどうしたって長期戦になるだろうから」
「そう?そうよね。嫁入り前の若い子を遅くまで引き止めておくわけにも…それよりどこか体の痛むところはないの?いま大丈夫だとしても後から頭を打った後遺症が…」
 と、そこで正子は口をつぐんだ。きっと勝二の事故の後遺症と重ねてしまったのだろう。
 それでも遠慮がちに「冷たいお茶でも飲んで行って。それに体の痛みがある場所も冷やさなくちゃ」とリビングへと誘ってくれた。「ほんとうにだいじょうぶなの?」
「はい。麦茶いただきますね」
 リビングに降り、麦茶をごちそうになったハルミは、「ごちそうさまでした。じゃあ、また明日。家を出る時は連絡しますから」と言って、引き留めてくれる正子を丁寧に辞して山本家を後にした。

 翌朝はいつもよりも寝覚めが良かった。2年前からとっていた新聞も断っていたし、郵便受けに溜まるような封書類もない。だから近所の目を気にして毎朝郵便受けを覗き込む必要がなくなった今、正子に朝早く起きる習慣もなくなっていた。
 ただし、今朝は昨日までと比べて、少しだけ気分が良かった。カーテンを開けても昇る太陽の眩しさに腹立たしさは感じなかったし、いつもの雀のうるさい鳴き声を小鳥のさえずりと感じ、自然と顔をほころばせた自分に驚いたほどだ。何よりも正子が驚いたのは、しばらくの間感じたことのない空腹感だった。
 洗面所で顔を洗おうと思ったが考え直し、シャワーを浴びることにした。これもまた、いつもの自分とは違う行動だった。
 昨日と今日が劇的に変化したわけではない。2階を見上げれば溜め息が漏れる。しかし今まで独りで闘ってきた正子にとって、突然山本親子の前に現れた坂本ハルミの存在は大きかった。藁にもすがる想いでハルミに電話をかけたものの、すぐに電話を切ったため折り返し掛け直してくることはないだろうと思ったし、まして、直接自宅にまで来てくれるなどとは夢にも思わなかった。昨日のことを思い返し改めて正子はハルミを芯の強い女性だと感じた。
 もしも息子と彼女の間に見えない絆のようなものがあるのだとしたら、私が口を出すことは何もない。しかしハルミの出現によって、勝二の病が治るなどと大きな期待はしていない。ただ、ハルミの存在が勝二の鈍くなっていた感情を起伏させたことは間違いない。
 今日もハルミは懲りずに来てくれるだろうか?階段から転がり落ちた時の怪我は大丈夫だろうか?
 正子の心配をよそに、脱衣所で着替えを済ませたのを待っていたかのようなタイミングで、玄関からインターホンよりも先に元気な声がした。
「おはよう、おばさん!ちょっと荷物が多いから手伝って欲しいんだけど!」
 玄関を開けるとハルミが両手に抱えきれないほどのバラの花束を持ってニコニコしている。その背後で車のエンジン音がした。
「荷物が多くて今日は車で来ました。で、これは今朝、友だちの花屋さんからサービスしてもらったんだけど、花瓶はあるかな?なくてもちゃんと用意してきたから。それと2、3日分の食材も調達してきたからね」
 花束を受け取って目を白黒させている正子に向かってハルミは頭を下げた。
「しばらくご厄介になります!」

 ご厄介になりますとは言ったものの、ハルミは山本家に押しかけ女房のような形をとって面倒をかけるつもりはなかった。
 ただ、少しでも正子の精神的な支えになれれば自分の役割が達成すると思ったし、その間に勝二の生活サイクルを把握し、願わくは症状の程度を知ることで、自分に何ができるのか、そして何も出来ないまでも、今の勝二にとってどんな薬が有効なのかを調べたいと思ったのだ。そして有効な薬が判明したら―――、いや、今はそれ以上のことを望んでも仕方がない。
 まずは今日をどう過ごすか、それが大事なことだ。勝二の脳内を理解することは到底適わない。ただ、勝二と一番つながりがあるのはハルミではなく、母親の正子なのだ。勝二の現状を理解するためには、正子の生活サイクルを元に戻すことが先決な気がした。
 朝、昼、夕と、食事を摂り、決まった時間に就寝をし、時には外出し、生活にメリハリをつける。そんな今まで日常的に行なっていたはずの生活サイクルを、精神的な負担を与えることなく正子にやり遂げてもらうことはとても難しいことのように思えた。
 けどやるしかない!
「おばさん、朝ごはんは食べました?」おばさんという呼び方は何だか居心地が悪いけれど今は我慢することにする。「おかあさん」という呼び方では、いくら他意はなくても本当に押しかけ女房のように思われてしまうから。
「ええ。食べたけど」
「じゃあ、お台所借りてアタシが何か作って…、え?もう食べたの?」さっそく当てが外れてしまった。ハルミが乗ってきた車の後部座席には花屋に行った後で寄った大型スーパーで買い漁ってきたものが袋にして3つ、その中にぎっしりと旬な食材が入っている。朝から手料理を振る舞って正子の胃袋をつかもうと思っていたのに。
「えーと…、じゃあお掃除を手伝おうかな」
 家の中がキレイな方が外出をしたくなると聞いたことがある。
「そんな、家政婦みたいなことをハルミさんにさせるわけにはいかないわよ」
 バラの花束を抱えたまま、正子は困った顔をした。その困った顔は、今では正子の普段の顔のように自然に見えてしまっている。その眉間に刻まれたシワを取ってあげたい。
「家政婦でも何でもいいです」
 勝二を助けるための近道は正子を支えることなのだ。目の前にある壁がどんなに高くても、目標がハッキリしていることがハルミにとって大きな勇気となる。
勝二を救うためなら何も望まない。それこそがハルミにとっての新たな負の連鎖のはじまりとなったことに、彼女はまだ気づかない。



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第8章へつづく。



第5章へ



「そう、だったの。ふたりにはその頃からつながりがあったのか…」
「そうですね。もしかすると小学生だった坂本ハルミさんにとって山本勝二さんは初恋の相手なのかもしれません。そしてふたりは大人になってから運命的に再会することとなった。ハルミさんとしては、付き合い始めてから記憶の片隅にあった小学生時代の思い出が初恋の相手を目の前に蘇ったのかも。だからこそ自分が統合失調症だと偽ってまでして、大切なひとを救おうとしているのかもしれない―――」
「勝二さんは、ハルミさんがぬいぐるみを川に落としてしまったあの時の小学生だと気付いているのかな…?」
「どうですかね。一般的に考えて、中学生の男子が好きになる対象に小学生が含まれることは少ないですから、気付いていない可能性のほうが高いんじゃないかな。それに男はそういうところ、鈍感ですから」
 さゆりは宇佐美の意見に大きく頷いた。男は鈍感だ。「だとしたら、なんだか切ないな」
 でも、恋愛に敏感な男はもっと嫌だ。だから男は恋愛に鈍感くらいで丁度いいとも思う。
 山本勝二は実際に存在し、何らかの病気にかかっている。そしてその病気の治療のために坂本ハルミは自分を犠牲にして、闘っている。
 それがこれまでの情報で臨床心理士と偽薬師の出した結論だった。そして来週の今日、その答えをハルミの面談中に最終確認するということで話はまとまった。
「じゃあ今夜はもう帰ろっか?」
「そうですね。やりかけの仕事は明日にまわしましょう」
 すると間もなくして、さゆりの携帯電話が鳴った。「亜子からだ、もしもし?」
「じゃあぼくはこれで…、」と先に相談室を出ようとした宇佐美の後ろ姿に、さゆりが声をかけた。
「もしよかったら、これから飲みに行くんだけど付き合わない?」

 2月の夜は厚手のコートが手放せない。石川さゆりは八代亜子と腕を組みながら、寄り添うように飲み屋までの道のりを歩いた。その数メートル後ろから宇佐美がスーツのズボンのポケットに手を突っ込みながら付いてきているが、マフラーも手袋もない身なりは見ているこちらが凍えてしまいそうだ。
 さゆりは宇佐美に向かって「そんな格好で寒くないの?」という問いかけが喉元まで出かかったが、どうせ「寒くありません」としか返事は返って来ないだろうと思い直し、言葉を飲み込んだ。
「ほら着きましたよ、さゆりさんっ!」
 先に立ち止まった亜子が腕をグイと引っ張り、さゆりの踏み出そうとする二の足の方向を居酒屋の出入り口に向けさせる。
「いーらっしゃいませぇ!」店員の威勢のいい声が奥行きのある店内に響いた。ここはチェーン店ながら客の評判も良く、出てくる料理がどれも美味しいので、亜子と飲みに行くときには大抵この居酒屋を利用することが多かった。今夜のアルバイトの中にも見知った顔が愛想良く接客をしている。
「3名様でよろしいですか?」
「はい」
「ただいまテーブル席をご用意しますから少々お待ち下さい!」
 この居酒屋でいうところのテーブル席とは、個室のことをさす。
顔なじみの男性店員が応対してくれたが、いつもの女性2人ではなく、宇佐美が付いて来ていることには一切触れることなく、個室を用意してくれるその気遣いがありがたい。
 間もなくして、3人は個室に案内され、各々飲み物の注文をして一息ついた。席は上座にさゆりが座り、その隣に亜子が腰掛ける。どうやら宇佐美が注文を買って出てくれるらしい。
 亜子が宇佐美とさゆりのふたりに向けて話しかける。
「ここはお通しも美味しいんですよね、さゆりさん」
「そうね。この店でお通しを断ったことはないかも」
「てゆうか、アタシがさゆりさんをこの店に誘うときは水曜日が多いって、気付いてました?」
「え、そうなの?」
「ここの居酒屋は曜日によってお通しが違うんですけど、中でも水曜日のお通しが一番美味しいんですよ」
 言われてみれば今日は水曜日だ。そして思い返せば、いつも同じお通しを食べている気がする。
「じゃあ、もしかしてエビチリは水曜日限定のお通しなの?」
「そうですよ!やっぱりさゆりさん、気付いてなかったのかぁ」
 嬉しそうな顔をしておしぼりで手を拭いた亜子は、今度はそれを裏返してテーブルを拭いている。
 程なくして生ビールのジョッキが3つと、お通しのエビチリが運ばれてきた。
「じゃあ、今日もお仕事お疲れ様でした!」
 まだ席に座ってから一言もしゃべっていない宇佐美に向かって、亜子が話しかけた。
「今夜は宇佐美さんの話をたっぷりと聞かせてもらいますからね、覚悟してください!」

 3人で乾杯して間もなく、亜子は立て続けに2杯のビールを飲み干し、レモン酎ハイの注文をしてもらうように宇佐美へ頼んだ。ちなみにまだ、お通しのエビチリには手をつけていない。
「でぇ、宇佐美さんって、どうなんですか?」
「どうって、何が?」
「それはやっぱり、恋愛事情ですよ。ね?」
隣のさゆりに同意を求めたが、さゆりは聞こえない振りをして1杯目のビールジョッキを空にした。「エビチリおいしいわね」
 亜子はさゆりの反応には構わずに、宇佐美の対面に座りなおした。
「宇佐美さん、彼女はいるんですか?」
「イヤ、いないけど」
「じゃあ、好きなひとはいるんですか?」
「イヤ、いないかな」
「じゃあ、どんなひとがタイプなんですか?」
「…ぐいぐい来るね」
「そうですよ。だって、そのための飲みじゃないですか」
「イヤ、ぼくはただの食事のつもりで来たんだけど」
 宇佐美は決して女性が苦手というわけではない。ただ、相手のペースに乗って話を合わせることに慣れていない。では、自分のペースで話すことができれば恋愛の話もスムーズに進むかといえば、そんなこともない。思い返せば偽薬師を名乗ってからここ数年、仕事のことばかり考えてきた。
「それじゃあつまらないじゃないですか!」
 そう。宇佐美もうすうすは気付いていた。宇佐美道彦として、相手の気持ちを汲みとることができなければ、「偽薬師・宇佐美道彦」としての成長もないということに。
 好きなひとがいないことが問題なのではなく、本来、誰でも持っているはずの、ひとに好意を持とうとするアンテナが折れていることこそが問題なのだ。
「宇佐美さんて、不真面目なんですね」
「…不マジメ?」
「そうですよ。何をビックリした顔しているんですかぁ…って、さゆりさんまで何をそんなに驚いてるの?」
「え?だって、不真面目ってウサミミ…じゃなかった、宇佐美さんにとっては真逆な言葉のような気がしていたから…」
 注文した料理が立て続けに運ばれてくる。けれどそれに箸をつけているのは亜子ひとりだった。宇佐美とさゆりのふたりは、神妙な顔で亜子の次の言葉を待っている。
「じゃあ、図書館の受付嬢であるアタシが、『真面目』という言葉の意味をお二人に教えてあげます」
「お願いします」二人に頭を下げられて、亜子はまんざらでもない顔で、
「真面目っていうのは普段、何の気なしに意味も考えずに使っているんでしょうけど、ちゃんと意味があります。それは真剣だとか、本気って意味なんですけどね」
 そこまでなら何となく分かって使っていたつもりだ。
「ここからはアタシの見解ですけど、真面目って言葉が使われるのって、仕事上のことが多い気がするんですよね。じゃあ、『仕事が真面目な人間=真面目なひと』っていう方程式が成立するかっていったら、一概には言えないんじゃないかな」
 なるほど。一理ある、ような気がする。
「ということは、ですよ。ひとの何をもって真面目と評するかは、それぞれ違っても良いじゃないですか。仕事とプライベートを割り切れるひとなんて、巨万といる。だからウサミミは不真面目!」
 いつの間にか頬を赤く染めながら目を座らせ、ウサミミ呼ばわりされていたが、彼女の主張するところはわかりやすく、そしておもしろい見方だった。
 亜子は仕事をしている宇佐美のことはよく知らない。だから自分が会っている時の印象で不真面目と伝えているのだろう。
「だったらさ、」さゆりが亜子の台詞を引き取るように、
「真面目と不真面目の境界線が曖昧なように、場合によっては正義と悪の境界線も曖昧なんじゃないかな?」
「正義と悪?」
 ドラマやアニメで放映されるように、これほど境界線のはっきりしているものはないような気がしたが、宇佐美はさゆりの持論が聞きたくなって、口を挟むのをやめて次の言葉を待った。
「正義と悪って言ってしまうと誤解があるんだけど…、言い換えれば『正義』と『正義』ってところかな」
「正義と正義?」
「そう。だって昔から宗教の違いや、国と国の考え方の違いで、お互い正義の名の下に、大小様々な戦争を繰り返してきているじゃない?そのお互いの主張―――、ここで言うところの正義のことね。その争いを起こしている各々の主張をわたし達が聞いた所で、どちらが正しいかを判断することはできないと思うのよね」
 確かに。第三者から見れば各々の主張は曖昧で、ふわふわしているように見えるものかもしれない。
「わたし達、というよりもこれはわたしの個人的な主張かもしれないけど―――、」さゆりは宇佐美と亜子にそう断りを入れた上で、
「わたしがこの職業に就いた以上、自分の言葉に自信を持ってはいけないと思っている。だってAさんとBさんというクライエントで同じ病名の方がいたとしても、その人の環境や性格、もっと言えばそのクライエントを取り巻く交流の関係が変われば、ガラッと対応を変えなければいけない状況も出てくるんだもの。だから臨床心理士にとってのマニュアルは、無いに等しいのよね」
「じゃあ、マニュアルを持たない臨床心理士は、自分の言葉に自信も持たずにどうやってクライエントと向き合うの?」
 さゆりの元クライエントである亜子の質問は、もっともな疑問だった。
 さゆりは少しの間、迷ったあとで、
「自分の言葉が絶対だとは思わない代わりに、わたしは大義を持ってクライエントと接しているの」
 大義、それは人として守り行なわなければならない大事な道。

 気が付けば、仕事終わりの軽い飲み会だったはずが、思いもよらない方向に話が進んでいる。
 けれど宇佐美はさゆりの仕事に対する姿勢を聞くことができた、貴重な飲み会に参加させてもらった気分だった。
 ふたりが宇佐美をじっと見つめている。
そうか、今度は自分が語らなければならない。居酒屋の時計を見やると、すでに夜中の0時をまわっていた。
 宇佐美が口を開きかけた途端、
「あぁ!もうこんな時間!そろそろ帰りましょっ。明日も朝からお互いに忙しい身分だし」
「そうですね。今夜はけっこう語り合えましたもんね。お腹もいっぱいだし!」
「……」
「あれ、どうしたの?ウサミミはまだ食べ足りない感じ?」
「いや、もう満腹…」
「そう?じゃあ帰りましょ!」
 言うが早いか、亜子はテキパキと皿を積み重ね、さゆりは割り勘の金額を確認している。
 自分の話をしなければならないと思っていた宇佐美は、結局の所、ふたりの女子のやりとりを聞くだけ聞いて帰ることになった。考えてみればあまり意見を求められた覚えもない。
 宇佐美は飲み会やコンパ(果たして飲み会とコンパの違いも定かではない)に、あまり参加したことがない。参加したことがないからこそ、宇佐美は女性の話の聞き役になることこそが、飲み会での男性の役割なのだとすんなりと納得してしまった。
 しかし後々になって宇佐美は石川さゆりと八代亜子の今夜の気遣いに感謝することになる。
 今夜の飲み会から1週間が経ち、宇佐美はようやく偽薬師として、またひとりの人間として、クライエントである坂本ハルミと本腰を入れて向き合う日が訪れた。

 山本勝二の病気は発症から8年の年月をかけ、徐々に進行していた。はじめの2年は母親の正子が付き添うことで、通院も出来ていたが、3年が過ぎた頃から「統合失調症候群」と医師に診断されたその病名は、まさにその名のごとく、勝二の精神を蝕んでいった。
 勝二はつけられた病名に対し、自分の精神状態が安定している間に少しでも理解しておこうと、文献や参考となるような資料を読み漁っていたため、自分が今後直面するであろう状況を見越した上で、正子に頼み込み、自分の部屋に頑丈な鍵を取り付け、住宅の改修もできる範囲で、現在の状態にまで病状が悪化する頃には、部屋の窓や一部の壁を防音構造にしてもらっていた。
 はじめのうちは正子も「心配し過ぎよ」と励ましてはくれたが、病気が進行するとともに現れる頭痛や苛立ち、衝動的な暴力行為に、母親として頭では息子を受け入れたくても、体が拒絶してしまい、いけないとはわかっていながらも、携帯電話を取り出していた。3度目のコール音で相手が出た。
『もしもし』
「……」
『…もしもし?あの…』
 相手の訴えかけるような問いに、正子は何も言えずに電話を切ってしまった。いったい私は何をしているんだろう。これではイタズラ電話と同じではないか。
いま一番電話を掛けてはいけない相手に向かって、何を話そうとしたんだろう。
 決して連絡はとらないと、あの時誓ったはずなのに。もう決して迷惑をかけないと。母子ふたりで生きていこうとあの日に決めたはずなのに。
 正子は意を決してもう一度、携帯電話を手に取り、登録していた電話番号を削除した。
(これでいい。勝二のためにもあの子のためにもこれでいいのよ)
 リビングの椅子に腰を下ろすと、冷え切った緑茶を啜った。
 どれだけ時間が経っただろうか。毎晩なかなか寝付けない正子は、テーブルに顔を伏せたまま、うとうとしながら玄関からのチャイムを聞いたような気がした。

 駆け出してからしばらくして、どうして車を運転しようとしなかったのか、自分の向こう見ずな行動をイヤというほど悔やんだが、もうすでに家まで引き返して車を取りに戻るには、走った距離が長すぎた。
 確信などなかった。ただそうであって欲しいと願い、アタシはサンダルを履いて玄関を飛び出した。
 電話の主は無言のまま、ほんの数秒間で切れてしまった。でもアタシはなぜか何も聞こえない電話の向こう側から相手の顔を連想してしまったのだ。
 距離にして一駅分を、ゆるやかな勾配を繰り返す。そして駆け上がった先に見えたのは団地に面した小さな公園だった。喉がカラカラに乾いたアタシは、公園の水飲み場に惹かれながらも息を弾ませながら目的の場所まで辿り着いた。
 良かった。自分の車でたった1度だけ通ったことのあるこの風景は、数年前とほとんど変わりがなかった。
呼吸を整えながら、少しずつ気持ちも落ち着いてくる。と同時に、先ほどの無言電話の相手が、この団地を抜けた先にある2階建て家屋の住人であるという確証がないことに、改めて思い知る。自分の無鉄砲さに思わず立ち眩みをするほどだった。
 家の脇の駐車スペースには見知った車が止まっていた。アタシは何度も何度も深呼吸を繰り返しながら(つまりは鼻息を荒くしながら)、思い切ってインターホンを押した。
『はい』インターホン越しに淀んだ声が返ってくる。
 玄関を開けた相手はアタシの顔を見るなり、情けないような、それでいてホッとしたような顔で迎え入れてくれた。
「やっぱりさっきの電話はわたしだってバレちゃったのね」
「確信はありませんでした」
「本当に?」
「ハイ」
「ありがとう、ハルミちゃん。どうぞ中へ入って。恥ずかしいくらい片付いてないけど。あら、靴はどうしたの?」
足元を見ると、履いていたはずの黒のサンダルがいつの間にかどこかへ行ってしまっていた。状況をすぐに理解した正子はもう1度、深々と坂本ハルミに向かって頭を下げた。
「どうもありがとう。よっぽど急いで駆けつけてくれたのよね。どうぞ、あがってちょうだい」
 その後でスリッパを出しながら申し訳なさそうに、「スリッパを履く前に靴下を脱いでね。良かったら洗濯しちゃうから」と付け加えた。
 靴下を脱いだハルミは、やはり申し訳なさそうに差し出されたスリッパを履くと、階段の右脇にあるリビングに通された。すると、恐るおそる足を踏み入れたハルミは、眼前の光景に目を見張った。
 恥ずかしいくらい片付いていないと言った正子の言葉を鵜呑みにしたハルミは、リビングの散らかりようにどんなリアクションをとれば良いのか内心迷っていたのだが、その迷いは困惑に変わった。なぜなら、リビングにはテーブルと2脚の椅子の他には何もなかったから。
リビングは10畳程の広さがあり、フローリングと畳の半分に分かれている作りとなっていたが、フローリングの部分にテーブルと椅子が設置してある他は何もなく、畳が敷いてある場所にはかつてコタツがあったと思われる跡が残っていたが、今は何もない。コタツはおろか、テレビも電気カーペットも、リビングに隣接しているキッチンに至っては、食器も食器棚も調味料も鍋もフライパンも何もない。文字通り何も。
ではなぜ生活感のないだだっ広い空間で、息が詰まるような錯覚に陥るのはなぜだろう。

「勝二さんは2階ですか?」
 ハルミの問いに正子は黙ってうなずく。3年もの間、会うことの叶わなかった勝二がすぐそこにいる。それはハルミにとって心の騒ぐことに他ならない。ただし、母親の正子が助けを求めるような電話をしてくるくらいの状態になっているということは、手放しで喜べるような状況にはないとも言えた。
「それで…、勝二さんはどんな?」病気、という言葉を遣うのがためらわれた。
「お医者様の話によると、脳が損傷して統合失調症のような症状が出てくるっていうことだったんだけど…」
 そこまではハルミも3年前に正子の口から聞かされていることだった。その脳損傷を理由に、ハルミは向こう3年間、勝二と会うことを絶たれたのだ。
「でね、もし症状が急激に進行してきたらすぐに専門の精神科で診察を受けて下さいって。でも、もともと勝二が診てもらっていた総合病院にも精神科はあるのよ?」
 母親の心理としては、専門の精神科病院に連れて行くよりも総合病院に連れて行きたいというのが親心なのかもしれない。
「それに、病院の先生が言っていた割にはその、何て言うの?先生が言っていた統合失調症のような症状も、総合病院に通院してから1年の間でずいぶんと回復したように思えたのよ。その頃は勝二も普通の生活が送れるようになってきて、これなら薬も飲まずに仕事にだって復帰できるって喜んでいた矢先にまた、あっという間に症状が悪化していったのよ!」
「専門の精神科に行って診てもらったことは?」
「ないわよ。だって、主治医の先生がいるのにわざわざ行く必要があるの?」
「それは…、そうかもしれないですね」
 正子の気持ちはよくわかる。よくわかるが、その反面、もし定期的に通院することができていたら、その主治医から専門の精神科病院への紹介状を渡されていたかもしれない。
 現在の病院のシステムとしても、定期的に通院していた患者が、ある日から来なくなったからといって、通院するように催促するような連絡をとることまではしない。たとえもし、連絡があったとしても、「その後のお体の具合はいかがですか?」といった、お節介にならない程度の連絡が来るくらいのものだろう。
 ハルミがひとりで考え込んでいると、「ごめんなさい。あなたにだけは迷惑をかけたくなくて連絡することはないって思っていたのに、結局は電話をしてしまって…」
「そんな。アタシはいつ電話が来ても良いように準備していましたから」
「結果的に無言電話になっちゃったけど、来てくれてこんなに心強い人はいないのよね」
 これが頑ななまでに親子ふたりで生きていくと言い張った、3年前の正子の言葉とは思えなかった。それだけに、勝二をひとりで看病してきたこの年月は母親といえども、苦しいものだったのだろう。
「勝二さんに会う前に、勝二さんがおそわれたこの症状について、お伝えしなければなりません。それともうひとつ。お願いがあります」
「ええ、何でも言ってちょうだい」
「じゃあ、お願いから。今日から正子さんのことを、おかあさんと呼ばせてもらいたいんです」
 それは3年前に叶わなかったハルミの想いだった。

 ハルミの気持ちの深さを思い知った正子は少し声を詰まらせながら、それでもやつれた顔を歪ませながら、
「おかあさん、だなんて…。私の立場だけで言ったら、こんなにありがたいことはないけど。でもね、私はどうしたってあなたのお母さんの立場でも考えてしまうのよ。もしも私があなたのお母さんだったとしたら、娘が苦労するとわかっている場所に、わざわざ向かわせようとは思わない。だって、あなたに『おかあさん』て呼んでもらえたら、私はあなたを頼りにしてしまうもの。でもそれは傍から見れば、苦労でしかないのよ」
 正子の悲痛な表情を、どう捉えたら良いのか。本音と建前が葛藤しているようにも見える。
けれど母親の立場を例に出して、ハルミの申し出を辞退しようとしている正子の姿は建前などではなく、本当にハルミを、ひいてはハルミの母親の心情を想ってのことのようにしか思えなかった。
 しばらくの間、沈黙がつづいた。その沈黙の最中で、正子はハルミの気持ちが揺らいでいると感じたのかもしれない。
「じゃあせめてさっきの申し出は、あなたが直接勝二のいまの状態を確かめた後で、それでももし、『おかあさん』と呼んでくれる気持ちが残っているなら、私も喜んで受け入れようと思う」
 正子は気付いていないかもしれない。玄関でハルミを迎え入れた時と今とでは、正子の顔の血色が明らかに違う。顔は紅潮し、話をすればするほど、失いかけていた母親としての生気が蘇ってきているのが見て取れた。それだけでもアタシがここに来た理由になるのに。
 正子に促されるまま、ハルミは勝二のいる2階へと足を運んだ。幾分急な階段は、慣れているはずの正子でも手すりを使うほどの段差があり、初めて上るハルミにとっては自宅から走ってきた疲労も加わり、1段1段を上るのに苦労した。

第7章へつづく。


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第4章へ



 翌日、宇佐美は仕事の合間に(といっても昼休憩の時間になっていたが)、石川さゆりに許可を取って、地元の新聞記者である北島吾郎氏に連絡をとることにした。
 今日の午後は坂本ハルミがカウンセリングに来院する日であったので、宇佐美もさゆりも少なからず、何かしらの進展を期待していた。
 ここら一帯の地元の新聞社といったらひとつしかない。宇佐美が自分の素性や職業は明かさずに電話で問い合わせてみると、なんと北島本人が電話口に出た。
宇佐美は細かな事情は伏せたままで、昭和63年に記事にした内容を北島に確認してみたが、さすがに25年近くも経った記事までは覚えていないとの返答だった。しかし会って話をするのは一向に構わないと言ってくれた。宇佐美としては、記事に載せた少年の印象を確認したいだけだったが、もしかしたらこの電話が記者としての嗅覚を刺激してしまったのかもしれない。北島とは30分後に近くの喫茶店で待ち合わせる約束をし、電話を切った。
 すると、電話でのやりとりを聞いていたさゆりが、「一人でだいじょうぶ?」と尋ねてきた。今までであれば「自分も行く!」と言い張っていたところなのに、今回は宇佐美ひとりで送り出してくれるようだった。そしてその上で心配してくれている。さゆりの中で、どういう心境の変化があったのか。宇佐美には見当もつかない。それでもさゆりの言葉はもともとひとりで出向くつもりだった宇佐美にとってありがたいものだった。
「坂本ハルミさんの午後の来院時間は何時でしたっけ?」
「2時よ。変更してもらう?」
 現在の時刻は午後の1時をまわっている。今から30分後に北島と落ち合ったとしても、ハルミのカウンセリングの時間に間に合うかどうかは微妙なところだった。
「いえ、だいじょうぶです。予定通りに始めていてください。ちょっと出て来ます」
「行ってらっしゃい。何か分かるといいね」
 こちらとしては新聞記者から少しでも当時の話を聞き出すことが目的であったが、コトはそう簡単には運ばない。相手は記者なのだ。何かしらの情報を聞き出すまでは帰してはくれないかもしれない。
 宇佐美は気を引き締めると、さゆりの目を見て大きくうなずいた。

 誰でも、何の知識も持たずに相手の懐に飛び込むのは怖い。宇佐美道彦もやはり、小さな新聞社とはいえ相手は取材のプロだ。北島の取材をどう切り返したものか。
 とはいえ、クライエントである坂本ハルミの個人情報をわずかでも漏らすわけにはいかない。
 それならどうするか。宇佐美の勤める病院から新聞社まで、電車を2駅乗り継ぐ間に宇佐美が考えたのは、自分の素性を明かし、敢えて世間の認知度が低い『偽薬師』という職業を公表し、取材を受けるというスタンスで会おうというものだった。
 ただし、病院理事長である島崎には相談するべきだったかもしれない。なんの知識もない新聞記者に、『偽薬師』という職業を面白おかしく記事にされてしまったら、これまで島崎が病院幹部の反対を押しのけて宇佐美を自分の手元に置いている理由そのものが消滅してしまいかねない。
宇佐美は自分が島崎にとって、ひいてはこの病院にとっての、大きな武器になるものと期待されていることを充分に理解していた。
電車を降りた宇佐美は、電柱に貼られた「徒歩で5分」という広告を頼りに、待ち合わせの喫茶店に到着すると、ポケットに入れっ放しにしておいた病院のPHSで時間を確認し、ひとつ呼吸を整えてから店のドアを開けた。
 ドアを開けたすぐ右手で、レジを打っていた女性が「いらっしゃいませ!」と微笑を送りながら次に口を開く前に宇佐美は手で制し「待ち合わせなんです」と言って店内を見回した。
 お昼の時間帯を少し過ぎたとはいえ、店内は満席まではいかないまでも8割程の席は埋まっており、そのほとんどが女性客で占められていた。
 男性がすべて同じ意見を言うとは思わないが、宇佐美としては決して居心地の良いものではない。
 記者の北島に呼び出された段階で、腹を据えて話さなければならないと覚悟をしていた宇佐美としては、拍子抜けするような華やかな雰囲気の喫茶店だった。
 そこに無精髭に丸坊主のむさ苦しい男がひとり、大きなテーブルを占領してイチゴのショートケーキをうまそうに食べている。
 どう考えても、その人物が北島吾郎氏であった。

 北島吾郎は宇佐美が喫茶店に入ってきたのを目ざとく見つけると、椅子から立ち上がり、「宇佐美さん!こっち、こっち」と、人懐こい笑顔で手招きをした。
周りの女性客は背丈が180cmはあろうかというスキンヘッドの大男の、場違いな存在感にギョッとしている。それに加えて、身長だけではなく横幅も広いため、そこにいるだけで周囲に圧倒的な威圧感を与えている。
口元の無精髭に生クリームを付けているのが、なんともまぁ気持ちの悪いこと。当の本人といえば周囲の拒絶反応には意にも介さず、満面の笑みがただただ怖い。
 そして、自ずと女性客の視線はその大男と待ち合わせをしていた宇佐美に向けられた。
「お待ちしている間にケーキを3つも食べてしまいました」
 食べたケーキの個数など、どうでもよかった。そんなことよりも、宇佐美が席に着いた途端に北島は気を利かせて小声で話しかけてきたが、すでに周りからの注目を浴びているため、聞き耳を立てられていることには気付いていないのだろうか?
 宇佐美は店員の運んできた水に口をつけると、「申し訳ないが、場所を替えませんか?」と北島を促した。
「や、それが、先ほどアールグレイを注文したばかりでして…」
「紅茶くらい奢りますよ」
 それでも名残惜しそうな顔をする北島に呆れて、宇佐美は病院へ戻りたくなったが、それでは図書館での苦労が無駄になると思い、グッと堪えて伝票をレジへと持って行った。
「この通りにファミレスがありました。そこへ行きましょう」
 自分もまだお昼を食べていない。大通りから外れた場所にある喫茶店を出ると、ふたりは連れ立って近くのファミレスを目指した。
「あのぅ」
「なんです?」
「またショートケーキを食べてもいいですかね?」
「…勝手に注文してください」
 このスィーツ好きの大男が、本当に山本勝二の情報を持っているのだろうか。宇佐美は不安になってきた。

 ファミリーレストランは午後の2時をまわってもまだまだ混んでいた。そもそも最近のファミレスは何時に来ても混んでいるイメージだ。宇佐見は待合い場所の傍らに立てかけてある用紙に名前と人数を記入すると、一番右側の「禁煙・喫煙・どちらでも」という項目のところで、「どちらでも」という箇所に○を付けようとした瞬間、北島に鉛筆を奪われ、「禁煙」に○を付けられてしまった。
 人を見かけで判断することはできないが、見るからにタバコを吸いそうなこの大男は、どうやらタバコ嫌いらしい。酒は飲むのか、結婚はしているのか、徐々に興味が湧いてきたが今はそれどころではなかった。
クライエントである坂本ハルミとの面談は、もう始まっている時間だった。臨床心理士の石川さゆりを目の前に、今日はどんな話をしているのだろう?
 宇佐見は事前に、今日のカウンセリングの中で山本勝二氏の名前にあえて触れたり、また、その名を誘導させたりするような質問をしないように、さゆりにはお願いをしてあった。
 ただし、ハルミの方からもし『山本勝二』という名前が出てくるのであれば、どんどん情報を聞き出して欲しいとも頼んである。
 さゆりも「まかせといて」とは言ってくれたが、今日のカウンセリングの段階でハルミの口から『山本勝二』の名前が出てくる可能性は低いと踏んでいた。なぜなら、前回のカウンセリングでハルミが思わず口走った『その名前』は、臨床心理士と偽薬師のふたりを試すための、ささやかな賭けであったはずだからだ。
 現に、ハルミはこの数年の間で、石川さゆりとの1対1のカウンセリング内において、脈絡のない文章を並べ立てたり、激しい妄想、幻覚の中で絶望感を訴えたりすることはあっても、今の今まで、明らかに聞いたことのない固有名詞を出してきたことはなかった。
 だからこそ、『その名前』をハルミが口にしたことは、彼女にとって何らかの意図があるように思えてならなかった。
 坂本ハルミが具体的に何を悩んでいるのかは分からない。ましてや、彼女につけられた統合失調症という病名の真偽も定かではない。
 だからこそ宇佐見は『山本勝二』の存在を確認から確証に変えるため、北島吾郎と会っている―――。
15分程経ったところで、禁煙席へと案内された。北島がショートケーキと紅茶を頼んだところで「さぁ、北島さん。そろそろ本題に入りましょうか」と、宇佐見はようやく自分のペースを取り戻していた。
 北島吾郎は喫茶店でケーキを食べている間も、ファミレスでケーキを食べている間も、目の前の男、宇佐美の観察を怠ることはなかった。
 宇佐美から新聞社に電話が来たのは先日のこと。10年以上も前の記事のことで聞きたいことがあるという。しかもその記事の内容をたずねると、昭和63年に北島が書いたごく小さな記事だった。北島は事前に、自分の書いた記事を読み返して見たが、この内容に取り立てて問題となるようなことは何も載っていない。むしろローカル新聞の中でも、取り上げるほどではないという意見もあったほどだ。だからこそ北島は内心驚いていた。この記事を調査するにあたって、裏にはいったい何が隠されているのか。そして「宇佐美道彦」とはいったい何者なのか。
 もしかしたらおれにも運が向いてきたのかもしれない。北島はゆっくりと時間をかけて最後のケーキを食べ終えると、もったいぶった仕草で、もう何年もアイロン掛けをしていない背広の内ポケットから、背広と同じくくたびれた手帳を取り出した。この男に大きな特徴はない。しかし何か只者ではないオーラをまとっているような気がする。北島は宇佐美の素性を調べるだけでも収穫になると踏んでいた。
 宇佐見のペースに流されまいと、北島は切り替えした。
「その前に、名刺交換をさせてくれませんかね?」
黒い手帳に使い慣れたボールペンで『宇佐見、取材、本題』と走り書きしながらも、自分の名刺を取り出す。もちろんこれは社会人としての礼儀であると同時に、相手の素性を知るための手段だった。
 しかし相手は「すみませんが、名刺はまだ注文している最中なので、交換することはできないんです」と、肩をすくめて謝った。
「宇佐見さん、それはないでしょう。自分の職業も明かさずに新聞記者である私からの情報を聞き出すというのはフェアじゃない。何らかの見返りがなければ私からお話しすることはありませんよ」
「もちろん、北島さんへのメリットも考えてお話しするつもりですよ」
 まだ手のうちは見せない。宇佐見は、先日出来上がったばかりの名刺を左の内ポケットに忍ばせたまま、右の内ポケットから新聞記事を取り出した。
 折りたたまれたその用紙を宇佐美が広げると、その当時は小さかった記事が大きく拡大コピーされていた。記事と同じように載っている写真も拡大されていたが、写真の画像が粗く、かろうじて少年が写っているのが分かる程度で、人物の判別に使える代物ではなかった。
「電話でお話した通り、この記事で北島さんが取り上げられた『山本勝二』という人物について、当時のことで何か印象に残っていることがあれば、お伺いしたいんです」
「そうは言われましても、20年以上も前に書いた記事ですからね。印象に残っていることか。うーん…」
「この記事の内容は、大まかに言ってしまえば当時中学の水泳部だった山本少年が、小学生の「助けて」という声を河川敷で聞きつけて、慌てて川に飛び込んでみると、流されていたのはその小学生が大事にしていたクマのぬいぐるみだった―――と、そういうことですよね?」
「そうです。簡単に言えばそういうことになります」
「では、北島さんが取材した時の山本少年の印象はどうでした?」
 宇佐美の問いかけに、唸ったままファミリーレストランの天井を見上げた北島吾郎を見て、これは収穫になるような情報は得られないかもしれない、と半ば諦めていた。
確かに、20年以上前に書いた記事(しかもスクープには程遠い内容である)の印象を聞かれても困るだろう。では何故、宇佐美の電話に快く応じ、今日こうして会う気になったのか。おそらくは取材ネタのひとつでも無いものかと、飛びついてきたというのが実際の本音に違いない。
 それでも苦労して『山本勝二』という名前に辿り着いたからには、藁にもすがる思いで北島の記憶に頼らざるを得なかった。
「そうだなぁ…。正義感の強い少年、という印象はあったかもしれませんね」
 そんなことは少なからずこの記事を読めば、誰でも感じることだ。別段、情報として取り上げるべきことでもない。
「そういえば―――」
 北島が大きな手で、スキンヘッドの額をパンッと叩いた。
「なんです?何か思い出しましたか!」
「ええ、確か…、お腹の傷跡を見せてもらったような」
「傷あと?」
「その傷あとが、へそのすぐ隣にあって、ぱっと見、へそが二つあるように見えて友達によくからかわれるって言っていたのを取材のこぼれ話として記事に載せるかどうか、迷った覚えがあるんだけど…」
 何度も首をひねりながら話す北島の口元についた生クリームを見ると、信憑性に欠けるような気もする。
 しかし、それにしては今までの中では一番、具体性のある内容だった。
 この話が本当なら『山本勝二』に少し近づけたかもしれない。宇佐美は手の平に感じた手汗をおしぼりで拭き取った。

 ファミレスはいつ来ても混んでいる。ようやく宇佐見の注文したサンドイッチが運ばれてきた。サンドイッチとフライドポテトが乗った皿がテーブルに置かれたとたんにかぶりつき、一緒に頼んだドリンクバーから持ってきた野菜ジュースで一気に流し込んだ。
 時間が限られている中でも、まだ北島に聞きたいことはあった。
「その傷跡というのは何が原因でついたものなのか、聞いた覚えはありますか?」
「いや、どうだったかなぁ。聞いたとは思うんだけど、結局のところ傷跡の件に関しては記事に載せなかったから。残念だけど当時の手帳も見当たらないんですよ」
 申し訳なさそうな顔をする北島に「どうして手帳の保管をしておかないんだ」と、宇佐美が注意できる立場でもない。ましてや20年以上も前に使っていた手帳が、今頃になってそれほど重要性を増すとは誰も思わないだろう。宇佐美は少し角度を変えた質問をしてみた。
「この新聞記事に載っている記者の名前は北島さんだけですが、もしかしてこの写真を撮られたのは、別の方ですか?」
 もしも『山本勝二くん』を撮影した人物が別の誰かであったなら、その当時の撮影した印象を聞けるかもしれないと思ったのだ。
「いや、写真を撮ったのも自分です」しかしそれは宇佐美の想像通りの答えだったため、特に落胆するほどでもなかった。これ以上、聞くことはないだろうか?いや。
まだひとつだけ聞いていないことがあった。
 宇佐美は北島に最後の質問をした。その質問はある意味、最も北島からの返答に期待ができない内容といえた。
 しかし―――。
その質問に対する北島の答えを聞いた瞬間、宇佐美の全身には鳥肌が総毛立っていた。

「それは―――、確かですか?」
「ええ。他のことは曖昧でも、この記憶だけは自信があります。宇佐美さんも経験上、そうではないですか?」
 それは宇佐美の質問に対して北島がはじめて自信を持った返答だった。宇佐美は思わず椅子から立ち上がり、自分の財布を開けていた。
「ありがとうございます!これはここの食事代です」
「そんな。お金は割り勘でけっこうです!それより私は新聞記者としてあなたに興味を…」
「ええ。また近いうちに改めてこちらからご連絡さしあげますよ。今日のところは急用ができてしまった」
 北島から得た本日最後の情報は、宇佐美にとって、余りにも衝撃的すぎた。そしてその情報こそが、すべてを結びつけるものだったと言っても過言ではなかった。病院で待つ石川さゆりへ、すぐにでもこの話をしたかった。
 そして宇佐美は、目の前にいるこの新聞記者にも、礼の意味も込めて取材を受けてもいいと思っていた。ただし、今は取材を受けるタイミングではない。
 慌てて立ち上がりかけた北島を制するために、宇佐美は近くを通った女性店員を呼び止め、「こちらにショートケーキを1つ、いや2つ」と注文した。
「必ず今週中には新聞社へご連絡しますから。その時に取材の日取りを決めましょう」
 そう言うと、宇佐美は5千円札を請求伝票の下に挟み、渋々ケーキを待つことになった北島に別れを告げるとファミレスを後にした。
 後ろから「約束ですよ!必ず北島吾郎宛に電話してきてください!」と大きな声が聞こえた。
 結局、宇佐美は名前を名乗っただけで自分の素性は明かさなかったわけだが、宇佐美が醸し出す雰囲気を読み取って取材の対象として見据えた北島の嗅覚は、さすがだと言えた。
のちに、北島が宇佐美のもとに現れることになるとは、この時は知る由もなかった。


 行きは電車でここまで来たが、病院へ戻るのに一刻も早く帰りたかった宇佐美は、ファミレスを出た先でタクシーをつかまえようと、手を挙げかけたが、先ほど北島に5千円渡したことを思い出し、仕方なくまた電車で帰ることにした。
 冬用のジャケットを脱ぎ、仕事着に着替えると、急いで相談室へと向かった宇佐美だったが、案の定、クライエントの坂本ハルミは帰宅してしまっていた。
「ちょっと遅いじゃない!」
遅くなってすみませんでした―――、と謝罪する間もなく、ドアを開けたとたんに責められた。
「これでも4時までは病院に足止めしておいたのよ。それなのに電話の1本もよこさないんだから!」
 宇佐美がさゆりと接する時に最近感じるようになったのは、本気で怒っているのかどうかが、分かるようになったことだった。だからこそ、大事な話の最中に連絡をしたら悪いと、宇佐美を気遣って電話をして来なかったということにも、今、本気で怒っているわけではないことも、宇佐美には分かっていた。
きっと遅くなったことを怒るよりも先に新聞記者から得たであろう収穫を聞きたいに違いない。「それで。何がわかったの?」
「じつは、いくつか『山本勝二くん』について新たに分かったことがあります」
「やっぱり!入ってきた時にそんな顔をしてたもの!」話をつづけて―――。さゆりの顔はそう言っていた。
「新聞記者である北島吾郎氏によると、どうやら勝二くんにはヘソの近くに傷跡があったというんですよ」
「傷跡?どんな傷なの?」
「それがよくわからないらしいんですが、その傷跡のおかげでヘソが2つあるようだと、友達によくからかわれたと言っていたようです」
「ということは、それ程大きなモノじゃないってことね?」
「そういうことです。それともうひとつ。気になることがあったんで確認することにしました」
 ふたりとも坂本ハルミが帰った後に予定を入れていないことは分かっていたので、ゆっくり相談室で話すことに問題はなかった。日が延びたとはいえ、2月の夕日が沈むのは早い。しかし薄暗くなった室内で、ふたりは電気をつけることも忘れ、話をつづけた。
「もしかして、勝二くんを撮影した人物が、記者の北島氏意外にいたかもしれないってことじゃない?」
「さすが石川さん!よく気づきましたね」宇佐美はさゆりの洞察力に感心してみせた。
「それくらい聞いていればわかるわよ。それで、どうだったの?」
「残念ながら、空振りでした。写真も北島氏が撮影したものです。ただ…、」
「ただ?」
「最後の質問で、北島氏は思いも寄らない名前を口にしたんです。ぼくの最後の質問はこうでした。ぬいぐるみを誤って川に流してしまった小学生の名前を覚えてはいないか?」
「うん」
「それならよく覚えていると言いました。自分の初恋の女性と同じ名前を忘れるはずはない、彼はそう言いました。その小学生の名前は―――」
 さゆりは自分の二の腕に鳥肌が立っていることに気づいた。
「まさか…、もしかして坂本ハルミ―――さん?」
 宇佐美は大きく頷いた。


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第6章へつづく。



第3章へ



 しかし―――。
 無情にもハルミを受診するために診察室で控えていた看護師と医師によって、ふたりは引き離されてしまった。
 ハルミは診察室のドアが閉まる直前に、「診察が終わったら話したいことがあるから待ってて」と勝二に振り返ると、笑顔で応えてくれた。
 診察室で医師から問診と診察を受けた後に、頭部と胸部のレントゲンを撮り、尿と血液を採取してからもう一度、診察室に入るように呼ばれた。
 待合室に勝二も正子の姿も見えないことに少し不安を感じたものの、これ以上迷惑をかけるわけにはいかず、仕方なく看護師に促されるまま診察室へと戻った。
 中に入ると医師が「お疲れさまでした」と、話しかけてきたが、ハルミは目の前にある2枚のレントゲン写真が気になって、先ほど問診を受けた医師とは別の医師が座っていたことに気づかないほど、動転していた。
医師は自分が耳鼻科の担当医であることをハルミに告げると、
「じつはですね、坂本さん。前回の交通事故の時に撮影した頭部のレントゲン写真と先ほど撮影したレントゲン写真に相違点が発見されたため、ご説明させていただくことにしました。ご家族の方には担当の者から連絡したんですが、電話にお出になられなかったとのことで―――、本来であればご家族を含めて病状のご説明をしたいんですが…」
 ハルミは『病状』という言葉に胸騒ぎを感じたが、顔には出さず、「家族はみんな、入院や通院で大変なものですから」とだけ答えた。
「そうでしたか。それはまた…、大変なことですね」
 いつの間にか、看護師の他に、スーツを着た女性が同席している。ハルミがその女性に顔を向けると、「病院の相談業務をしている者です」と顔写真つきの名刺とともに自己紹介された。職種が記載される欄にはMSWとある。
「大丈夫です」
 家族のことで「大丈夫」という言葉が自然に出るようになったのは、今までのハルミにとっては大きな進歩といえた。「それより、レントゲンの結果を教えてください」
「わかりました。その前にお話しておかなければならないことが1点あります。それは今回見つかったものが交通事故とは直接、関係のない可能性が高いということです。坂本さん。ここ数ヶ月の間で、めまいや立ちくらみ、耳鳴りや吐き気などを感じたことはありませんか?あるいは生活をされていた中で、発作的に意識を失ったことがありますか?」
 どうやら医師からの質問は、交通事故以前のハルミに対して確認を取りたいといった内容のようだった。
 そして医師の質問に対し、ハルミには思い当たる節があった。

それは昨年のクリスマスイブのこと。時折、忘れかけた頃に頭の中で耳鳴りがすることがあったが、その日は車の運転中に突然、耳鳴りと同時に意識が薄れていくのを感じたのだ。
 そして、薄れゆく意識の中で、判断力を失いかけたハルミを救ったのが、勝二からの着信メールだった。あの時、勝二からのメールがなければ、今の自分はいなかったかもしれない。
 そうだ。あの時のお礼だってまだ言ってないのに。
 ハルミは我に返ると医師に向かって頷いてみせた。
「昨年末に一度だけ、運転中に意識を失いかけたことがあります。耳鳴りはもっと前から」
 医師も納得したように頷くと、1枚の画像で説明をはじめた。そこには人の耳の構造が描かれており、ひとつひとつの名前も補足してあるようだった。
「脳外科医からの紹介を受けて耳鼻科医のわたしがご説明することになったんですが、わかりやすくご説明しますと、耳の中の機能に『内耳』というものがあるんですが、内耳は主に人の平衡感覚や聴覚をつかさどっている器官です」
 医師の示す画像の中に『内耳』とあった。
「その内部にはリンパ液と呼ばれる液体が入っているんですが、リンパ液の流れを感覚細胞がとらえ、脳に伝達することで人は平衡感覚を保つことができるのです。しかし、稀にそのリンパ液が増加し、内耳としての機能を奪ってしまうことがあるんです。これを内リンパ水腫と呼ぶんですが、原因は未だ不明とされています」
「それで、わたしの病名というのは?」
「まだこれからの経過を見るために定期的に受診していただく必要がありますが、メニエール症候群とみて間違いないでしょう」
 メニエール病(メニエール症候群)はストレス、不眠、疲労などが原因となり、今のところ根本的な治療法は確立されていない。ただし、リンパ圧を下げる利尿剤の処方が有効とされ、また、血流改善剤にも効果が期待できるとのことだった。
 もちろん、これ以上悪化しなければという、大前提のもとの話であるということも、説明に付け加えられた。
 ハルミは医師の説明を聞いて、腑に落ちた。そして今すぐ命の危険にさらされる病気でないことに、安心した。
以前は、病気になることを夢見ていたハルミだったが、今では山本勝二という存在が自分の夢を打ち砕いてくれていた。
(大丈夫。これならアタシもいっしょに闘える!)
 説明を聞き終えたハルミは自分のこと以上に、待合室の中に姿の見えなかった勝二が心配になった。
「あの、さっきまでアタシの車椅子を押してくれていた人は何処に…」
 すると、今まで黙っていたMSWの女性が目を見開きながら教えてくれた。
「もしかして彼があなたの身内の人?」
「え?あ、ハイ」
「あの男性ならあなたが診察室に入って間もなく、頭を押さえて倒れてしまったのよ。きっと長い間、頭痛を我慢していたんでしょうね。でも、看護師が駆けつける前にすぐ立ち上がって自分で主治医の先生のところへ行くからいいって。スタッフも心配したんだけれど、その後お母様がお見えになって、あなたの使っていた車椅子に乗せて付き添われて行ったのよ」
 その後。勝二は主治医の診察を受け、検査入院を勧められたが、拒否したことで頭痛薬のみを処方され、通院することを条件に自宅に戻ったことが正子から病院のMSWを通してハルミへと伝えられた。
その後、ハルミと勝二の病院先のやり取りから音信不通の期間が実に8年間も続いた。

 偽薬師である宇佐美道彦は先ず、クライエントである坂本ハルミの口から「山本勝二」という名前が出てきたことに焦点を当て、その人物が実在する前提で調査をすることにした。
 坂本ハルミが危険を冒してまで病名を偽り、統合失調症の仮面を被るのには、大きな理由があるはずだ。その理由を突き止めるためにも「山本勝二」を早急に見つけ出したかった。
 しかし宇佐美としては99%の確証がある半面で、1%の確率で坂本ハルミが解離性症候群からなる多重人格者、つまり「山本勝二」なる人物は、坂本ハルミの中にある別の人格なのではないかという疑問も、拭いきれずにいた。
 そしてその1%の確率を払拭するまでは、同僚である臨床心理士の石川さゆりにもこのことを伝えるべきではないと、判断したのだ。
 では、いま自分ができる調査とは何か。宇佐美は考えた挙句、図書館に行き、過去10年の新聞を読み漁ることにした。今の時代、インターネットでも読むことはできるが、それでは小さな記事を見落としてしまう可能性がある。
たとえどんなに時間を浪費しようとも、自分にできることがあると分かった以上、宇佐美は手を抜くことなどできなかった。宇佐美は仕事が終わるとすぐに最寄りの図書館へ向かい、閉館時間ギリギリまで新聞の記事ひとつひとつに目を通した。そしてそれがクライエントを救う唯一の方法と信じた。
 そんな宇佐美の怪しい行動(仕事を終えると片付けもそこそこに病院を出て行く姿)に、石川さゆりは呼び止めひとりで何をしようとしているのかを聞き出したい所をグッと堪え、しばらくの間、様子を窺っていた。
 その日も宇佐美は仕事を終え、同僚からの食事の誘いにも付き合わず、いつものように図書館へ向かい、いつもの指定席に座り新聞をひろげているとしばらくして意外な人物が宇佐見の眼前に現れた。
「あれっ?どうしてこんな場所にいるの?」
 その声の主は、藍色のロングワンピースにアジアンテイストのストールを巻いた石川さゆりだった。
「わたしはちょっとこの図書館で調べ物があってね。図書館の閉館時間が何時なのかわからないから仕事が終わってスグ来たんだけどね、うん。そうそう」
 宇佐美が聞いてもいないのに話し出すさゆりの言い訳は、どう考えても「言い訳」そのものだった。
 元来せっかちなさゆりは、1週間もすると宇佐美の仕事後の不可解な行動が気になり、後をつけて来たのだ。
「で?宇佐美くんは何を調べに来たの?」
 そのたった一言を(おそらく1週間以上も前から)聞きたくて、さゆりは宇佐美の後をつけてきた。本当なら職場で聞くのが一番手っ取り早いはずなのに、わざわざ図書館まで来て確認をしようとしている。
 そこにはどんな意図があるのだろうか。いや、そもそも意図などというものは無いのかもしれない。その証拠にさゆりは、暖房が効いているとはいえ、旧正月が明けたばかりのこの時期に、ワンピースの袖を腕まくりして宇佐美の正面の椅子に腰掛けた。
 どうやら、何を調べるかはわからないけどわたしも手伝うわよ、という意思表示らしい。
 そしてこの一連の行動、つまり自然とその場に自分を溶け込ませてしまう所作は、臨床心理士である石川さゆりの真骨頂のような気がした。
宇佐美にはここまで自然に相手の懐へ入り込む自信はない。少しだけさゆりを見直した。
「どうしたの?もしかして、わたしに見惚れちゃった?」
「違いますよ。なんですか、その前向きな発言は」
「いいから、いいから」
 この会話の中で、すでにさゆりのペースに巻き込まれていることに、まだ宇佐美は気付いていない。
 ふたりのまわりに客の姿がないおかげで、多少大きな声を出しても職員に咎められる心配はなさそうだった。
 仕方なく宇佐美は「山本勝二」が存在している確証を得るため、過去の新聞を読み返していることをさゆりに打ち明けた。
 するとさゆりは、「あきれた…!」と言って席を立ち、宇佐見が口を挟む間もあたえず、小走りで図書館を出て行ってしまった。
それから15分も経っただろうか。
 さゆりはふたたび宇佐美のもとへ大きなビニール袋を2つ持って現れた。
「差し入れよ」
どうやら近くのコンビニへ行って夕食の買出しをしてきたらしい。袋の中を覗くとホットの缶コーヒーと、温められた弁当が入っている。
「さ、腹ごしらえをしましょう。わたしの好みで勝手にカツ丼と親子丼にしちゃったけど」
 さゆりは袋からそれらを取り出すと、さっさとテーブルの上に並べはじめた。
「それは…、別にどちらでも構わないんですけど。そもそも図書館で食事って、してもいいんですか?」
 宇佐美はとても当たり前の質問をした。
そして当たり前の質問をしている自分が、少しだけ悔しかった。なぜなら目の前にいる臨床心理士は宇佐美の質問を待ってましたとばかりに「ニヤリ」と笑ってみせた。やっぱり悔しい。
 するとさゆりは「ここだけの話だからね」と前置きした後で「受付にいる女の子、いるでしょ?実はあの子、わたしの元クライエントなの。だから仕事で調べ物する前にご飯食べていい?って聞いたらふたつ返事でOKがもらえたってわけ」
 そんな…。そんな理由で元クライエントにつけ入るようなことをして―――。きっと、さゆりにお願いされてしまったらイヤでも断れないような関係が築かれてしまっているんだろう。
 その彼女に自分のほうから謝りに行こうと、宇佐美が後ろを振り返ると、その子は宇佐美の視線に気付くとニッコリ笑って手を振り返した。
 その手にはなぜか、割り箸が握られている。かたわらには湯気の立った弁当があった。
 さゆりは唖然とする宇佐美を見ながら、
「覚えておいて。わたしの仕事はクライエントと何でも共有することから始まるの」と、得意気に言ってのけた。
 共有って、こんなこともアリなのか…?
そもそも石川さんて、こんな人だったっけ?
「さ、カツ丼と親子丼、どっちがいい?ちゃっちゃと食べて今夜のうちに調べ終えちゃいましょう!」
『カシュッ』
缶コーヒーを開ける小気味良い音が、広い図書館に響いた。

 図書館の中は時々、受付から聞こえてくる『カタカタ』と鳴るパソコンのキーを叩く音と、掃除がいき届いていないんじゃないかと疑いたくなるような、エアコン(強風)から出てくる風の音以外は静まり返っており、ふたりとも黙って新聞の隅から隅まで読み耽り、「山本勝二」の名前を探した。
 それは見た目以上に労力の掛かる作業だった。そもそもこの新聞の中に「山本勝二」という名前が載っている保証はない。それにもし載っていたとしても、同姓同名の別人であることも充分考えられるのだ。
 じつを言うと宇佐美は、新聞に目を通している途中でインターネットであれば過去10年分の新聞を対象に、「山本勝二」という名前を検索すればもっと探しやすいのでは、という考えに至っていた。
 しかし、必死になって新聞に目を通してくれているさゆりの姿を見ると、今更このタイミングでは言い出せなくなってしまったのだ。テーブルの上には読み終えた新聞が日付の順にきれいに折り重なっている。
(今夜は閉館時間までこのまま新聞を読んで、明日の夜はインターネットでの検索を試してみよう)
 このいつ終わるとも知れない途方もない調査に、仕事で疲れているさゆりを巻き込むことに後ろめたさを感じた。さゆりとしても調査を請け負ってしまった手前、この地道な作業に弱音も吐きづらいに違いない。そして同時に、相手を気遣うような自分の心境に、自分自身がいちばん驚いていた。
 すると間もなく、さゆりは読んでいた新聞から目を上げると、「ちょっとこの記事見て。まじで笑っちゃうから!」と話しかけてきた。
 今や宇佐美は、新聞に集中する余裕などかった。
 『偽薬師』という、世間に認知されていない職業を定着させるために、自分がするべきことは何なのか。精神科医や臨床心理士である石川さゆりと仕事をするようになって、仕事は仕事と割り切ってきたのに、今日は仕事の外で、こうしていっしょに調べ物を手伝ってもらっている。
 偽薬師・宇佐美道彦にとって、世間に認知されるために戦うことは、孤独と戦うことでもあった。自分以外はみんな敵、という考え方で臨まなければ心が折れてしまう気がした。
 宇佐美は、職業柄と言っては誤解を招きかねないが、他人の嘘には敏感なつもりだ。
だからもしさゆりの気遣いが上辺だけの優しさだったなら、簡単に突っぱねてしまっただろう。
 しかしおそらくさゆりは優しくしているつもりなど、ない。ましてや臨床心理士としての役目を果たそうとしているだけでもない、ような気がする。
「ほら、ここの記事見てよ、ほんとに面白いんだから!」

 館内の時計は間もなく9時になろうとしていた。
閉館まであと僅かだというのに、さゆりの元クライエントで図書館の受付をしている八代亜子は、先ほどから自分のスマートフォンを取り出して動画を見始めている。
今までは宇佐美がひとりで図書館が閉館するギリギリまで粘っていたところを、8時59分には図書館の空調を停められ、受付にいる亜子に無言の威圧感で追い出されていたものだが、昨日までの肩身の狭さは石川さゆりと一緒にいるおかげで、いともたやすく払拭されていた。
 さゆりとしては、どうしても見つけた記事を読ませたいらしく、宇佐美が読んでいた新聞記事の上に自分の読んでいる新聞を乗せ、「ほら、ここ。読んでみて!」としきりに調査の邪魔をしようとした。
 せっかくたった今、仕事外での調べ物に協力してくれるさゆりに感謝していたところを、調査に飽きたのか、それともただ単に、ふざけたいだけなのか、宇佐美は自分の気持ちを台無しにされた気分で隣の席に座ってきたさゆりを睨んだ。
 しかし、宇佐美が睨んだ視線の先に見えたさゆりの顔は、口調とは裏腹に、仕事をしている時の宇佐美のよく知った表情だった。「ほら、ここのところに『山本勝二』って名前が載っているでしょ?」
 さゆりの指差す先の記事をたどると、確かに宇佐美の目に『山本勝二』という名前が飛び込んできた。「これって…!」
 宇佐美は驚きとも感心ともつかない顔で、もう一度見ると、今度は得意げに目を見開いて鼻の穴を膨らませているさゆりの顔が、触れそうなほど近い距離にあった。
 宇佐美は慌ててさゆりから離れると、改めてその記事に目を通した。するとすぐに宇佐美は記事の内容に違和感を覚えた。新聞の発効日を確認する。
「ちょっと、石川さん!ボクは過去10年間の新聞を遡って調べるって言いましたよね?」
「あれ?そうだったっけ?でも実際この名前を見つけたのは確かでしょ!」
「それは、そうなんですけど…」
 新聞記事のタイトルはこうだった。『お手柄中学生!山本勝二くん』
 新聞の発行された年は、昭和6X年8月24日。まさか、中学校時代の『山本勝二』を発見することになるとは思いもしなかった。
 さゆりに渡された新聞の記事をよく読むと、『お手柄中学生!』ではなく『お手柄中学生?山本勝二くん』という疑問形のタイトルになっていたことが目を惹いた。

 内容はこうだった。山本勝二くん(14才)が放課後の部活を終え、帰る途中に通る河川敷の下から「助けて!」という声を聞いた。はじめは風の音かな?と思ったが、すぐにまた女の子の声で「助けて!」と聞こえてきたのでこれはもしかしたら誰かが誤って川に落ちたのかもしれないと、勝二くんは堤防を駆け降りた。
 するとそこには小学校低学年と思われる女の子がふたり、黄色い反射カバーのついたランドセルを右に左に揺らしながら勝二くんの駆け降りたところへ走ってきて、また「助けて!」という。
 ふたりは興奮した顔で「落ちたの!」「流されちゃったの!」と、涙声で流れる川の方を指さす。
その川は雨で水かさが増しているわけではなかったが、深いところでは水深も数メートルはあり、川幅も優に10メートルは越えているため、見た目からして小学生が泳げるような優しい流れではなかった。
 夏場は区間を設けて、無料で地元の交流の場としてバーベキューをする客で賑わっていたが、今は夏場も過ぎ、閑散としていた。確かゴミの持ち帰りのことで、一時期問題になったことがあったのだと母親から聞かされた覚えがある。
 いや、今はそれどころじゃない。勝二くんは女の子たちに手を引かれて川下を走った。
「あっち、あっち!」「あ、いま見えた!」
 後から考えれば名前を呼ばないことを疑うべきだった。けれどその時は勝二くんも必死だった。それ以上にふたりの小学生の必死な顔に、勝二くんは突き動かされた。
「ちょっと待って!」勝二くんはカバンをそこらに放り投げると、着ていた物を脱ぎ、上半身は裸で下は体操着という格好になると(上下とも体操着で下校途中だった)、浅瀬でクツを脱いだものだから河原の砂利に心の中で悲鳴を上げながらも、その身を川に投じた。
 勝二くんは泳ぎには自信があった。なぜなら彼は水泳部だった。部活帰りで疲れているとはいえ、水の中は自由だった。それより何より、中学生の勝二くんが一番に心配したのは泳いでいる最中に体操着のズボンが脱げそうなことだった。
 ここ数日、雨も降らず穏やかな川面であったことが幸いして勝二くんは女の子の期待に応えることができた。
 後になって勝二くんは記者に対してその時の感想を述べている。
「もしも水の中でパニックになって暴れたり抵抗されていたら助けられなかったと思うし、助けに行ったボク自身もいっしょに溺れていたかもしれません。でもその心配はありませんでした」
 その小さな記事に載っている小さな写真に写っていたのは、はにかんだ中学2年生の男の子と、たっぷりその身に水分を浸み込ませたクマのぬいぐるみだった。

 たしかに。人命救助であれば警察から感謝状を受け取るくらいの活躍になるところだったが、記事を読み返す限り中学2年生の勝二くんが川で助け上げたのは、ぬいぐるみのクマ1匹だけのようだ。それでも小学生の女の子2人組からは感謝されたことだろう。
しかし地元のローカル新聞とはいえ、さすがに後日談までは掲載されてはいなかった。
「昭和6X年に14才ということはつまり、現在の山本勝二さんの年齢は37歳か38歳という計算になりますね」
「そしてクライエントである坂本ハルミさんの今の年齢が32歳ってことだから、ふたりの年齢差は5歳から6歳ってところね」
 5、6歳の年齢差であれば、知り合うきっかけも多く、恋愛に発展してもおかしくはない。この新聞に載っている『山本勝二』さんが、宇佐美とさゆりの追いかけている山本勝二さんではなく、同姓同名の別人であるという可能性も捨てきれないところではあったが、クライエントであるハルミの住所からほど近い地域のローカル新聞にその名前があったという事実に、ふたりは興奮を隠し切れなかった。
 何よりも調査の収穫となったのは、この記事の最後に記者の名前が載っていることだった。少なくともこの記者は中学生の『山本勝二くん』にインタビューをしているはずだ。
 この新聞記者に確認がとれれば、もしかしたら彼の現住所を特定できるかもしれない。
「ほんの少しだけ、光が見えたわね」
「ええ。これも石川さゆりさんのおかげです。ぼくひとりだったら、いまだに彼の名前を見つけることはできなかったと思いますから」
「そんなことはいいんだけど。山本勝二くんを探し出すための手掛かりは、ここに載っている新聞記者にかかっている」
 宇佐美が記者の名前を確認すると、『北島吾郎』とあった。
「そうですね。先ずはこの新聞社に問い合わせてみましょう」
 今夜は夜も遅いということで、明朝、新聞社に問い合わせてみることになった。
「じゃあ、わたし亜子ちゃんを家まで送っていくから」
「はい。今夜はいろいろとお世話になりました」
 宇佐美は、石川さゆりと図書館の受付でスマートフォンの操作に夢中になっていた八代亜子に改めて礼を言うと、亜子は腕組みしたまま、何故かムスッとした表情で宇佐美を見返してきた。
 時計は間もなく夜の11時になろうとしていた。宇佐美は亜子の表情に首をかしげながら、遅くまで悪いことをしたなと反省しつつ、背中に突き刺さる視線を感じながら図書館を後にした。

「ウサミミとかって人!さゆりさんがせっかくオシャレな服を着て来たのに、ぜんぜん気付いていませんでしたよ」
 いつも図書館の受付に座っている八代亜子は、立ち上がると長身でスタイルが良く、顔立ちも整っているため街中で声を掛けられることが多かったが、夜の11時という時間帯で節電中の街灯の下では、さすがに目立つこともなかった。
 加えて、石川さゆりとは顔の造りが似ているため、よく一緒に歩いていると姉妹に間違われたりした。
「ちょっと、やめてよ!オシャレとか、そんなんじゃないんだから」
 普段、仕事に行く時に着て行く服装と、今夜のファッションが違うことは、付き合いの長い亜子にはすぐに勘付かれていた。
「そうですかぁ?図書館に颯爽と登場して一緒に調べ物をしたところまでは良かったのに、その帰りはなぜか女ふたりで帰宅だなんて、マッタク…」
 べつに何かを期待していたわけではない。ただ、宇佐美は仕事一筋なのだ。『偽薬師』という世間に認知されていない職業柄、自分がこの職業を広めなければ、という重圧といつも闘っている。そしてミスは許されない。今回のクライエントである坂本ハルミさんのケースは、是が非でも自分が結果を出さなければならない。そう思いつめているフシが宇佐美にはあった。
 気持ちはよくわかる。だけど…。
「ちょっと顔がシュッとしてるからって、あんな女心のわからない男は放っておけばいいんですよっ」
 帰り道は思った以上に寒く、途中でコンビニに寄っておでんと缶チューハイを買って亜子のアパートへ戻ることにした。さゆりは仕事で遅くなると、よく亜子のアパートに泊めてもらうことがあるため、いつ出向いても心配がないように、亜子の部屋にはさゆり用のお泊りセットが常備されていた。
 口は悪くても、亜子が男の人を褒めることは滅多にないので、さゆりは思わず聞き返した。
「もしかして、亜子のタイプ?」
「何を言ってるんすか!あんな中途半端なイケメンは好みじゃないですよ。あんなウサミミ、さゆりさんくらいが釣り合います!」
 褒めているのか、けなしているのか、ふざけているのかわからない亜子の言葉に、さゆりは思わず吹き出した。
「亜子、知ってる?完璧なイケメンよりも中途半端なイケメンの方がね、安心感があってモテるって話だよ」
「へぇへぇ」
「コラ!鼻をほじりながら聞くな!」
 パジャマに着替えたふたりは今夜もまた、くだらない話にゲラゲラ笑いながらいつの間にか眠りに落ちた。


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第5章につづく。




第2章へ



 夢を、見ていた。
 勝二と結婚し子供が生まれ、毎日が幸せに満ち溢れている。ずっとわたしはこんな家庭をつくりたかったんだ。付き合うはずのなかったふたりが今、我が子を抱きながら楽しそうに笑いあっている。それが夢であることは分かっているのにハルミは幸せだった―――。
 しかしハルミが目を覚ました時に傍らにいたのは、勝二でもハルミの家族でもなく、見ず知らずのおばさんだった。
「あわわわわわ…」
 おばさんは声にならない声を発すると、頭がボーっとしているハルミを横にその場を飛び出して行った。
(えーと、さっきの人は誰?ここは…どこなんだろう?)
 ハルミが最後に記憶していることは、勝二の車で海に飛び込んだことだった。そこから先は覚えていない。覚えていないけど、暖かいベッドの中で目が覚めたということは、勝二がハルミを助けてくれたのだ。その勝二はいったいどこに…?
 ハルミが室内を見まわすと、そこは見慣れない風景ながら、病室だということは察しがついた。隣と目の前のベッドはカ―テンで仕切られているが、誰かが寝ている気配は感じない。
 壁に掛けられた時計を見ると12時を指している。窓から差し込んでくる太陽光が、昼の12時だということを教えてくれた。
ここは病院だ、という事実よりも先に、個室ではなく多床室に寝かされていたことにハルミは安堵した。集中治療室という選択肢からは外れたようだ。
 少しだけ冷静になれたハルミは自分の身体の状態を確かめた。
 恐る恐る自分の頭に手を触れると、1箇所だけ「ズキン!」と痛くなる場所があった。いわゆる頭頂部、車の中で頭を打ち付けたのかもしれない。
 顔はどうだろう。目は見えるし耳も聞こえるようだ。「あ!あ!あ!」声も出る。おでこに包帯が巻かれているので少なからず傷はあるのかもしれない。しかし、何よりも痛いのは左肩だった。痛い、という感覚とは少し違うか。何しろ包帯とたぶんテーピングのようなもので、左肩が動かないようにガッチリ抑えられているようだ。だからこの左肩はハルミが少しでも動かそうと無理をしたら激痛が走るんだろうな、と想像させる手当ての仕方だった。
「早く!はやく看護婦さんっ!」
 ハルミが尿意をもよおしたような気がして、病室の出入り口にあるトイレのようなドアへ行こうと立ち上がろうとしたとき、右腕に挿してある点滴の管以外にも自分の股の中にも管が入っていることに気づき、この管を自分で外してしまおうかナースコールのボタンを押そうか、考えているところで、先ほどハルミの顔を見るなり病室を出て行ったおばさんが看護師を連れて戻って来た。

 坂本ハルミが意識を取り戻し、昨日集中治療室から4人部屋の病室へ移ることを知った勝二は、ようやく胸をなでおろして事故以来辞めていたタバコを吸いに松葉杖を使いながら病院の正面玄関脇にある喫煙場所へと向かった。病衣の上に厚手のパーカーを羽織ってポケットにはホッカイロが2つと吸い慣れたタバコが入っている。
 あのクリスマスの夜から5日が経っていた。自動ドアを出てすぐ足を投げ出すようにベンチへ腰かけて、タバコに火を点ける。北風に3度邪魔されたが4度目でようやく火を点けて肺にめいっぱい煙を吸い込む。タバコの先が朱色に染まるのを見ながら、寒さに肩をすぼめる。
うまい。うまいが、この1本が生涯最後のタバコと決めた。勝二にとって今日ここで吸うタバコは、ひとつの儀式のようなものだった―――。
 5日経った今でも、あの夜に体験した恐怖を思い出して身体が勝手に震える。たとえベッドで横になったとしても、恐怖と心配で寝付くことなどできない。ほんの数分の間ウトウトしたとしても、また同じ恐怖を繰り返す。夢の中で大型トラックに海へと突き落とされた衝撃の後に感じた、ジェットコースターから急降下する時の独特の浮遊感が蘇る。そして夢の中ではどう足掻(あが)いても自分が助かることができなかった。
 整形外科医に夢の話をしたら心療内科を紹介され、もう一度出来る限り細かく、自分がした体験を話すように言われた。
 言われるままに勝二は、ハルミと自分の車で海沿いを走りはじめたところから医師に話し始めた。
「トラックがぶつかってきたのは分かったんです。運転手の顔もはっきり覚えてます。運転席の男が居眠りしていたのでオレは慌ててハンドルを左に切りました。そうです、助手席側がガードレールに当たる覚悟で海側に切りました」
 本当にあれで良かったのか?勝二は自問自答する前にすでに自責の念に押しつぶされそうになっていた。
助手席に座っていたのは坂本ハルミなのだ。ガードレールに車がぶつかれば、ハルミが無事で済む保証がないことくらい、判断できたのではないか。それでも反射的に自己防衛反応が働き、ハンドルを海の広がる助手席側に切ってしまった。
 大型トラックは、フロントガラスを粉砕しながら勝二の運転席側の後輪にぶつかり、乗車しているふたりに大きな衝撃とパニックをあたえた。
 前進する車の後輪部分に対向車がぶつかってきた場合、走っている車は一体どうなるのか。
前に進もうとする車に反して、対向車の追突によるブレーキング作用は、重心が失われたことで回転を引き起こす。
今回の場合、勝二の運転する車の(右)後輪部分に対向車がぶつかったため、本来、中心部にあるはずの車体の重心が、強制的に前輪部分へと移動し、トラックにぶつけられた衝撃と、勝二が事故を回避しようとスピードを上げたことが結果的に遠心力を加えたことになり、若いふたりを乗せた車の回転は前輪が軸の役目を果たし、さらに速さを増してしまったのだった。
 ハンドルの操作を失った車は急激な速さで右回転しながら暗い海へと投げ出された。
 これは後になって聞いた話だが、海へと投げ出された車が、曲がりなりにもフロント部分から着水できたのには奇跡ともいうべき理由があったという。
 それは勝二たちが事故に遭う3日前、同じ場所で起きた交通事故に起因していた。
 その事故は人身ではなく自損事故として扱われたケースで、やはり居眠り運転をしていた車が右にカーブしている道路を曲がりきれずにガードレールにぶつかったというものだった。幸いにも事故を起こした車はあまりスピードが出ていなかったこともあり、ガードレールがぐにゃりと曲がっただけで乗車していた者は大事には至らなかったのだという。
 つまり、勝二とハルミを乗せた車は恐ろしいスピードで回転をしながら、3日前の事故で破損したガードレールに突っ込んで行ったのだ。
回転しながら道路を滑る車は一度、後部から突っ込んだことでその勢いを殺しながらも、角度の付いた滑走路のようなガードレールに右のタイヤの前輪部分が乗ったことで新たな反動がつき、フロント部分から着水した。
エアバックが開いた音は、車が海に着水した時の衝撃音で聞こえなかった。
 あの時、車内でタバコを吸っていた勝二がこもってしまったタバコの煙を車外に出そうと、運転席側の窓ガラスを全開に下ろし、それにならってハルミも助手席側の窓を全開に下ろしていたことが、ふたりの命を救った。
 暗い海の中に放り出された車はまだ、ライトが点いていた。しかも、着水した衝撃で車内ライトがすべて点灯するという奇跡にも恵まれた。勝二は足元に流れ込む海水に臆することなく、すぐに自分とハルミのシートベルトに手を伸ばした。車が落ちた場所から目と鼻の先に大きな岩が見えた。そこまで辿り着ければ助かるという想いが勝二を奮い立たせた。体中が痛むがどこを怪我しているかを確認する余裕などない。ハルミが恐怖に強張った表情で勝二の左腕をつかんだ。勝二自身も同じ顔でハルミを見ていたに違いない。
 水圧でドアが開かなくなるという知識は持っていた。
「窓!窓から!」勝二はハルミを助手席側へと押しやった。
 車が海に沈んでいくと同時に、車内へと浸水する海水は胸元へと届きそうな位置まで迫っていた。
 ふたりは車内越しに見る海と満天の星空の境界線に必死で手を伸ばし、なんとか車外へ脱出し、眼前の岩へ最後の力を振り絞って腕を絡めた。

大型トラックのドライバーである矢部が、事故の衝撃で目を覚ました時には、これで一生を棒に振ったと人生を悔いたという。矢部自身には大きな痛みもなく、車もナンバープレートを含むフロント部分がへこんでいる以外は損傷も見当たらず、エンジンもかかっており、道路の真ん中で海側に車が向いている以外は別段、異常もないようだった。つまり、この大事故で自分ひとりだけが無事であるという事実が余計に矢部を苦しめることとなった。
 なにしろ気付いた時には、対向車がガードレールを乗り越えて暗い海へと投げ出されてしまったのだ。乗っていた人間が助かるとは到底思えない状況だった。
 しかし奇跡が起きたのだ。
 乗っていたふたりが自力で車外へと出て、必死に海を泳ぐ姿に、50半ばの中年ドライバーはこの状況下で胸を振るわせた。
 自分がおかしてしまった過ちは、この後いくらでも償うから、頼む、頼むから助かってくれ―――。
 ふたりの男女が岸壁下にある岩まで辿り着いたときには矢部は涙を流して喜んだ。まるでドラマでも見ているかのような錯覚に陥った。「よし!いいぞ!よく頑張った!」事故を起こした張本人が、まるで今まさに助けにきた人物かのような高揚感すら覚えた。それだけこの非日常の出来事に感極まってしまっていた。
 海から這い上がったふたりは、自発呼吸すらうまくできずにその場に倒れ込んだ。しかも女性は顔が真っ青に変色しておりガタガタと全身を震わせ、男性のほうは左ヒザを抱え込みながら顔を苦しげに歪め、その場で何度も嘔吐を繰り返した。
 ずぶ濡れになったふたりの今まさに生死を左右しかねない惨状に、我に返った矢部は、慌ててポケットからケータイを取り出すと119番をプッシュした。
 ふたりは近くの病院に救急搬送され、一命を取りとめた―――。
 救急車の中でハルミは意識を失い、一度は集中治療室で治療を受けたが2日後には目を覚まし、レントゲン撮影での異常も見られないとのことで、4人部屋の病室へと移った。一方、事故後も意識のしっかりしていた勝二はレントゲン撮影の結果、左大腿骨の突出が認められ、その場で緊急手術が行われた。
手術後、すぐに勝二は歩行のリハビリをはじめた。
事故後、ハルミは10日間の入院をすることとなり、勝二はリハビリのための通院は今後もするという説明を受けた後で、1か月で退院することが決まった。
 しかし1か月後、担当医から勝二の母親である正子へ入院の延期が告げられた。

ガードレールを修理する道路管理部署に落ち度がなかったか、と聞かれればその判断は難しい。自損事故から3日後に勝二の車が事故を起こしたことで、市町村の道路管理部署には各メディアから抗議が殺到し、警察の現場検証後、直ちに修理されたという。
 勝二の退院日に山本親子は脳外科医からのインフォームドコンセント(※説明と同意の意)を受けていた。
「副交感神経が―――視床下部の働きを―――高次の精神機能に関係する前頭前野の領域から―――つまり、統合失調症の症状と酷似した―――」
 医師は穏やかな口調で、ゆっくりとわかりやすく、勝二の脳内でこれから起こるであろう障害を説明してくれた。
しかし正子は医師の説明を聞きながら、なぜ自分はこんなに冷静に聞き入れることができているんだろう、と自問自答した。
 答えは簡単だった。医師からの説明が、今後、我が子に起こるはずがない。と、勝手に自分の中で結論付けてしまっていたのだ。
 脳外科医の話はまだ続いていた。
「ただし、人間の脳内で起こるメカニズムは未だに研究が続けられている段階で解明されていない部分も多いんです。その解明も今日、明日、研究チームによって発表されるかもしれない。希望を捨ててはいけません」
 説明の最後は励ましで締めくくられていた。つまり現段階において、事故で起こった後遺症による息子の脳障害へのアプローチ方法は判然としない、ということらしい。
「質問をしてもいいですか?」MRIで撮影された自分の脳内画像から視線を外し、勝二は神妙な面持ちで医師に向き直った。
「どうぞ」
 医師もそれにならって勝二の正面へと肘掛け椅子を向けると、掛けていた眼鏡を親指と中指で軽く持ち上げてみせた。その後ろにいるのは看護師と、そのまた後方でメモ用紙に走り書きをしているスーツ姿の女性がMSWと呼ばれている医療ソーシャルワーカーであった。MSWからは名刺を受け取ったが、すぐにポケットに入れてしまったので名前はわからない。どのみち、名前など覚えなくても今後もあまり関わることはないだろう。
「ぼくは今、自覚している限り正常なつもりです。突然、大声で叫ぶこともなければ、ここにいる誰彼かまわず殴りたいという衝動にもかられていない。ただ、先生の口から統合失調症という病名が出てきたってことはつまり、精神疾患に似た症状が僕の中で起こるかもしれないってことですか?」
「そういうことです。そして、その症状はいつ起こってもおかしくないでしょう。あっ、ちょっと、山本さん―――!」
 正月が過ぎても世間はまだ冬休みのところが多く、成人の日ということで盛り上がっているんだろうな。勝二はすぐにハルミの振り袖姿を頭に浮かべた。
 ハルミの怪我の具合は大丈夫なんだろうか?集中治療室から4人部屋に移ったとはいえ、まだ面会にも行けていない。
 母親の正子からは顔に傷はなかったと聞かされていたが、実際に自分の目で確かめたわけではない。そうだ!
 医師が慌てて呼び止めた時には、勝二の思考はすでにハルミへと向けられていた。現実逃避と言われればそれまでだ。
でも坂本ハルミこそが今の山本勝二にとっての現実だった。勝二はハルミの病室へと足を引きずった。
 勝二がハルミの病室へ向かっているところで、追いつかれてしまうのは当然のことだった。松葉杖も使わずに骨折した左足を引きずりながら手摺りにつかまり歩いている勝二を見て、キャスターの付いた点滴台を転がしている初老の男性が、怪訝な顔をしながら追い抜いて行った。
「勝二!待ちなさい、勝ちゃん!」
 そして当然のごとく、勝二に追いついてきたのは正子だった。
(母さん。病院の中で「勝ちゃん」はないだろう…)
 勝二は母親の声に立ち止まったというよりも、リハビリを開始したばかりの足で長距離を歩くのが既に限界だった。
「自分の身体をもっと大事にしなさい!」
 そう言って2本の松葉杖を勝二に手渡した。
「止めないの?」
「止めないわよ。だって、自分の身体よりも大事な人に出会ったんでしょう?」
 母親の言葉は、聞いているこっちが恥ずかしくなるようなセリフだった。
「お母さんも若い頃にそんなこと言われてみたかったわぁ」
 正子は勝二を生んでから早くに夫を亡くし、女手ひとつで息子を高校卒業するまで育てた後、「好きな人がいるの」と言って年相応の男性を紹介してきたことはあったが、再婚に至るまでにはいかなかった。理由を尋ねると、勝二の父親以上のイイ男ではないから、だそうだ。理由はどうあれ、息子としては母親が選ばれるよりも選ぶ側に立っていることにびっくりした。
 母親に自分の気持ちを言い当てられた息子は十中八九、気恥ずかしさで顔を赤らめる。それは勝二も例外ではない。ただし、足を引きずりながら歩いて来たため、もともと顔は上気していたが。
 勝二は正子から松葉杖を受け取ると、照れ隠しに悪態をついた。
「松葉杖を持ってきてもらったのはうれしいけど、じつはもう歩くこと自体、限界なんだよ。気を利かせて車椅子を持ってきてくれたら良かったのに」
 すると正子は、目の前の病室でスヤスヤと寝ているお婆さんの元へ松葉杖を置くと、ベッド脇にある車椅子を勝手に拝借してきてしまった。
「ほら、用意したわよ。いいからここはお母さんに任せて行きなさい!」
「ちょ、なにやってんだよ!っていうか医者からさっきオレの病状を聞いてきたところだろ?」
「そりゃ聞いたわよ。アンタの脳がどうにかなっちゃうかもって話でしょ?だからって、まだ『なるかも…』って段階でしょ?まだ起こってもないことを心配しても始まらないのよ!母親のアタシが能天気でいなくてどうするの!」
 逆に怒られた。「いいからさっさと行きなさい!」
 考えてみれば、幼少時代に片親であることへのいじめに遭った時だって、高校時代にツレが煙草を吸っていたところを一緒にいただけで補導された時に、交番の警察官に面と向かって「息子はそんな子じゃない!」と頑なに不良のレッテルを剥がしてくれたのも、母親の前向きな性格のおかげだった。
 あの時、本当に煙草を吸っていなかったと信じていたのか、ある日母親に聞いたことがあった。すると正子は「アタシが煙草を辞められたのは、アンタを妊娠したからなのよ。アタシに煙草を辞めさせたアンタが吸うわけないじゃない!」と決して納得のできない説明をされたっけ。
 就職してから煙草は吸うようになったけど、あの時の母親の顔が浮かんでくるもんだから勝二が煙草を吸ったのは二十歳の誕生日。職場の喫煙室で少しだけ緊張しながら、同僚にからかわれながら吸ったのが初めてだった。けれどその煙草も、数日前に病院の正面玄関脇にある喫煙所で吸った1本を最後と決めていた。
 勝二は腰に手を当てて、ニコニコ笑いながら仁王立ちしている母親に向かって言い返す言葉が思い浮かばず、聞こえないくらい小さな声で「……」と呟くと、両腕に力を込めてハルミの病室へと車椅子を漕ぎだした。

 乗り慣れていない車椅子に座った世界は、いつもよりも少しだけ怖かった。普段、見下ろしていた人を見上げなければならないし、廊下の角などは、普段の歩いている調子で曲がろうとすると車椅子を漕いでいる手が巻き込まれ、手すりや角にぶつかりそうになった。
 それでも車椅子用に設置してあるエレベーターの昇降ボタンを押し、3階に上がると看護師に尋ねるまでもなく「坂本ハルミ様」と書かれたネームプレートを発見した。
 ハルミは4人部屋の窓側で点滴を受けながらファッション雑誌を読んでいた。化粧はしていないようだが顔色は良い。髪も整えられ、正子が売店で購入してきたパジャマもなかなか似合っている。勝二の方が先に目を覚ましたことは、母親の正子から聞いているはずだった。
「思ったより元気そうだね」
 事故以来、ハルミとは初めて顔を合わせるが、事故以前にハルミに使っていた敬語は自然と消えていた。
 ハルミは一瞬、不思議そうな顔をよこしたが、
「アタシよりも勝二さんの方がよっぽど病人みたい」と言って笑顔で応えた。「骨折しちゃったの?」
「うん。ポッキリと」
「治る?」すぐに心配そうな顔になる。
「大丈夫!ホントは松葉杖で歩かなきゃなんだけど、病室まで距離があったんで車椅子を拝借してきたんだ」
 勝二は先ほどの母親とのやりとりを、「大事な人」という部分だけは伏せてハルミに聞かせた。するとハルミは、
「やっぱり!」と言ってまたコロコロと笑った。
「アタシが病室で目を覚ました時に心配そうな顔で看病してくれていた女の人がいたんだけど、どなたですか?って聞いても『名乗るほどの者では』とか言って誰なのか教えてくれなかったの。そりゃそうよね、勝二くんのお母さんに決まってる」
 するとハルミの満足そうな顔が一転、我に返ったように、
「ヤダ、ちょっと待って。アタシ化粧も何もしてないじゃん!やばい。眉毛がない。アタシの眉毛とまつ毛…、知らない?」
「たぶん海の中に落としてきちゃったんじゃないかな。地元の警察に問い合わせてみようか?」
「ばか。あっち行け」
 こう言っては何だけど。この何でもない会話は、あの大きな事故から生還したふたりにとっての大きな収穫のように感じた。だからこそ勝二は、これからハルミに言わなければならないことを思うと、胸が痛んだ。
 伝えなければならない言葉を勝二は飲み込んで、ひとつの疑問を口にした。そしてその疑問を口にした途端、ハルミの顔が曇ったような気がして、ひどく後悔した。
「母さん、ハルミさんの家には連絡したのか…、あっ、いや…」
 勝二の慌てた顔をさえぎるように、
「大丈夫。だいじょうぶだから。あまり気を使わないで、家族にはアタシから連絡したから、大丈夫だから」
勝二はハルミの家庭の事情にどこまで踏み込んで良いのか推し量りつつも、会話の流れ上、うやむやにするのもはばかられた。
「大丈夫って…、ご家族も確かみんな病気にかかってるって話をしてなかったっけ?」
「…うん。どこほっつき歩いてんだ!って、怒ってた。でも家の中も、アタシがいなければいないでどうにかなるものなのかも―――。家族にとってのアタシの存在って、いったい何だったのかなぁ」
 責任感のあるハルミが、24年の間支えてきた家族への負担を解放したがっているのか、それとも、家族においての自分の居場所を見失いそうになっているのか、勝二には判断がつかなかった。
 ハルミが物心ついた時から、家の者は彼女を頼りにしてきた。それは依存と言い換えても良いだろう。しかし、ハルミが入院したとはいえ、手の平を返したように必要とされなくなるというのは、きっと寂しいものなのだろう。そもそも、家族の誰も面会に来ないというのはどういうことなのか。
 いや、他人の家庭の事情に口を挟むのはやめよう。
 他人、他人か。そうだ、そうだよ、うん。
「坂本ハルミさん」
「え?あ、はい!なによ改まって…」
 勝二は車椅子から立ち上がると、その場で大きく深呼吸した。
「オレはハルミさんとはお付き合いが出来ません!」

 勝二はそれだけ言うと深々と頭を下げ、また車椅子に乗り、病室を出て行ってしまった。
「あらためてお付き合いして下さい」という申し込みなら分かる。事故に遭ってからというものの、ハルミの心境には少なからず、変化が生じていた。
 家族のことだけを考えて生きてきたハルミにとって、車ごと海に落ちたことは、まだ自分が「死にたくない!」という事実に気付かされた瞬間でもあった。
 さらに言えば、勝二の腕にしがみつきながら恐怖心の中にも安心感すら覚えたのだ。
 病室で目が覚めてすぐは、自分の置かれている状況を飲み込めずにいたが、時が経つにつれ、事故のことが鮮明に思い出せるようになると、恐怖よりなにより、勝二の頼もしさに胸が熱くなった。
 だからこそ眉毛の薄い自分の姿を見られて、恥ずかしいと思ったし、入院中とはいえ、勝二の前では女性らしくいたいと思ったのに…。
 勝二の言葉にハルミは、海よりも底に突き落とされたような気分だった。あまりの出来事に理由を聞く間もなかった。
(どうして?どうして勝二さんは付き合えないなんて言ったの?)
 勝二のことを理解しているか、と聞かれればまだ知らないことだらけだ。けど、相手のことを思いやる気持ちを持っているからこそ、ハルミは勝二に惹かれたのだ。
 理由。そうだ。理由があるはずだ。
 その後、自分が起こした行動に、ハルミ自身が驚かされた―――。
(ちょっと待って!アタシ、こんなことしていいの!?)
 頭ではいけないことだとわかっているのに、心が体を突き動かした。
 ハルミは、左腕に取り付けてある点滴の針を引き抜くと、おぼつかない足取りで勝二を追いかけていた。

 ハルミが勝二を追いかけて病室を出ると、目の前にあるエレベーターが降りて行くところだった。
 階数はあっという間に3から1へと移動する。すぐにボタンを連打する。エレベーターは隣にもうひとつ。ただし階数は1と表示されている。
(どうしよう!)
 エレベーターが来るのを待つか、階段で1階まで降りるか。
ボタンを連打するぐらいだから慌てていることは確かだった。けど、どんなに全力で階段を駆け降りても、十数秒のうちに3階へと上がって来るであろう、エレベーターの昇降時間には勝てないことを分析する冷静さがハルミにはあった。
 ハルミは急ぎたい気持ちと体を頭の中で必死に抑止しながら、数分間の体感時間を待って、ようやく鉄の箱に飛び込んだ。1階へ降りる間にハルミは考えを巡らせた…。
 勝二は車椅子に乗っていた。大きな病院は通常、外側の自動ドアと内側の自動ドアの間のスペースに、外来患者用に使用できる車椅子を常備している。しかしその車椅子の後部には「外来用」という文字が書かれていなかった。ということは、その車椅子は外来からではなくて、別のところから拝借してきたはずだ。つまり勝二が車椅子をどこかへ返却しに行っている間に、1階の正面玄関へ先回りすることができれば、まだ勝二に追いつくチャンスはある。
 しかし、ハルミはエレベーターを降りたところで肝心な点を計算に入れていなかったことに気づいた。
 今の今までベッドで点滴を受けていた自分の体力の無さを忘れていた。加えてエレベーター特有に起こる昇降時のめまいに、体がついていけない。
 ハルミはその場でうずくまってしまった。
(ここまできて体がいうことを利かないなんて…!)
「あらあら!たいへん!」
 するとハルミのその姿を見たひとりの女性が駆け寄ってきてくれた。
それは、息子が乗っていた車椅子をこっそり返却しにきた正子の姿だった。
「あの、お願いがあるんですけど」
 幸いなことに、ハルミがうずくまった場所には正子しかおらず、まだ病院職員の誰にも気付かれた様子はない。それに自分を見つけてくれた相手が勝二の母親である正子だったことは、まだハルミに運が味方しているのかもしれない。
第一発見者が病院職員だったら強制的に病室へ戻されていただろうし、また発見者が正子以外の人だったら受付にいる医療事務を呼ばれていただろう。慌てた正子が看護師を呼ぶ前に、ハルミは腕にしがみついて、さきほどの勝二とのやりとりを話した。
「…そう。それはつらかったでしょうね」
「はい」
 同意を得られたとばかり思ったハルミはしかし、正子の思いがけない言葉に驚いた。
「きっと勝二は、誰よりもハルミさんに幸せになってもらいたいのよ」
「どういう意味ですか?わたし、勝二さんに付き合うことはできないって…。教えてください!勝二さんに何があったんですか?」
「なにも。何もないのよ、今は」
 このまま院内のエレベーターの出入り口でうずくまっていたら、それこそ病院職員に呼び止められると言われ、促されるままハルミは正子が返却しようとしていた車椅子に乗せてもらった。
「このまま喫茶店に行きましょう」
 勝二の母親に言われては、ハルミも逆らうことができない。正子に車椅子を押してもらいながらふたりは院内にある喫茶店へと入った。今頃、ハルミが寝かされていた病室は患者が無断で点滴を抜いて何処かへ出て行ってしまったのだから大騒ぎになっているに違いない。今は正子の身に着けていたセーターを着せてもらってはいるが、探している側からすれば年恰好で見当をつけるだろうから見つかってしまうのも時間の問題だろう。
 ハルミも勢いで病室を抜け出して来たとはいえ、このまま強制的に退院しようなどとは思っていない。勝二の真意さえ確かめることができれば、自分から病室に戻るつもりでいた。しかし。
「勝二はね、さっきの先生からこれから起こるかもしれない病気の症状について説明を受けてきたの」と、打ち明けてくれた正子の暗い表情を見たら、いてもたってもいられなくなってしまった。
「先生がね、事故の後遺症で勝二の脳に障害が残ったというのよ。で、その障害というのが精神病でいうところの統合失調症と似た症状になる可能性が高いって…。信じたくはないけど、ハルミさんに障害が残ったことを言わずに別れを告げようとしたってことは、もしかすると自覚症状が出始めているのかも―――」
「自覚症状って…」
 救急車のサイレンが喫茶店の外、つまり病院に近づくにつれて大きくなり、そしてサイレンが止まった。救急車自体は見えないが、救急隊と看護師の喧騒が否応なしに聞こえてくる。
「先生が言うには幻覚や幻聴が出たとして、それを身内に隠せなくなってきたら覚悟を決めてくださいって。でも先生がその説明をする前に、勝二はハルミさんの病室へ向かってしまったの。だからそのことを知っているのは、まだ私だけのはずなんだけど」
 ハルミは正子と向かい合ったテーブルの下で、両手を膝の上に乗せていた。そうでもしないと膝の震えが止まらないのだ。それに比べて正子のこの落ち着きはどこからくるのだろう。息子が重大な脳の障害を負ったかもしれないのに、毅然とした態度でハルミを真っ直ぐに見つめ、説明してくれている。少なくともハルミには正子の姿が落ち着いているように見えた。
 けれどその姿の裏に隠れた母親の心を掻き毟られるほどの感情を、ハルミは後になって嫌というほど知ることとなる―――。
「ハルミさんにここまで話してしまって、本当に申し訳ないんだけど、息子のことはもう忘れてください。自分の身体よりも大事なあなただからこそ、勝二は別れを告げたんだと思う。どうか、幸せになってね。これは私たち母子からのお願いよ」
「あの……、」
「突飛な話かもしれないけど、もしも今あなたたちが結婚していたとしたら、私は母親として離婚することを薦める」
 勝二の障害が本格的に発症してからでは、目の前にいる未来ある女性の優しさに、私も勝二も甘えてしまいかねない。勝二がまだ元気なうちにふたりを引き離さなければ手遅れになると、正子は考え始めていた。
「今回の場合、若さだけで乗り越えられる恋愛とは訳が違うのよ…。ハルミさん、統合失調症という病名は知ってる?」
「はい、名前だけは聞いたことが」
「昔はね、統合失調症は精神分裂病といって、その名前の通り、精神が分裂してしまうという意味でそう呼ばれていたのよ」
「はい…」うつむくハルミに、正子はたたみ掛けるように自分の知っている数少ない知識で説得した。
「これから先、いえもしかしたら明日にでも、ハルミさんの知っている勝二はいなくなってしまうの。私の言っている意味がわかるわよね?」
 正子は、ハルミがテーブルに目を伏せたまま小さくうなづくのを確認すると、もうひと押しとばかりに続けた。
「それに、交通事故でトラックの運転手に大きな過失があったとはいえ、事故を起こしたのは運転していた勝二の責任でもあるんだから。ハルミさんに怪我を負わせて、その上さらに息子を看病してもらうなんてことは、あなたにもあなたの親御さんにも申し訳が立たないのよ」
 正子がどんな気持ちでハルミに向かっているのかは分からない。でも、自分がもし母親の立場ならきっと、同じことを話しているような気がした。
どちらにせよ、今のハルミの立場では、我が子を想う母親の気持ちには敵わないということを突きつけられた思いだった。
 話の最中にハルミは一度だけテーブルから顔をあげたが、両手で膝を押さえたまま、小さな声で「わかりました」とだけ答えた。
正子が何か言おうとする前に、喫茶店のドアに付いた鈴が鳴ったかと思うと「やっとみつけた!」という大声が店内に響いた。スーツを着た病院スタッフと思しき2人組の男女が、ハルミと正子の座るテーブルへ駆け寄ってきた。「坂本ハルミさん…で、よろしいですね?」
 ハルミは一瞬、目を見張ったが、すぐに事態を飲み込んで「はい」と頷いた。
「探しましたよ、まったく。でも無事に見つかって良かった」
 おそらく病院としての体裁を考えれば、おおっぴらに院内アナウンスを使って病室を抜け出した患者を捜索することはできなかったのだろう。院内で使用できるPHSを使って院内から院外まで、人海戦術で病室を抜け出したハルミを探し回ったに違いない。
 はじめに声を掛けてきた男性スタッフの傍らで、女性スタッフがPHSに向かって「院内の喫茶店で見つかりました!」と話している。
「どこかにお怪我はありませんか?」
 怪我をして入院している患者に向かってするような質問ではないと思ったが、きっと彼らは病室を抜け出して以降のことを心配しているのだろうと気付いた。
 男性スタッフは正子に向き直り、「身内の方でしたら話のつづきは病室に戻ってからお願いします」と、患者を連れまわしたのはあんたか!と言わんばかりの口調でにらみつけた。
「いえ、私は…」
 身内かどうかを聞かれた正子が返答に困っていると、隣にいる女性スタッフが男性に耳打ちした。「…そうか」「とにかく。あなたも一緒に来てください」と、席を立つように促された。
「坂本さんはこちらに乗ってください。車椅子はぼくが押しますから」
 正子がレジで支払いを済ませているのを待つつもりはないらしく、ハルミは男性スタッフの手によって、車椅子へ乗せられ先ほどハルミがうずくまっていたエレベーターへと向かった。点滴をしていたという情報も入っているのだろう。一刻も早く診察をさせたいようだった。
 あっという間の出来事に、ハルミも正子も言葉が出て来なかった。それに話の内容自体、第3者が間に入った中で話せるものでもなかった。
 エレベーターが3階から降りてくるのを待っている間も、この場で事情を聴こうとはして来ない。患者の興奮をあおるような質問は避けようということかとハルミが思っていたところに、車椅子の後方からスタッフが話しかけてきた。
「そういえば今聞いたんですが…、坂本さんが入院されてからしばらく経ちますが、まだ身内の方は誰も面会に来られていないとか」
 この何気ない問いかけの中に、もしかしたら悪意はなかった。逆にハルミから自宅の電話番号を誤って確認してしまった病院側に不備があるのではと、心配からくる言葉だった。
 けれどスタッフの言葉を最後まで聞く前に、ハルミの心はその前半部分だけを切り取られた言葉によって大きなダメージを受けてしまった。
(やっぱり…、アタシって、誰からも必要とされてないんだ)
 目をギュッとつぶり、奥歯を噛みしめた。後ろのスタッフに気づかれないくらいに小刻みに、肩を震わせた。エレベーターのドアが開く。ハルミはスタッフに表情を悟られないよう、いっそう顔を伏せた。
 スタッフがエレベーターの『3』を押し、次いで『閉』ボタンを押そうとしたところで、「ちょっと待って、乗りまーす!ちょっと待ってて!」と大きな声が聞こえてきた。
「良かった!間に合った!」その声の主は、気軽にハルミの肩に手を乗せてきた。うつむいていたハルミの背中がビクッとなる。
 その行動に驚いたスタッフが「失礼ですが、あなたはこの方とどういったご関係ですか?」と尋ねると、
「え、オレ?オレは彼女の身内です」と答えた。
 ハルミはその男を恐る恐る見上げると、思いもしなかった人物の存在に全身にトリハダが立った。
(どうしてあなたがここにいるの!?)
「まったく。母さんはまだ車椅子返しに行ってなかったのかよ」
 その男はうれしそうに文句を言うと、男性スタッフに自分の持っていた松葉杖を持たせると、ハルミの乗った車椅子を横から奪い取った。
「勝二さん」
「なんだよ」
「ありがとう」
「なんだよ。いいよ、そんなこと言わなくても」
 男性スタッフと自分のやりとりを近くで聞いていた勝二が、嘘でも「オレの身内です」と言ってくれたことが、ハルミにはこれ以上ないくらいに嬉しかった。
そして診察室まで車椅子を押してもらっている間に、ハルミは改めて身内を看病することの意味を考えていた。
 物心がついた時にはもう、ハルミは家族の手足となり、病気がちな家族の面倒を見てきた。それは今思えば、苦痛でしかなかった。その理由が、今ならわかる。
 面倒は、その言葉の意味の通り「面倒」でしかなかったのだ。ハルミは幼心に彼らの面倒を「見なければならない」という、強迫観念を植え付けられていた。そこに自分の意志は存在しなかった。家族は大切な存在だという大前提を、忘れさせてしまうほどの強大なマイナスの意志。
 だからこそ、そこに抵抗する気持ちが芽生えてしまったのだ。
 けれど今なら…、いやたった今、自分の考え方が違うことに気付いていた。看病とは病気ではなく人を見ることだと。「面倒」を見るのではなく、いっしょに生きていきたいと思えることなんだと。
 アタシが誰からも必要とされていなかったんじゃなくて、アタシ自身が誰も必要としていないと、勝手に壁を作っていただけなんだ。
 誰かに必要とされたいんじゃなくて、アタシが誰を必要としているか。それこそが自分に欠けていたものだった。
 彼の言葉にトリハダを立たせた体は正直だった。その言葉は自分の家族への在り方さえ一変させるものだった。
アタシはこのひとが必要なんだ。いっしょに生きていきたいんだ。そう思うとまた、ハルミの全身はトリハダが立った。
24年前、確かに坂本ハルミは生まれた。けれどハルミは今日この場所で、車椅子に乗りながら、本来あるべき自分へと、生まれ変わったような気分を味わっていた。
 伝えなくちゃ。アタシの言った「ありがとう」の意味を早く伝えなくちゃ。


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第4章へつづく。



第1章へ



 結論から先に言っておこう。
 坂本ハルミは統合失調症ではなかった―――。
 24歳のクリスマスイブ。それはいつものように病気の祖父と母親の通院のため、車検を終えたばかりの軽自動車で、ふたりを掛かりつけの病院へ送り届けた帰りに、夕食の食材を買うため最寄りのスーパーへ向かう途中に起こった。
 以前から耳の中で、時折何かの言葉とも耳鳴りとも受け取れるような異音が、ハルミの頭の中を襲っていたが、はじめてその症状が運転中に現れたのだ。
(※※※※※※※※※!)
 いつもなら直ぐにおさまる症状が、運転中に限って消えてくれない。ただ闇雲に、自分の内側から何者かが警笛を鳴らしているような錯覚に陥った。
 その異音にハルミは脂汗が止まらず、途中で車を停めるという判断すら失っていた。
(※※※※※※ど※※※!※※う※※※※※※し※!※※※※※※※※※よう!)
 田舎町と聞けば、車ものんびり走っていると思われがちだが、時間帯や場所によっては各々が目の前の車を追いかけるような猛スピードで閑静な住宅街を走るような地域で育ったハルミは、無意識の内にこの場で減速させることをためらってしまっていた。
 しかし運は未だハルミを見放してはいなかった。車のサイドポケットに入れていた携帯電話が突如、軽やかな曲を奏ではじめ、ハルミを瞬間的に現実の世界へと引き戻したのだ。
 その着信音は、当時ハルミが一方的に片思いをしていた男性からのメールとして自分の大好きな曲を設定していたものだった。
 その着信音を聞いたハルミは失いそうになっていた意識を取り戻すと、前を走る大型ダンプカーのライトにぶつかる寸前で、慌てて車を目の前のコンビニに駐車させた。
 瞳孔の開いた目で、飛び跳ねるようにけたたましく鳴り止まない胸の鼓動を右手で抑えながら、自分が生きていることを確認したハルミは、片思い中の男性から来たメールをチェックした。
『よかったら明日、一緒にご飯でもどうですか!?』
 ハルミは震える手で返事のメールを打った。

 クリスマスの夜。
勝二は片思い中の女性―――、坂本ハルミを連れ出し、イタリアンレストランに来ていた。
 その日、勝二はハルミに交際を申し込むつもりだった。前の彼女と別れて3ヶ月目にして知り合ったハルミは、勝二よりも5つ下の24歳という年齢の割には大人びていて、何度か食事に行っても余り自分の話はせずに、OA機器の販売、修理業に携わっている勝二の仕事での失敗話や上司の愚痴などを聞きたがるばかりで、自分といっしょにいて本当に楽しんでいるのかどうかもわからずにいた。
 それでも勝二が食事やドライブに誘うと予定さえ入っていなければ断られることもなく、何度かデートのようなものを重ねてきていた。
 昨日のクリスマスイブも本来であれば食事に誘いたかったが、ハルミから予定が入っていることを事前に言われていたので、結局どこの誰と会うのかまでは聞けずに今日を迎えてしまった。
 勝二が選んだ店は、イタリアンレストランといってもビュッフェ形式の、いわゆる食べ放題となっていて、カップルよりも家族連れが多く、飾り付けられたツリーと、店内に流れるクリスマスソング以外は、ファミリーレストランとさほど変わらない雰囲気に、着飾ることが苦手なハルミは、「肩が凝らなくていい」と今日はじめての笑顔を見せてくれた。
 食事は美味しかった。なによりハルミはいつもより明るく、この時間を楽しんでいる様子だった。
 勝二はテーブルの下で汗をかいた手をいっしょうけんめいテーブルクロスで拭きながら、告白するタイミングを計った。
「あ、あの…」
「山本さんもデザート食べます?」
「あ、ハイ」
 ハルミがトイレに立った隙に、スマートに支払いを済ませようとした勝二だったが、タイミング悪く食後のコーヒーサービスが来たことでスムーズにはいかず、あえなく失敗した。
会計時に財布を取り出したハルミに「今夜くらいは格好つけさせてください」と断りを入れ、どうにか面目を保つことができた。
 家を出る前にうっすらと垣間見えていた月は雲に隠れ、年末らしく潮風の冷たさが身体に沁みる。
「少しお話がしたいんですけど」
 それは勝二の車にふたりで乗り込んですぐ、ハルミから告げられたものだった。「ドライブに連れて行ってくれませんか?」
「もちろんです!」
 勝二は上ずった声を誤魔化すように慌てて咳払いをしたが、口元に添えた自分の手が再び汗でびっしょりと濡れていた。
 イタリアンレストランを出て20分は経っただろうか。車に乗り込んでからふたりは会話もなく海沿いを、あてもなく東へと向かった。
 車内のBGMは気が利かずに失恋ソングが流れている。勝二は沈黙に耐え切れず、BGMに合わせて歌い始めた。
「あの…」
「あ、歌っちゃまずかったですか?」
「いえ、良い曲ですよね」
「あ、はい」
「確か内容は、亡くなった彼女を今でも想う主人公の話…、でしたよね?」
「あー!そう、そうですかね!」
 慌てて勝二はクリスマスソングに切り替えた。
「お話というのは―――」
 やがてハルミは、ぽつりぽつりと家族のこと、自分のことを話し始めた。
 その間、勝二は時々相槌を打ったり、驚いたりと、とにかく自分が口を挟めるような内容ではないということだけは理解できた。

「―――というわけで山本さんと付き合うことはできないんです」
 ハルミはそう締めくくってまた口を閉じた。
前代未聞の話だった。が、勝二は運転よりもハルミの話を理解しようと、取りこぼしがないように必死に頭を回転させた。
「この話はその…、誰か他の人に話したことはあるんですか?」
「まさか!この話をするのは山本さんが最初で最後だと思います」
「でも、何でオレには話してくれたんですか?」
「何で、ですかね。山本さんなら怒らずに聞いてくれるような気がして」
「怒るっていうより―――」
「驚きますよね、こんな話を聞かされたら」
「って言うよりも、抱きしめたくなりました」
「…え?」
 勝二の言葉に驚いたハルミは、正面を向いていた顔を運転席にクルッと回転させ、固まってしまう。
 勝二は何とか自分のペースに持ち込みたくて、思わず口から出た言葉だったが、ハルミの言葉遣いとその素の表情があまりにも可愛くて、本当に抱きしめたくなった。
 しかし正直なところ、勝二はハルミの話を聞いて途方に暮れてしまった。
(こんな話を聞かされて、オレの気持ちはどこに持って行けば良いんだろう)
(クリスマスの夜にこの車はどこへ向かっているんだろう)

「じゃあまた来週のこの時間に。その間に何か変わったことがあったらいつでも連絡してくださいね」
「ハイ。ありがとうございます」
 坂本ハルミはいつものように病院玄関までベテラン看護師に付き添われながら、車で15分程の場所にある自宅へと戻るため、タクシーに乗せられた。
 タクシーが見えなくなるまで見送ったさゆりが相談室に戻ると、宇佐見道彦の表情の冴えない顔が出迎えた。
 宇佐見は自分の作成したファイルと、さゆりの作成したファイルを(勝手に)見比べながら、背中に回した左手で首の付け根を揉みほぐしている。
 これはしばらく一緒に仕事をして分かったことだが、宇佐見の首を揉みほぐすという作業は集中力を高めたいとき、つまりモチベーションを上げたいときに行なう儀式のようなもののようだった。
「僕が同席するようになって、坂本ハルミさんのカウンセリングは今日で5回目となったわけですが―――」
 宇佐見がファイルからさゆりへと目線を向けると、
「僕はいまだに彼女の病名について判別できずにいます」
「宇佐見さん、あなたまだそんなこと…」
「ええ、もちろん。詳細までは語っていませんが先週の来談者中心療法で坂本さんがしてくれた、24歳のクリスマスでの出来事というのは、とても印象な話です。一見、抽象的でありながら、今回のカウンセリングの中では『山本勝二』という具体的な名前が出てきている」
 確かに。今回初めて『山本勝二』という人物の名前が坂本ハルミの口から出てきた時には、さゆりも使い慣れたボールペンで書く文字に思わず力が入ってしまった。
「『山本勝二』なる人物が果たして実在しているのかどうか、早急に確かめる必要がありますね」
 坂本ハルミの症状として、幻聴や幻覚、あるいは被害妄想などから考察して、精神科医が統合失調症と診断したのは決して間違いではない。抗うつ薬の処方も開始されている。そのことにさゆりも異議を唱えるつもりはなかった。
 だからこそ、今回のカウンセリングでハルミの口から出た話は、ただの妄想として片付けるにはあまりにも具体的な内容が盛り込まれているような気がして、さゆりは戸惑いを隠せなかった。
 そう。宇佐見の言うように、まずは『山本勝二』が実在しているかどうか、確認することが先決だ。
 宇佐美道彦が坂本ハルミに付けられた病名が‘統合失調症’ではないのでは?と疑問を抱いたのには、いくつかの理由がある―――。
そのひとつが、ハルミは定期薬を毎日飲んでまで統合失調症になりきる必要がどこにあるのか?である。
 その理由が分からない限り、臨床心理士の石川さゆりに自分の考えを話すわけにはいかなかった。
 そして統合失調症ではないとしたら、ハルミが実際に罹っている病名とは何か。そして本当の病名が判明した時にはじめて、宇佐美道彦は偽薬師としての本領を発揮しなければならない。
 つまるところ、宇佐美の命題はそこにあった。
 まず宇佐美が考えなければならないことは、ハルミにとって‘統合失調症’という病名がつくことで、何か得られるものがあるのか、ということだった。
 何度も言うがハルミは毎日、定期薬を飲むというリスキーな行為をとっているのだ。そのハイリスクを背負ってまで得られる‘何か’があるとは到底思えない。
 偽薬師である宇佐美は、決して副作用のある薬自体を否定するつもりはなかった。ただ、健常者が偽りの病名で薬を処方されたとあっては、自ら毒を飲んでいることに等しい。
しかし事態の深刻さはまったく別の場所にもある。
ハルミの病名が統合失調症などではなかったともしマスコミに公表されたとしたら、医療訴訟はおろか痛くもない腹を突かれて、この病院の存続自体、危ぶまれることになるだろう。
 宇佐美は理事長に、このことを報告するかどうかを迷ったが、未だ確証の持てないハルミへの診断を打ち明けるには時期尚早だと判断し、独自の調査を進めるしかなかった。
「石川さん、坂本ハルミさんについてカルテに書いてある以外に何か、気になることはありませんか。小さなことでも良いんです。教えてください」
 その言葉に、さゆりは少しだけ驚いた。今までへらへらしていた宇佐美の目(さゆりにはそう見えていた)が、はじめて光を持って見えた。
「ごめんなさい。残念だけどこれ以上の情報は持ってないんです。でも、『山本勝二』さんという人物が実在しているのかどうかは、確認する必要がありますからね。わたしも坂本さんの身辺調査をお付き合いします」
 さゆりの思考はクライエントだけに向けられている。しかしそれで良い。宇佐美は「よろしくお願いします」と、真摯に頭を下げた。

 翌日、宇佐美は無理は承知で自分の気持ちを打ち明けた。
「ハルミさんを自分のクライエントとして診たい?」
「はい。ぜひとも許可をもらいたいんです」
「何を考えているんですか?クライエントから担当している臨床心理士を替えて欲しいと訴えられるならともかく、わたしの方から坂本ハルミさんの担当を降りろというんですか!そんな無責任なこと!」
 空いている会議室でさゆりと宇佐見は向かい合って、今日何杯目かわからない珈琲をすすった。宇佐見が自販機でお茶を買ってくると言ったがそれを断って珈琲にした。何をわたしは意地になっているんだろう。
「無責任だなんて、そんなことはないです」
アンタに何が分かるって言うのよ!
仕事外の時間ということもあってか、同世代の宇佐見と対面すると思わずくだけた言葉遣いになりそうだった。
「何がおっしゃりたいんですか?」
 さゆりの疑問は最もだった。自分の考えをすべてうちあけていない宇佐美の話を、簡単に受け入れてくれるはずもないことは、わかっていた。
 しかしさゆりの問いには答えず、「坂本ハルミさんの主訴はなんですか?」と尋ねるに留めた。
 主訴とはつまり、クライエントが主観的に見た、問題に対して抱えている悩みや不安の訴えである。しかし往々にして本人が自覚している主訴と問題の本質がズレていることがあった。宇佐見としてはそこを再確認しておきたかった。
「坂本さんの主訴としてキーワードとなるのは、‘みんなを助けたい’という言葉です」
 さゆりが坂本ハルミの来談者療法にあたった際に必ず出てくる訴えがある。それが「周りのみんなを助けたい…」であった。
「助けたいんです。助けたい。助けたい。助けたい。助けたい…」
 延々と同じ言葉を繰り返すハルミに、ある日の相談中にさゆりはゆっくりとした口調で質問をした。
「助けたい人の中には自分は含まれていないんですか?」
「自分?」
「そう。助けたい人の中に、ハルミさん自身は含まれてはいないの?」
「いいえ。ワタシ自身を助けなさいという命令はされていません」
 これは統合失調症の症状のひとつで、思考吹入(しこうすいにゅう)といって、他人に考えを吹き込まれたり、操作されているといったり、命令されていると思い込む意識障害が起こっていると言えた。
「ワタシはみんなどころか、誰も助けられない馬鹿野郎なんです。はやく、たすっ、助けないと。助けないと。助けないと。助けないと…」
 ハルミはまるで水面を何度も溺れかけながら、やっとの思いで顔を出し息継ぎをしているような、切羽詰まった口調で話す。
 坂本ハルミの口から出てきた新しい人物である『山本勝二』の調査は難航していた。近親者としては唯一、ハルミの父親から電話で話を聞くことができたが、父親の洋介に至っては「わからない」の一点張りで、聞き込みと呼べるような成果はあげられなかった。

 言葉とは裏腹にさゆりは、いつかは宇佐見が坂本ハルミの担当になりたいと申し出てくるのだろうと、予想していた。
だから宇佐見が、臨床心理士の倫理規定の第5条にある、
‘自分自身の専門的知識及び技術では対応が困難な場合、又はその際の状況等において、やむを得ず援助を中止若しくは中断しなければならない場合には対象者の益に供するよう、他の適切な専門家や専門機関の情報を対象者に伝え、対象者の自己決定権を援助すること’
を突然ソラで言ってきたとしても、さゆりは冷静に聞き流すことに成功した。
「で?アンタが…、仮に宇佐見さんが坂本さんの担当になるとして、『偽薬師』としての本領を発揮してくれるわけですか?」
 つまり端的に言えば、坂本ハルミに対し偽の薬を処方するということ、か。
「ええそうです。ただし、石川さゆりさんが偽薬師の本領を理解しているかどうかはまた別の話ですが」
この男はまた、わざわざ鼻につく言い方を。そして多分、言い方に悪気はないのだ。
「それで、許可していただけるんでしょうか」
「ちょっと待って。分かっているとは思うけど、わたしが許可をする以前に、クライエントであるハルミさんの承諾が必要になります」
 さゆりが臨床心理士としてこの病院に勤務して今年で8年。果たして長いのか短いのか。
 来る日も来る日も、クライエントの相談を受けてまた日が暮れる。
 クライエントにとっての回復とは何を指すのか。そのことばかり考えて相談を受けて来た。
 回復とは病の症状が消えることではなく、自分が自分のまま生きても良いんだという自信を持ち、社会では役割を持って、世の中に出て差別を受けることなく希望を抱き生きること。
 臨床心理士としての限界を感じているわけではない。けれどさゆりは、臨床心理士には出来ないクライエントへの援助方法を、偽薬師ならば持っているのかもしれない。宇佐見の懐の深さはまだまだ底が知れないことも感じていた。
「ぼくがハルミさんの病気を治してみせます」わたしには言えないことを宇佐見は言う。何なの。期待しちゃうじゃないか。

 宇佐美のモットーは不言実行であった。だから本来であれば「病気を治す」などと宣言したりはしない。それでも石川さゆりに宣言してみせたのは、自分を追い込むためのものであり、臨床心理士に敬意を払ったものだった。
 ただし、宇佐美が偽薬師という立場において、自分の施術に絶対的な自信を持っているかと聞かれれば、答えはNoだ。絶対的な自信を持っている医療従事者にクライエントと向き合う資格はない。
 宇佐美は偽薬師としての治療方法を、偽薬を処方することだとさゆりに説明し、さゆりは単に偽薬を使ってクライエントを騙すのかと憤慨させたが、実は、そうそう簡単な話ではなかった。
 偽薬師が本来、騙すべき相手。
それはクライエント(患者)ではなく、クライエントが抱えている病原体にあった。では、病原体を騙すとはどういうことか。
 それは今後、宇佐美が坂本ハルミの実際に罹っている病原体と向き合う時に、明かされることになるだろう。そのためには先ず、坂本ハルミの病名が、実際は何なのかを解き明かさねばならない。ハルミが何らかの病に罹っている。宇佐美はハルミとの面談の中でそのことを確信していた。
そして、彼女の口から出てきた『山本勝二』という人物の所在についても、突き止めなければならない。
 山本勝二は実在する。いや、実在していて欲しい。
 なぜなら偽薬師の施術によって、仮に彼女の病気は治せたとしても、坂本ハルミ自身を救えるのは偽薬師ではないのだから。
 そのために大切となるのが、彼女を治療からその後のアフターケアに至るまでをトータル的にフォローアップしていくためのチーム編成であった。
 事態は深刻な局面にある。坂本ハルミはこうしている間にも統合失調症と病名を偽って、少なからず処方された薬を服用してしまっている可能性が高いのだ。
 早く、はやく止めなければ手遅れになる―――。

 宇佐見道彦と石川さゆりのあずかり知らぬ場所で、今まさにその会議は行われていた。
霊安室のすぐ下の階に設置された30畳はあろうかという大きな会議室で、この国の医師会、政界、経済界のトップに名を連ねる代表者たちが極秘で話し合いを進めていた。
 そして今回の会議の議題提供、及びに司会役として『偽薬師』が何たるかを熱弁しているのが、当院理事長の島崎宗則だった。
「島崎さん、あんたの話にはいつも尾ひれがついてくる。私たちはいつもあんたの口車に乗せられて補正予算を編成するはめになる。あんただって年間の赤字公債の額を知らんわけでもないだろう?」
「しかし、『偽薬師』は異例の案件なのですよ!あなた方の常識だけで『偽薬師』を問い質されては困るのです。彼は、わが国はおろか世界レベルで人の命を救える資格を持った人間なのです」
「では聞くが島崎さん、あんた方医師には、人の命を救う資格がないというのかね?それならば医療にかかる国家予算を削減して『ギヤクシ』とやらに回してやったらどうだ?」
 詭弁だ。彼らが年老いて辿り着くのは私たち医師の元だというのに。けれど私がいつも彼らと‘話し合う’時は、国家予算にケンカを売る時だ。
「『偽薬師』は国家的財産となり得る人材なのです―――」
 かつて島崎宗則は、宇佐見道彦の父である宇佐見和彦と同じ研究をしていた。
「俺の愚息を頼んだぜ」
 和彦の晩年の頼みを、そろそろ聞いてやる時が来たか。
やれやれ、宇佐見よ。何が愚息だ。
お前さんの息子が国家予算を動かす日が来るとは思わなかったよ。もちろんお前との約束は守るさ。それに『偽薬師』の秘密をここにいるお偉いさん方に話したら最後、投資の話も消えてなくなるだろうからな。
 なに、息子の心配はいらないさ。まだ頼りないところはあっても、あいつはお前に似て病人にはやたらとお節介な性分だからな。

 坂本ハルミは自宅と車の鍵と一緒のキーホルダーに取り付けてある鍵を取り出し、慣れた手つきで玄関のドアを開けた。
 電気は点いているというのに、遮光カーテンで外の太陽が遮断されているせいで家の中は薄暗かった。ハルミはひと際大きな声で、リビングにいるであろう人物に呼びかけた。
「おばさん、こんにちは!」
 すると立てつけの悪いガラスの引き戸がガラガラと音をたて、ハルミに呼びかけられた女性、山本正子がゆっくりとした動作で狭い廊下の手すりにつかまりながら顔をのぞかせた。
「ハルちゃんいつも悪いわね、お薬なら郵便ポストに入れておいてくれれば良いのに、わざわざ様子を見に来てくれて。本当にありがたいと思ってるの」
 ここ最近、正子はいつもこんな調子でハルミが来るたびに涙ぐむようになっていた。
それでも今日はまだ良い方かもしれない。先月はハルミが顔を見せた途端に泣きくずれ、1時間以上正子の背中をさすって気持ちが落ち着くのを待った。
 そうは言っても、正子はハルミが来てくれるのを誰よりも喜び、薬の代金以外は受け取らないハルミを少しでももてなそうと、近くの有名洋菓子店で買ったケーキを用意して待っていてくれた。
 化粧気もなく少なからず白髪の混じってきた正子が、ハルミが来る時ばかりは外出用の服を着るので、ハルミとしても正子に生活のハリを持ってもらうためには用意されたケーキと飲み物を、無下に断るわけにもいかなかった。
「なかなか会いに来られなくてごめんなさい」
「そんなことないわよ。でももうこの家での話し相手はハルちゃんだけになっちゃったわ」
 正子の話によると、夫は若くして病気で亡くなったのだという。それでもたくさんの思い出と、少しばかりのお金を残してくれたから勝二をここまで育ててこられたのよと、自分に言い聞かせるように寂しく笑う。
 そんな正子を励まそうと、ハルミは薬を届けるついでだからと、食材を買い込んでは正子と一緒に台所に立って山本家の味を勉強している。
しかしハルミが勉強しているのはそれだけではなかった。25歳の時のある出来事をきっかけにハルミが統合失調症の勉強を始めてから、もう7年になる―――。
 いつものようにふたりで台所に立つと間もなく、2階から何かが倒れるような轟音が聞こえてきた。
 正子はキャベツを千切りにしながら隣にいるハルミに笑顔を向けて「昨日はあの子が薬を飲んでくれたのよ」うれしそうに話していたその時だった。

ドォォォ……ン!!

 2階から鳴り響いた轟音は、天災ではなく人災によるものだった。
「勝二!勝二!だいじょうぶなの!」正子の声をハルミは階下で聞いた。
 ハルミはその轟音と同時に、階段を駆け上がっていた。
(やっぱり…)
 部屋の前に置かれた食事は手つかずだった。部屋のドア下の隙間からは粉塵が飛び出し、サランラップの掛けられた食事の上に雪のように舞っていた。
 そこからはお盆の上に乗せたクスリだけが消えていた。ついに彼は認識したのか、それとも…。
 坂本ハルミが山本勝二と付き合って、もうすぐ8年になる。しかし勝二との付き合いよりも、彼の持つ病気との付き合いの方が長かった。しかし、ハルミが勝二の病気を理解したつもりでいたことに気付くのはずっと後のことになる。

 ここでひとつの真実を明かさなければならない。
 坂本ハルミが病院で石川さゆりと宇佐見道彦に語った24歳のクリスマスの夜の出来事に関しては、おおむね真実と言って良い。
 では、ハルミはいったい何を相談室で騙(かた)ったのか。
 それは、自分が偽の病名を騙り内服薬を処方してもらうべく、心療内科で改めて坂本ハルミ自身に「統合失調症」という病名をつけてもらうためだった。
 もちろんこれは犯罪だ。第三者に気づかれれば刑期は免れない。それなのに何故、ハルミは危険を冒してまで7年間もの間、独学で勉強をし、彼の病名を調べ上げながら息子を病院に入れたくはないと懇願する母親の想いを聞き入れ、重い十字架を背負うことになったのか。
 その理由は7年前のクリスマス。勝二の運転する車内にまで遡らなければならない。

「お話というのは、わたしの家族のことなんです」
 ハルミは、ぽつりぽつりと家族のこと、自分のことを話し始めた。
 7年前のクリスマス。山本勝二は坂本ハルミを助手席に乗せ、夜の海沿いを車で走らせていた。
「わたしがまだ小さかったころは、それでもまだ家族の絆みたいなものが感じられていたんです。わたしが小学5年生の時に臨海学校で朝早く家を出る時にお弁当を忘れちゃったことがあって、おじいちゃんが畑に行く時に使ってるバイクを飛ばして、おばあちゃんがお弁当を届けてくれたことがあって」
「え?おばあちゃん?おじいちゃんじゃなくて?」
「うん。おじいちゃんが恥ずかしがり屋だったからおばあちゃんをバイクの後ろに乗せてね、結局お弁当を手渡してくれたのはおばあちゃんだったから。それとね、お父さんとお母さんの結婚記念日なんかね―――」
 ハルミの話を聞くにつれ、勝二はクリスマスらしからぬ話にも関わらず、知らず知らずのうちに引き込まれていった。
 お互いの食べ物の好き嫌いの話もした。その頃にはふたりの口調も少しずつ打ち解けてきていた。
「わたしは家族の好みでもあるんだけど、得意料理は和食。だから自分の好きなものも和食が多いかな。あっ、でも。今夜のイタリアンも美味しかった」
 その気遣いの言葉に勝二は、チラッと助手席のハルミを見ようとしたつもりが、彼女の胸元に目がいってしまい、慌てて運転に集中し直した。
「お、オレも好きだよ、和食」
「ちょっと時期は過ぎちゃったけど、秋はキノコを使った料理が家族のみんなには好評なの」
「キノコ料理と言えばやっぱり、椎茸の肉詰めだよ。もうあれは見てるだけでご飯1杯はイケるね」
「椎茸の肉詰めを見てるだけでご飯を食べられちゃうの?それってもしかして、嫌いってことなんじゃないの?」
「よくわかったね」今度はちゃんとハルミの笑った横顔を見ることができた。
 しかし。たわいもない家族の思わず笑ってしまうような思い出は、すべてハルミが小学校の時代で止まっていた。
「わたしが中学校にあがって間もなく、わたし以外の家族がみんな、病気にかかりはじめて、それで、みんな家族のことよりも自分のこと、病気のことで頭がいっぱいになっちゃった」
 自分の病気のことだけしか考えていない家族なんて、いないんじゃないか。勝二はハルミの話に口を挟みたくなったが、最後まで話を聞くことにした。
「わたしはね、病気を恨んでるの。幸せだった家族をバラバラにしようとする病気。家族みんなが病気になっているのに、どうしてわたしだけが健康なの?家族は支え合うものなんじゃないの?どうして、わたしだけが10年以上もひとりで家族を支えていかなければならないの?そんなの理不尽過ぎるよ!」
 確かに理不尽だ。でもそれはハルミの言い分の方にこそあると勝二は思った。もっと大変な家庭環境はいくらでもあるだろう。けれど自分が人の家庭をとやかく言える立場ではないとも思う。
「わたし、病気になろうと思うの。そしたらきっと、わたしも病気になった家族の気持ちもわかるし、また家族がお互いを支え合えるような気がするの。病気になるためには病気を理解しようと、勉強だってはじめてるんだから」
 病気になるだって…?いくら切羽詰っているからと言って、ハルミの話には説得力がなさ過ぎる。
「たとえハルミさんが病気になったとしても、家族はひとつにはならないと思うけど。それに家族みんなが病気になったら、誰が病院に付き添ったり看病したりするんだよ」
「それはだから、家族が少しずつ助け合うから大丈夫。だから山本さんと付き合うことはできないんです」
 ハルミはそう強引に締めくくって、また口を閉じた。付き合いたいけど付き合うことができない。そういう受け取り方も出来る言い方だった。
前代未聞の話だった。が、勝二は運転よりもハルミの話を理解しようと、取りこぼしがないように必死に頭を回転させた。
「そんなのおかしいよ。家族全員が病気になったからと言って、まとまるわけがない。病気になんかなっちゃ駄目だ。ハルミさんがやろうとしていることは、家族をまとめることなんかじゃなくて、病気に取り込まれることだ。考え直すんだ」
「これしかもう、方法がないの!」
 ふたりの会話は楽しいクリスマスには程遠く、やがて熱を帯び口論となっていた。
 後に、勝二はハルミの本心を理解したが、時はすでに遅かった。
一見、理不尽とも取れるハルミの言葉の裏には、中学生になったばかりの少女が家族を支えなければならなかったという現実の中で、多感な時期を家族に甘え足りなかったのだ。24歳という大人として見られる年齢が苦しくて、自分でも抑えようのない反抗期を迎えている―――。
 ふと24歳という年齢に見合わない幼さを残した横顔に、既視感を覚えたのはなぜだろう。「以前どこかで会ったことは?」などと、可笑しなことを口走りそうになったが、慌ててその言葉を飲み込んだ。
 車を停めてゆっくり話をしよう。そう判断し、勝二が運転に集中しようとハンドルを握り直したその時だった。
 ふたりを乗せた車は、居眠り運転をしていた対向車の大型トラックによって、暗い海へ跳ね飛ばされた。


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第3章へつづく。







 臨床心理士と精神科医が切っても切れない関係であるように、ここ最近、台頭してきた中で「偽薬師(ギヤクシ)」という胡散臭い職業もまた、切り離せない関係となりつつあった。
 では「偽薬師」とはどういった職業なのか。
その前に業務独占と名称独占についてご説明しておかなければならない。
 まず業務独占とは、国家資格においてその有資格者以外の者はその業務を行うことが出来ないとされる、法的規制のことをいう。
たとえば有名どころでいうと、医師や看護師、薬剤師など、他にもめずらしいところでいうとクリーニング師なども業務独占として名を連ねていたりする。つまり資格(免許)がない人がそれに関わる業務をしてはならない、といった意味を持っているのだ。
 次に名称独占についてだが、臨床心理士、介護福祉士や理学療法士、栄養士なども名称独占と呼ばれる職業である。つまりどういうことかというと、栄養士という資格を取得した者は、自分が栄養士であるということを名乗ることはできるが、だからといって栄養士の資格がない者が食事を作ってはいけない法律はなく、介護福祉士の資格がない者が身内を介護してはいけないといった法律も存在しないということなのだ。
 もっと大雑把に言ってしまうと、業務独占の職業はいざという時に強くて、名称独占の職業からすると憧れの的だったりする(これは個人的感想ですのであしからず)。
 そして、ここから先がムカつく話だが、わたしの持っている臨床心理士という資格は名称独占なのにも関わらず、「偽薬師」という職業は歴史が薄っぺらいくせにちゃっかり業務独占の職業に名を連ねているのだ。
 職業名の中に偽物というコトバが入っているにも関わらず、なんという待遇の良さ!しかも忌々しいことに厚生労働省の管轄なのでどうしても仕事上の付き合いが発生してしまうのだった。
 そう。わたしの屈辱的ともいえる日々は、「偽薬師」と名乗る、宇佐見道彦との出会いから始まったのだ。

 わたしが勤務している病院はロイヤルホテルのような作りになっていて、初診の患者はその佇まいに圧倒されるという。インターネットで「豪華 病院」と検索するだけでウチの病院が検索のトップに出てくるという噂があるが、わたしは噂話が嫌いなクチだ。
 ロイヤルホテルのような病院は、別にロイヤルさが売りの病院というわけではない。病院理事長(元院長)は趣味が仕事という御仁で、一時の滞在期間であったとしても、ただただ居心地の良い環境で過ごしてもらいたいという経営理念が災い(?) して、何かの雑誌で今年度の入院したい病院No.1に選ばれてしまったという噂だ。ただし、わたしは噂が嫌いなのだ。
 より良い環境で治療を受けていただく上での数億円もする医療機器の導入であったり、最上階に設置されたオーシャンビューの霊安室であったり、同じ敷地内に動物病院を建てるなど、痒いところに手の届く理事長の配慮は素晴らしいものだと思う。
 しかし優秀な人材集めとなると、話は別だ。
「偽薬師」なる者に何が出来るというのだ。わたしの臨床心理士としての勘が「偽薬師」に対して大きく警笛を鳴らしている。

 病院の食堂で朝食を摂りながら長身の女性がひとりソワソワしている。それがわたし。石川さゆりである。
 何をそんなにソワソワしているのかというと、今日が「偽薬師」宇佐見道彦の初出勤の日であったことと、理事長自ら、忙しい最中、紹介役を買って出たことが理由だった。
 理事長からの紹介を受ける前に朝食を摂るのは失礼かとも思ったが、この時間を逃してしまうと、いつ食事にありつけるかわからない。食事時間は決まっていても、クライアントの話を聞いているうちに予定時間をオーバーするようなことも日常的な現実だった。
 さゆりが味噌汁のお代わりをしようかどうか迷っていたところに、白い顎ひげをたくわえた理事長がひとりの男性を従えて食堂をキョロキョロと見回しているのが目に入った。
「理事長、コチラです!」
 味噌汁の食券を急いでサイフに入れると、さゆりはふたりの元へサンダルが脱げないように慎重に駆け寄った。
「せっかくのお食事中にすまないね」
 島崎理事長の人柄は、内科の医師としてもひとりの人格者としても人望が厚く、さゆりもまたファンのひとりだった。ただし税理士が一時期、理事長室を頻繁に出入りしているのを見た、という噂が広まったことがあったが、これはあくまでも噂の範囲内なので放っておくのが一番というものだろう。
「いえ、わたしの方が出向くべき立場なのに、お時間をとらせてしまって申し訳ありません!」
 さゆりは理事長に向かって深々と頭を下げながら、慇懃無礼になっていないかしらなどと思案した。
「いやそれより。一通りの部署には事前に紹介を済ませていたんだが石川さんには挨拶がまだだったね」
「はい。あの、ちょうど休日だったもので、申し訳ありませんでした」
「いやそんなに頭を下げなくてもよろしい。ほら、彼が噂の偽薬師だ。名前だけは聞いているだろう?」
「はい、お噂は兼々…」

 病院の食堂は患者さんや家族の方もご利用いただけるように開放しているが、食堂自体が2つのフロアに別れており、出入り口も別々に設けられているため、病院スタッフの食堂での会話が外部に漏れるようなことはないのだが、それにしても学生時代にオペラで鍛えた理事長の発声力は迫力があり、つくづく内緒話には適さないと思ってしまう。
「ほら、どうした。石川さんが美人だから照れているのか?」
 理事長が後ろで仏頂面をしている男性に向かってパワハラになり兼ねない発言を投げかけると、仕方なさそうに名刺を取り出し、「よろしく」とぼそぼそ声でさゆりに差し出した。
 初対面のさゆりに対しての態度ならまだしも、理事長を目の前にしてこの礼儀の悪さはなに?と思ったが、顔には出さずに名刺交換を行なった。

 名刺を見ると「偽薬師・宇佐美道彦」とあった。
 さゆりがまじまじと名刺を見つめていると、理事長が補足するように、
「まだできて間もない資格だから知らないのも無理はないと思う。ただしこれからは石川さんとコンビを組んで精神科の先生をフォローアップしてもらいたい」
「…はぁ。コンビですか」
 名刺と顔を交互に見比べながら、宇佐美の顔のつくりを確認すると、目は比較的つりあがっており、それと反比例するように眉毛はハの字で垂れ下がっているため、きつく見えがちな表情を補っている。鼻は典型的な日本人男性とでも言えばいいのか、特に特徴らしいものでもない。特徴といえば両耳が少し潰れて変形していることから、柔道経験者なのかもしれない。口元はぎゅっと結んでいるが気を抜くと、つまり普段は上唇が少し上向き加減なため、アヒル口になると見た。もしかするとそれを見られるのが恥ずかしいために仏頂面をしているのかもしれないと思ったら、さゆりは思わず吹き出しそうになったが失礼になるので何とか堪えた。
 ふと宇佐見を見ると、やはりさゆりの名刺をまじまじと見つめている。
「…石川さゆりって!」
あ、吹き出しやがった。失礼な!

 就職して間もない頃は相手に名刺を渡さねばならない時、さゆりはいつも嫌な思いをしていた。名刺を渡すたびに臨床心理士としてではなく、個人的な感情で相手の顔色をうかがってしまう自分が嫌いだった。時には吹き出され、笑いを堪えられ、名刺を確認した相手がさゆりの名前を確認しても特に表情に出さないとしても、きっと心の中では笑っているのだろうと、邪推したりした。
しかし、ある先輩に演歌歌手と同じ名前はクライアントの心を開くためのキッカケのひとつになると言われ、その日のうちに病院の総務課へ行って名刺の作り直しを依頼し、明朝体の文字を行書体に直して「臨床心理士・石川さゆり」と縦書きで表記するようにした。
 その日から石川さゆりという名前は、笑われる側から笑わせる側へと自分の武器に変わった。

 それなのに宇佐美道彦に名刺を笑われてカチンとくるのは何故だろう。たとえば人に「バカ」と言われて頭にくるのは、自分でも思い当たる節があるから傷口に塩を塗られたような気分になり怒るのだ。しかし普段から自分が「バカ」ではないと思っていたら、「バカ」と言われても、あくまでも相手の認識が違うのだと納得することもできる。
それなのに宇佐美道彦の言葉に、さゆりは納得がいかなかったのだ。
 しかしそれを表情に出すほど、さゆりも子供じみてはいない。それよりもさゆりは宇佐美道彦の名刺を見ながら、ある事実に気づいてしまった。その事実に気づいた途端、今度はさゆりが吹き出しそうになった。
(宇佐美道彦ってつまり…、ウサミミチヒコ…、ウサミミ、ウサ耳ってことよね!)
 これはいつかまたバカにされた時に、あげ足をとってやろう。そう思うとさゆりは突然、目の前の霧が晴れるようにスッキリとするのを感じた。
 なるほど。ウサ耳に笑われたことが悔しかったのか。さゆりは宇佐美の名刺の隣の顔写真にウサ耳をつけたところを想像したりして、勝手に報復したつもりになった。
 ここまでが名刺交換をしてからわずか5秒間の出来事だった。

 顔見知りの看護師がすれ違い様に、さゆりに驚いた様子で声をかけていく。
「あれ?さゆり先生、今日はずいぶん早いご出勤ですね。もしかして朝帰りとか?」
早番出勤の看護師は朝からテンションが高い。返事をするのも億劫だったが、おかしな噂がたっても面倒だったので睨み返そうとしたのもつかの間、当の本人は忙しいらしく、さゆりの相手をする暇なく走って行ってしまった。
 おそらく。いや間違いなく。この時間帯に出勤したのは学生時代から遡ってもはじめてのことだろう。もちろんクライアントが相談室で待っているわけでもない。
 更衣室の中にあるタイムカードを目の前にしたさゆりは、家を出たときは通常の出勤時刻の2時間以上前に来ているわけだから必ず押して特別手当をもらってやろうと思っていたが、結局は押さずにユニフォームに着替えるだけにとどめた。
 さゆりが相談室のドアを開けると、立ち昇る珈琲の良い香りとともに「おはよう。思ったよりも早い到着でしたね」と、にこやかな笑顔があった。
 そこに待っていたのは宇佐見道彦だった。昨日、食堂で顔合わせをしたふたりはその後の予定が詰まっていたため、理事長からの「コンビを組む」という言葉に言及する時間的余裕もなく、またさゆりの仕事も何時に終わるか分からないと告げたところ宇佐見道彦が提示してきた時間と場所が、出勤2時間前の相談室でというものだった。

「相談室での飲食が禁止でしたら、今回だけ大目に見てください」
 そう言って宇佐見道彦はさゆりに珈琲を手渡した。
「ここに来る前に食事は済ませてきましたか?」
「いえ…」
「じゃあブラックは胃に悪いですね。クリープを入れます?それと砂糖も」
 クリープと砂糖の容器に見覚えのあるさゆりは、珈琲をひと口飲んで思い出した。近所のファミリーレストランで目にするものと同じものだ。
 では、珈琲はどこで淹れたのかと思っているところに宇佐見道彦が魔法瓶を取り出した。
「あ、ドアは開けっ放しにしておいてください。少し寒いかもしれませんが早めに暖房を入れてあるので大丈夫でしょう」
 ほぼ初対面であるさゆりに対して、警戒心を持たれたくないという意思表示なのだろう。さゆりも気持ちを汲んで相談室のドアは開け放ったままで備え付けの椅子に腰を下ろした。
「さてと。時間もないことですし、偽薬師の説明からしておきましょう」
 宇佐見道彦はどこから持ち出したのか、A3サイズのホワイトボードと黒いマジックをテーブルの上に乗せると、
「偽薬師には大きく分けて2つの役割があります」
 さゆりに説明をしながらホワイトボードに数字の1と2を書き出した。
「まずひとつ目ですが、これは精神科医の先生や臨床心理士の先生方と同じく、クライアントの話を伺い、その問題の治療もしくはサポートを行います。ここでは精神科医と臨床心理士の違いについては省略します」
 理事長がコンビを組めというくらいだから、自分とまったく違う職種というわけではないことくらい、さゆりも想像できていた。
 さゆりは頷くことで説明のつづきを促した。
「そしてふたつ目。ここからが僕の偽薬師としての専売特許といえる所以なのですが、偽薬師という職業名の中に薬というワードが入っていますよね」
 これまたホワイトボードに「薬」と書き込み、その下に左右斜めを向いた矢印を2本引いた。
「薬の処方にはいくつか種類があって、副作用により日常生活に支障が出る健康被害が生じる可能性のあるものの中で特に注意が必要な医薬品や新規の医薬品、つまり第1類医薬品という薬剤師しか扱うことのできない薬」
 左斜めを向いた矢印の下に薬剤師と書いた後で今度は3本の点線を引いた矢印の先に、第1類医薬品、そして第2類医薬品、第3類医薬品と順番に書き記した。
「そして第2類医薬品と呼ばれる比較的リスクの高い稀に日常生活に支障をきたすおそれがある成分、その中でも相互作用や患者背景などの条件によって健康被害のリスクが高まるものや依存性のある成分に関しては指定第2類医薬品として区別されているのはご存知のことと思いますが、いかがでしょう?」
「ええ、もちろん。風邪薬や解熱鎮痛剤も第2類医薬品に入るんでしょ」
「さすが。補足情報ありがとうございます。ついでに説明しておくと、第3類医薬品とは日常生活に支障を起こすリスクが比較的低い薬のことを指し、薬剤師以外の者、つまり薬局内の登録販売者が扱うことができます」
「でも、ここまでは精神科医と臨床心理士、それに薬剤師の仕事を説明しただけのように感じるけど―――」
 ホワイトボードと宇佐見の顔を見比べながら、さゆりは当たり前の疑問を口にした。
 すると宇佐見は3本の点線の隣に赤いマジックで大きく線を引き下ろし、第4類医薬品と書き出した。
「薬剤師も登録販売者も取り扱うことのできないこの第4類医薬品、これが偽薬師の仕事といえるでしょう」
 確かに宇佐美の言うように、医薬品としては第1類から第3類へと数字が高くなるほどリスクは低くなり、第3類として扱われるビタミン剤や整腸剤などはコンビニでも買うことができる。しかし、第4類医薬品とはいったい―――?
 宇佐見はホワイトボードに書いたものをすべて消すと、今度は赤いマジックで第4類医薬品とだけ書き記した。
「それはいったい、どういう?」
 さゆりのコップと魔法瓶のフタに注がれた珈琲はすでに冷え切っていた。宇佐見はそれをひと口飲むと、
「その前に石川さゆりさん、偽薬というものはご存知でしょう?」
 フルネームで呼びかけられたことは無視して、
「ええ。確か、ラテン語でプラセボ『わたしは喜ばせる』という意味があったと思うけど」
「さすが。勉強してらっしゃる!それなら察しの良い石川さゆりさんのことです。第4類医薬品の意味も自ずと理解されているのでは?」
 宇佐見の決して彫の深くない、端正ともいえない顔に愛嬌を足すと、意外に悪い顔立ちではない。まぁ、さゆりのタイプではないけれど。
「つまり―――、どういうこと?」
「僕たち偽薬師は、クライアントに合わせた第4類医薬品という名のもとに、偽薬を処方する。と、こういうことです」

 時に医師は偽薬を使用し、実際の薬と同等の効果が得られることがあることは、もちろん頭では理解できている。しかし理解することと納得することは違う。偽薬だけでどうにかなるクライアントはほんのひと握りに違いない。一歩間違えれば詐欺と言われても仕方のないことを、宇佐美は実行に移そうと言うのだろうか。
「つまり―――、クライアントを騙すのね?」
「なるほど。そういう正義感を持ち出しますか。僕的には騙しは医療従事者の常套手段だと思うんですが。やはりというべきか、仕方ないというべきか、石川さゆりさん。良いコンビを組む前から決裂ですか。残念ですよ」
 残念と言いながらも、宇佐見の表情は曇るどころか、ニコニコと笑ってさえいる。それを宣戦布告と捉えたさゆりは、
「今すぐここから出て行って。ここはクライアントが唯一安らげる場所。騙していい場所なんかじゃない。出て行ってください!」
 別に正義感を振りかざすつもりなどなかった。けれど宇佐美とでは考え方が対極過ぎる。感情的になっている自分に気付きつつも、さゆりは憤りを抑えることができなかった。
 さゆりは宇佐美が大袈裟にため息をつきながら相談室から出て行くのを見届けてから、早速自分の言動を後悔していた。もっと言えば、宇佐美に啖呵をきっている最中から、さゆりは自分自身をいさめることができないことに苛立ちを感じていた。
 時計に目を向けると1時間半が経過していた。まだ通常の出勤時間には30分の余裕がある。さゆりは電話でアポイントメントを取りつけると、急いで理事長室へ向かった。

 ノックすると「どうぞ」と張りのある声が返ってきた。
「失礼します。理事長、お話があります」
「どうしたんだ、朝から。宇佐美くんのことかね?」
 ソファに座っていた島崎理事長は眼鏡を外し読んでいた文献から目を離すと、さゆりの剣幕に驚いた様子もなく、ゆっくりと立ち上がりさゆりにもソファに座るように促した。
「理事長、あの方の職業は、わたしたち臨床心理士にとって外敵としか思えません!」
「ふむ…」
「わたし、思わず宇佐美さんに出て行ってくださいと言ってしまったんですけど、それは思い違いでした。わたしの発言は結果的に、宇佐美さんを野放しにすることになってしまったのかもしれません。彼は弱みにつけこんで、クライアントを騙そうとしているんです。一刻も早く止めなければ―――」
 さゆりは先ほどまでの宇佐美との遣り取りを一気にまくし立てると、ようやくソファに浅く腰掛けた。さゆりの慌てようとは対照的に、島崎の落ち着き払った態度に、少しだけイライラとしてしまう。「理事長!」
「宇佐美くんはね、まだ偽薬師としては駆け出しなんだ。だから誰かに自分の仕事内容を納得のいくように説明することは難しかったのかもしれない。それに石川さん、偽薬師の仕事は本来クライアントを騙すことではないのだよ。きっと宇佐美くんの説明にはまだ続きがあったはずなんだ」
 そう言われてしまうと、さゆりは言葉が見つからなかった。
「宇佐美くんの仕事内容を一度じっくりと観察してみるといい。私はそれからでも遅くないと思うがね」
 島崎の話を聞きながらさゆりは、自分のあるべき姿を徐々に取り戻そうとしていた。
 そうだ。相手の話をうまく聞き出せなかったことこそが、臨床心理士として迂闊な言動だったと反省するべきだったのだ。

坂本ハルミの周りにはたくさんの病人がいる。
おじいちゃんは胆石で手術したばかりだし、おばあちゃんは右足の付け根にある大腿骨というところを骨折して今はリハビリに通っている。元は低血圧からくる貧血で倒れたんだそうだ。
 それにお父さんが糖尿病で薬を飲みはじめたから、帯状疱疹が再発してしまったお母さんに代って坂本ハルミがお父さんの食事の管理をしなければならない―――、それはハルミが当時中学2年生のことだった。

 ハルミは完璧主義だった。テニス部の朝練のために7時には家を出なければならなかったハルミは、父親のカロリーを考えた弁当と、祖父母用の朝食を作るのにいつも5時起きの生活を続けていた。ハルミを生んでから体を壊してしまった母親も、手伝うと言ってくれたが無理はさせたくなかった。
 イチバン元気なアタシが頑張らなきゃ。家族に心配をかけたくないと、勉強の成績も落としたくなかったし、いつか観に来てもらえることを思い浮かべて、部活の練習も頑張ったおかげで、試合に出させてもらえるようになった。
 何より、ハルミは頑張っている時の自分が好きだった。晩婚の両親からも、自分たちにはもったいないような娘だと口癖のように言われてきたことが、ハルミの頑張りに拍車をかけていた。
 しかしハルミの頑張りに反して、事態は一向に好転しなかった。お父さんは仕事のストレスを家庭に持ち込まない代わりに、毎晩のように深酒をして帰ってきた。ハルミが文句を言ったとしても、薬は飲んでいるし昼は作ってもらった弁当を食べているから大丈夫なんだと自分に言い聞かせるように突っぱねられた。家族を養っているのはお父さんなのだからと、ハルミも強くは言えなかった。父が婿養子だったこともあり、自分だけは絶対的な味方でいてあげたいという想いもあったのかもしれない。
 おばあちゃんはリハビリ病院に通っている他、普段から運動を心掛けていたのが裏目に出て、反対側の左足を疲労骨折してしまった。今度また2度目の手術を隣町の総合病院で受けることになっているが、もう無理はできないと、おじいちゃんは近所の仲間うちに情報を聞き出すと、おばあちゃんの介護認定の申請をするため、市役所に出かけて行った。
 どうしてアタシだけが健康な体に生まれてしまったんだろう。
 どうしてこんなに頑張っているのにアタシだけが元気なんだろう。
 どうして神様は頑張った証拠として、アタシにも病気を与えてくれないんだろう。
 24歳の春。ハルミは家族の世話をする一方で、自分が病気になることを夢見ていた。

 宇佐美道彦を病院へと連れ戻した石川さゆりは、いったんは宇佐美と別れ、午前中に予約を入れているクライエントとの面談を無事に終わらせると、食堂で昼食を摂りながら次第にソワソワしだしていた。
 いまだに得体の知れない「偽薬師」の宇佐美に、自分の大切なクライエントを会わせることで今まで時間をかけて培ってきた信頼を失うような心配はないだろうか。それより。症状が悪化し、せっかくの通院が入院する事態になってしまわないだろうか。
 島崎理事長が、さゆりと宇佐美にコンビを組ませようと言うから仕方なく協力するつもりではいる。けれどもし宇佐美が少しでもクライエントの症状を悪化させるような言動を取るようであれば、わたしが全力で守らなければならない。
 さゆりは悲壮な面持ちで唐揚げ定食を平らげた。
 宇佐美とこれから一緒に面談するクライエントの名前は坂本ハルミ。32歳の女性で未婚。隣町で家族と同居をしている。坂本ハルミのアセスメントシート(病歴、生活歴等の情報)は午前中のうちに宇佐美に渡してある。
 アセスメントを確認した上で、ハルミの面談時間前に偽薬師としての見解と援助方法を宇佐美から聞くことになっていた。

 現在、坂本ハルミは精神科医指示のもと、薬の処方をしているため、本来であれば担当医師の許可なく、部外者ともいうべき宇佐見をクライエントにリエゾン(紹介)することなど言語道断である。
 しかし、今回は理事長のお墨付きをもらってしまっているので、さゆりが担当医師に事情を説明すると、いとも簡単に許可が降りてしまった。
 どこの業界でも権力者には従わないと、目下の者は淘汰されてしまいかねないといったところか。
 唐揚げ定食を食べ終わったのを見計らったかのように、さゆりにとっての頭痛の種がニコニコしながら近寄ってきた。
「お疲れ様です、石川さゆりさん。確かにこのクライエントはなかなか興味深いと思いました」
 仮にも、医療従事者を名乗る者がクライエントに対して興味深いとは何て言い草だ。分かっている。この男はわたしを怒らせようとしている。宇佐見の術中に嵌ってはいけない。
「クライエント名、坂本ハルミ。病名、統合失調症。なるほど、中学2年生の時から家族の精神的な柱になっていたんですね。病気になる以前の性格は完璧主義といえるくらいの出来の良さ。なるほど。中学2年から約10年間、毎日変わらず家族を支え続けてきた、と。興味深いのは本人からの聴取の中で、自分にもがんばったご褒美として、‘病気が欲しいと思ったことがある’と話した点ですね」

 場所はクライエントの相談室の向かいにある会議室。普段はこの8畳ほどの広さがある会議室でクライエントのための会議を開いている。
 だが今はテーブルに向かい合ったさゆりと宇佐見の2人がキャスター付きの椅子に座り、約束の時間を気にしながら情報提供の場として使用していた。
 ちなみに会議室の隣が精神科医の診察室になっているが、午後の診察まではいつもの休憩室で3杯目のコーヒーを飲んでいる頃だろうか。
「幻聴に気付いたのは24歳のクリスマスを迎えた辺りからだそうです」
 さゆりが答えると、
「24歳のクリスマス?ずいぶん具体的な日にちまで覚えているものですね」
 驚いた様子で宇佐見がしきりに首をかしげた「その日に何かあったのかな」
「クリスマスに何があったのかまでは分かっていませんが、最初に聞いた幻聴は‘馬鹿野郎’だったそうです」
「馬鹿野郎、か。でも幻聴が聞こえるとクライエントが言っているってことは、今ではその‘馬鹿野郎’って言葉が他の誰が言ったでもなく、幻聴なんだと捉えられてはいるってことですよね」
「そういうこと。今では坂本さんはご自身の病名や症状といったものを把握されています」
 自分に降りかかった病気を理解すること。心の病はその人の育った環境や現在の境遇、置かれている立場によって様々な症状を来たすため、本当の意味で自分の病気を理解するというのは難しい。そして病気を理解するために協力してくれる人たちが最も重要なクライエントにとっての居場所となる。
 時間ギリギリまでディスカッションした後で宇佐見は、目の前の冷めたブラックコーヒーを飲み干して、
「ひとつ質問なんですが、クライエントの病名は統合失調症、でよろしいんですか?」
 臨床心理士は形式や常識にとらわれてはいけない。柔軟な発想で価値観を見出すことで、はじめてクライエントと向き合うことができる。そのことを常日頃から心に留めている石川さゆりの穏やかな心の波を、この男はいとも簡単にざわつかせるようなことを言う。
「ちょっと!」
 さゆりのその言葉をさえぎるように、看護師から呼び出しがかかった。
「坂本さんがお見えになりました」




第2章へつづく