湯治場 | 口遊〜鳴きウサギ〜

口遊〜鳴きウサギ〜

生きる為に 息をするのを忘れていた
わたしのまわりが 息をするには狭すぎる
野々草を摘んで 口遊みなが ゆっくり ゆっくり歩きたい
勝利者とは誰のこと?
居心地の悪いところに居たくはないの

ー湯治場ー

鄙びた旅館に 火が燈る
夕陽は とっくに山の向こうへ消えてしまって 夕陽と似たような色をしちゃいるが なんとも小さな行燈の火じゃあないかえ・・・

伊勢詣でなんか初めてだから 張り切って出かけたけれど 女一人旅はやはり心細い
もう怖がるような年でもないし そう言ってみんなの願い事を どんと引き受けて来てはやったが・・・美津は少し後悔している

(やっぱりひとりでくるんじゃなかった 隣りのお秀を誘えばよかった・・・)
今さら言っても 後の祭り・・・

お美津は 山をなんとか越えおおせたことに安堵しながら それでもまだ小さな温泉宿で草鞋を脱いだことにいちまつの不安を憶えたのだ

山の木々はそろそろ色付き初めて 夜ともなれば薄い木綿じゃあ 肌寒い・・・
宿の火ばちに寄り添うように 今日は数人の泊り客が膝を寄せ合っている

持ち合わせた路銀が少ないからしょうがないけれど 泊まった木賃宿のあんまりの薄気味悪さに辟易しながら せっかくの湯殿まで行くのさえ 憚られる始末・・・

それでも 旅の疲れは取りたい

「やれ 風呂でも借りようか・・・」美津は ひとり呟いた 誰かに聞こえるくらいの声で・・・それを聞いて みんなギョッとした顔をする なんだい・・・?どういうことだい?

手拭を持ち 部屋を出ようとしたとき ひとりの女が声をかけた
「ちょっと およしよ・・・湯に浸かるのは・・・」

「なんでさ?あたしゃ 足が疲れたんだ みんな行かないのかい?」

「・・・」

薄暗い行灯の部屋 火鉢を囲んだ人々の顔は あんまりよく見えない どんな表情をしているのか?

「なんだいなんだい・・・押し黙ったまんま お通夜みたいに湿っぽいね・・・まさか風呂が取って食うわけでもあるまいし・・・」

「そのまさかさ・・・まあ ある意味通夜だねぇ…」

数人が口々に言う 頷く

すると最初に声掛けてきた女が言う

「この宿・・・あたしゃ四度目さ 行商だからしょうがない ここに当たった日にゃね・・・
けど だれか死ぬんだよ しかも湯でね・・・」

「まさか・・・」

「今夜 あんたが行くんなら・・・その後は安心だよ・・・ひとり犠牲になりゃいいからね」

「ば・・・ばかなことお言いじゃない・・・じゃ何かい?この湯は生きて飯の変わりに人でも食うってのかい?」

「・・・」

「お客様・・・湯の仕度が整って御座います よろしければ どうぞ・・・」

その時 宿の気味の悪い番頭の声が 重苦しい空気を更に重くする・・・

「行ってやらあ!湯だろ!たかだか湯じゃあないか!」

「あれあれ 理由を知らないお人がここにも居たよ
よしなって言っても 誰か行くんだ そんな風に出来てる」

やくざ風の男が すくっと立ちあがり部屋を出た

みんなが微かに 蠢いた気がした。

それから…
どの位時間が経ったろうか・・・

「ぎゃあ!!!」という悲鳴とともに水音がした そしてそれきり 鎮まった

部屋に残った数人が のろのろ支度を始める
合図を受けたように…
「さあ 湯に行くかえ・・・」

そこに居合わせたみんなが 動きだす 手に手に手拭いを持って・・・

美津は 恐ろしいけれど そのまま部屋に残るのも恐ろしいので その行列に加わった・・・

湯殿へ渡る廊下から ふと 階下の裏木戸を見ると 夜の闇の宿の使用人たちが 先刻のやくざ者の遺体に筵を掛けて運び出すところだった

その男の顔がちらりと見えたとき
「ひ!!!」美津は 叫んだ
さっき部屋を出た男とは思えないほど 骨と皮のようになっていたから…

するとさっきの行商の女が ぎこちない足取りで近づいてきて 美津に耳打ちした。

「だけどね・・・ここの湯・・・誰かが死んだ後は 万病に効くというほどいいお湯になるんだよ・・・もっとも効果が高いのは若い威勢のいい人が亡くなったときの方がいい湯になる 今夜はいいよ 意気がいいからね・・」

さっきの女が意味ありげに 嬉しそうに笑った

「あたしなんざ 行商の山道で足を悪くしたんだが こうしてここに通うようになってほら このとおり治っちまって・・・もう平気さ・・・」

見せてくれた足は奇妙な形で歪に曲がったまま動いていた ほかの人々の顔や身体にも痣や火傷あるのだが 痛みなんか無いという・・・

美津は また 悲鳴を上げた・・・

「あ・・・あたしは 湯はいいよ・・・も・・・もう寝るよ・・・」

「あらま そうかえ いい湯だよ…ほほほ」

渡り廊下からみんなが手招きをするけれど 美津は湯の怖さより 人々がたった今死んじまった湯に浸かり 病を治すことに勤しむそれの方がもっともっと怖かった

美津は明る朝 一番鳥が鳴くやいなや 宿を後にした 二度と後ろも振り返らずに…

それから美津は何度も湯の名前を思い出そうとしたけれど 怖さのあまり どうやら記憶に蓋をしちまったようで あの夜のことはそれぎり思い出さない…