そんなことをしていたから、優柔不断であったし、当然ながら責任感はないし、責任ある立場になったとしても、全く相応しくない存在だった。
それに何事においても、自分都合で、物事をいい風に考え、直面する問題から、目を背けていてばかりで、そして、できる限り難しい問題からは、あれこれ理由をつけて、逃げてばかりだった。
だから、何人もの自分より年の若い人の期待をいくつも裏切ってきた。
でも、そうしなくては、うまく生きていけない現実もあったことも、紛れもない事実であった。
本当は、そうしたいけど、そうできない、もどかしさを感じることも、しばしばあった。
時は流れ、歳を重ね、不惑の40歳に到達してからは、今までの自分とは決別して、見て見ぬふりをすることをやめた。
そうすることで、何が変わったか。
何事にも逃げない自分に変わった。
許容範囲が拡大し、遠くまで目が行き届くようになった。
時間がないことを、やらない要因にしなくなった。
自分が見てしまったことは全て、自分の責任、自分のやることだと思うようになった。
改めて、見て見ぬふりをすることを良くないことである。
聞こえているのに聞こえないふりをすることも同じこと。
知っているのに知らないふりをしているのも同じこと。
見ているのなら、聞いているのなら、知っているのなら、それに真っ正面から、ぶつかっていくべきである。
それを自分がやらないことで、他に誰かやる人はいるのだろうか。
俺は、そんな人はほとんどいないと思うし、やるのは、やれるのは、やらなきゃいけないのは自分だと思っている。
見て見ぬふりをしたいのなら、見ないようにするべきだし、聞きたくないのなら、聞かないようにするべきだし、知りたくないのなら、知らないようにするべきだと思う。
でも現実問題、そううまく行くことはない。
だから、見て見ぬふりをするのではなく、見たら、やるのだ。
聞いたら、やるのだ。
知ったら、やるのだ。
こういう人間こそ、社会で必要とされる存在であり、みんなから本当に信頼される存在なのだ。
見て見ぬふりをする生き方は、もったいない生き方である。