見て見ぬふりをしない生き方 | 哲史の部屋

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たった一度きりの人生なので、後悔なく、おもいっきり楽しく生きたいもの。そのために、こんな考え方、あんな考え方もあるってことをたくさん語っていきたいって思っている。

ある時まで、俺は見て見ぬふりをしていた、どうしょもない人間だった。

そんなことをしていたから、優柔不断であったし、当然ながら責任感はないし、責任ある立場になったとしても、全く相応しくない存在だった。

それに何事においても、自分都合で、物事をいい風に考え、直面する問題から、目を背けていてばかりで、そして、できる限り難しい問題からは、あれこれ理由をつけて、逃げてばかりだった。

だから、何人もの自分より年の若い人の期待をいくつも裏切ってきた。

でも、そうしなくては、うまく生きていけない現実もあったことも、紛れもない事実であった。

本当は、そうしたいけど、そうできない、もどかしさを感じることも、しばしばあった。

時は流れ、歳を重ね、不惑の40歳に到達してからは、今までの自分とは決別して、見て見ぬふりをすることをやめた。

そうすることで、何が変わったか。

何事にも逃げない自分に変わった。

許容範囲が拡大し、遠くまで目が行き届くようになった。

時間がないことを、やらない要因にしなくなった。

自分が見てしまったことは全て、自分の責任、自分のやることだと思うようになった。

改めて、見て見ぬふりをすることを良くないことである。

聞こえているのに聞こえないふりをすることも同じこと。

知っているのに知らないふりをしているのも同じこと。

見ているのなら、聞いているのなら、知っているのなら、それに真っ正面から、ぶつかっていくべきである。

それを自分がやらないことで、他に誰かやる人はいるのだろうか。

俺は、そんな人はほとんどいないと思うし、やるのは、やれるのは、やらなきゃいけないのは自分だと思っている。

見て見ぬふりをしたいのなら、見ないようにするべきだし、聞きたくないのなら、聞かないようにするべきだし、知りたくないのなら、知らないようにするべきだと思う。

でも現実問題、そううまく行くことはない。

だから、見て見ぬふりをするのではなく、見たら、やるのだ。

聞いたら、やるのだ。

知ったら、やるのだ。

こういう人間こそ、社会で必要とされる存在であり、みんなから本当に信頼される存在なのだ。

見て見ぬふりをする生き方は、もったいない生き方である。