非難されると、途端に非難している相手を、非難したくなる。
非難することに、あるいは、非難されることに、異常な嫌悪を感じる。
非難している人が正しいかどうか分からないのに、その非難したこと自体に、怒りを感じ、また、非難する相手を恨む。
でも、同じその非難と思える言葉に腹を立てない人がいることも、事実だ。
非難されたと思う人は、非難されたと思う人自身の中に、そのことで、すでに、自分を裁いている(非難している)から、相手からの言葉を非難だと受け取ってしまう。
自分の中に、それが悪いといって裁く心がなければ、非難として受け取らない。その人は、同じ言葉を聞いても、非難と受け取らない。
どこで、それが悪いことだと受け取ってしまったのだろう。どこかで、非難されても仕方のないことだと、受け取ってしまったはずだ。
自分は、なぜ、そのことを非難されても仕方のないことと、受け取ってしまったのだろう。
津留晃一さんが言われるように、非難と受け取った時が浄化のチャンスとしてとらえたい。
なぜ、なぜ、を繰り返し、そのことに、浄化のエネルギーを注ぎ、昇華させるチャンスととらえ、浄化して行きたい。
そして、自分自身を非難しない人間になりたいと思う。
それでは、今日はこの辺で
また明日お会いしましょう。
モノを人に頼めない人がいる。
嫌われることを怖れるのか。
自分には、価値がないと思っているのか。
断れれるに決まっている。
きっと、頼まれたらいやだろう。
俺は、頼まれたら嫌だ。
そうか、自分の場合が、頼まれたら、嫌なのだ。
モノを人に頼む人がいる。
頼める(頼むことができる)では無く、単に『頼む』人である。
当然意識では、ワザワザ『頼める』とは言わない。
ただ、『頼む』である。
また、すべての人が、頼まれごとを、嫌だと思っている訳ではないことを知っていた方がいい。
そして。自分の場合も、頼まれごとを行うことを喜びと感じることがあることを思い出そう。
営業の神様、加賀田晃先生が言っていた。
『売る』(加賀田先生の言い方では『う~る!』)
であり、『売ることができる』
とは言わない。『売ることができる』だと、
できない(『売れない』)可能性を見ている。
『売る』は、疑いをさしはさんでいない。
『売る』の当然意識になるにはどうするか。
達成した時の実感を常に持つことも一つのテクニックとして。
その感覚を味わい、慣れる。
ということで、『売る』という感覚を養うことができる。
当然意識として効いてくる。
簡単な目標を設定し、何かを達成したとき、
常に、『やった、達成した~』と大げさに喜び、
その時に、『やった~、売った~』
とか『やった~頼んだ~』
…と大げさに喜ぶことにしよう。
その簡単な目標は、毎日、ご飯を食べることでもいいかもしれない。
また、毎日、はき掃除をした。ということでもいいかもしれない。
また、毎日、顔を洗った、ときでもいい。
ことあるごとに、
『やった~、頼んだ~』
『やった~、売った~』と、
その感覚に慣れていくことも、一つの手段だ。
いままでは、その逆に慣れてきたのだ。
『売れるわけがない』という感覚に…
今から始めよう。『売る』に慣れる感覚。
『頼む』に慣れる感覚を…
シミュレーションして…
何度もなんどもシミュレーションして、慣れてみよう。
それでは今日は、この辺で…
また、明日、お会いしましょう。
PSちなみに、加賀田晃先生は、売るのは、
相手のため、決して、自分のために売るのではない。
自分のために売る。のは、浅ましい。とおっしゃっていた。
相手のためを思うから、『売る』『う~る!』ができるのだ。
と言っていました…
嫌われることを怖れるのか。
自分には、価値がないと思っているのか。
断れれるに決まっている。
きっと、頼まれたらいやだろう。
俺は、頼まれたら嫌だ。
そうか、自分の場合が、頼まれたら、嫌なのだ。
モノを人に頼む人がいる。
頼める(頼むことができる)では無く、単に『頼む』人である。
当然意識では、ワザワザ『頼める』とは言わない。
ただ、『頼む』である。
また、すべての人が、頼まれごとを、嫌だと思っている訳ではないことを知っていた方がいい。
そして。自分の場合も、頼まれごとを行うことを喜びと感じることがあることを思い出そう。
営業の神様、加賀田晃先生が言っていた。
『売る』(加賀田先生の言い方では『う~る!』)
であり、『売ることができる』
とは言わない。『売ることができる』だと、
できない(『売れない』)可能性を見ている。
『売る』は、疑いをさしはさんでいない。
『売る』の当然意識になるにはどうするか。
達成した時の実感を常に持つことも一つのテクニックとして。
その感覚を味わい、慣れる。
ということで、『売る』という感覚を養うことができる。
当然意識として効いてくる。
簡単な目標を設定し、何かを達成したとき、
常に、『やった、達成した~』と大げさに喜び、
その時に、『やった~、売った~』
とか『やった~頼んだ~』
…と大げさに喜ぶことにしよう。
その簡単な目標は、毎日、ご飯を食べることでもいいかもしれない。
また、毎日、はき掃除をした。ということでもいいかもしれない。
また、毎日、顔を洗った、ときでもいい。
ことあるごとに、
『やった~、頼んだ~』
『やった~、売った~』と、
その感覚に慣れていくことも、一つの手段だ。
いままでは、その逆に慣れてきたのだ。
『売れるわけがない』という感覚に…
今から始めよう。『売る』に慣れる感覚。
『頼む』に慣れる感覚を…
シミュレーションして…
何度もなんどもシミュレーションして、慣れてみよう。
それでは今日は、この辺で…
また、明日、お会いしましょう。
PSちなみに、加賀田晃先生は、売るのは、
相手のため、決して、自分のために売るのではない。
自分のために売る。のは、浅ましい。とおっしゃっていた。
相手のためを思うから、『売る』『う~る!』ができるのだ。
と言っていました…
人に言っていることを、まず自分がしなさい。
そして常に意識して発言し、行動しなさい。
昨日の夕食中に高3の三女が突然、
『だいぶ寒くなったから、通学するのにコートを着たい。
(家内に出してほしいといわんばかりだ)』と言い出した。
私は、
『(急に唐突に、言っても、どこに仕舞ったのか探すのに大変だろうし、妻の性格じゃ、どうしても出してやろう、と、一生懸命探すだろう。
もう少し、余裕をもって、お願いすればよいのに…失礼じゃないの?)
自分で出しなよ。』と言った。
まるで、出してくれと言わんばかりの発言にカチンときたのだが…なぜ、瞬時にカチンときたのかは、定かではない。
(定かでないと、今思っていること自体も、問題だ。
無意識に流してしまっている。
自分が反応するところを注意してみていて、
反応したと思ったら、なぜなぜ、と繰り返すんだった。
そして、答えを出さないでください。
…と、津留晃一さんが言っていた。
答えを出すと、問題を解決したと思って、集中を止めてしまうから…
集中を止めてしまうと、浄化のエネルギーが途絶えてしまう…
なぜなぜ、と…自分が反応しているところを見つめていると
そのエネルギーがその反応しているところに集中して
そのエネルギーが、反応している元となっている、
過去のブロック?を浄化してくれると言っていた。
ように記憶している)
ところが、今朝、家内に自分が、
『そろそろ職場で、防寒着を着たいなぁ。昨日は、すっごく、寒かったんだぁ』
と、何気無く、一言、言った。
そして、昨日、自分が三女に言った発言をすっかり忘れて、
自分が娘を注意した同じ内容のことを家内に話していた。
(まるで、どこにあったんだっけ、
知ってたら教えてくれる。
あわよくば、出してくれないかなぁ)
という感じだった。
家内から、
『昨日の自分が、いったことわすれてるの』と聞かれ、
すっかり忘れていることに気が付いた。
『みんな、そうだけど、無意識に人をコントロールしようとしている。
んじゃない?
注意して見た方がいいよ。』
と、たしなめられた。
『家に帰ってきて、愚痴を言うのもそう。
無意識に人をコントロールしているって、ことなんじゃないのかな』
とも言っていた。
…そうかもしれない。
同調してもらって、安心を得る。
何か得られるものはあったのか?
…というと、何もない…
今後は、何気なく、出てくる言葉の裏に何がかくれているのか。
も、常に、意識して行動、言動に注意を払っていきたい。
そのためには、ながら作業をできるだけ止めていこうと思う。
ながら作業は、無意識の自動運転にこの身を任せ、意識的な行動でなくしてしまうからだ。
今後はできる限り、常に、意識的に行動することを心がけていきたいと思う。
と言う。朝の出来事だった。
それでは、今日は、この辺で
また明日お会いしましょう。
恨みというのは、なんと長引くものだろう。
よく後生大事に、54歳になった今まで、そんなものを持ち続けたものだと思う。
やっと手放す時が来た。
ついこの前までは、僕は、母に対して恨みを抱いていた。
父は、帰りが夜遅かったので、あまり思い出がないのだが…
ただ、よく勉強しないといっては、怒られた記憶があるものの、これといって明るい思い出もない。
幼いころ、わたしは母から、よく叩かれた。
小学校低学年のころだったか、理由は忘れてしまったが、毎日のようにパンツをムカレ生の尻をスリッパか布団たたきで叩かれた。
手でたたくと、手が痛くなるからだ、と言っていた。
毎日というのは大げさだが、週に2回はあったのではないか…
スリッパも痛かったが、布団たたきは、特に痛かった。
叩かれたところが、ミミズ腫れになるのではないかというぐらい痛かった。
当時は、都営住宅と言って、5軒程度の長屋風の住宅に住んでおり、
毎晩のように、叩かれて、泣き叫ぶ声で、近所迷惑ではなかったかと思うくらい頻繁に叩かれた。
妹も叩かれたと思うが、妹の方が優遇されており、まだ救いがあった。
妹には、母がピアノのレッスンをつきっ切り見てやったり。
妹は、活発だったため、学校でも人気があり、勉強もよくできた。
勉強の面で、よく妹と比較された。
妹はできるのに…という感じであった。
いまだに覚えているのは、
夏休みの昼頃だったと思うが、買い物に出かけるときに、
それまで勉強しなかったためだったか、
母と妹だけで買い物に出かけて行った
おれはと言うと、叱られた後に、犬のように首にひもをつけられ
もう一方の端を柱に縛られ、ワンと鳴けと言われて
鳴きながらワンと鳴いて、出ていく母たちを見送った
自分が情けなくて、ひもにつながれたまま、くやしくてくやしくて、情けなくて、情けなくて泣いていた。
さすがに、心配になったのか、途中で引き返してきた母と妹と、一緒に出掛けたのだが…
私は、勉強もできず、取り柄がなかった。
2才違いの妹は、本人のたっての希望で幼稚園からピアノ始めたが、
多少才能もあったのか、ピアノで音大に行って、今でも、自宅でピアノを教えている。
音大に通うぐらいであるから、一日に5時間も6時間もレッスンするが、その分こちらは、うるさくてうるさくて、勉強に集中するどころではなかった。(それがなかったら、集中できたかどうかはわからないが…)集中できていれば、勉強もできたのにと…こちらも、妹に恨みをもつ原因の一つになっている。
今では、いろいろな方法で防音して集中することもできるのだが…
また、小学校のころは、5時から8時まで机に向かうように仕向けられた。
3時間は毎日勉強しろということだった。
ただ、机に向かっても、勉強する気にもなれず、ぼーっと机に向かうだけで、何もせず無駄に時間を過ごしていた。
自分が勉強ができないのは、妹や妹を優遇する母のせいだ。と思っていた。
自分が出世できないのは、そういう過去があるからだと思い込んでいた。
最近でも、恨みは消えていなかった。むしろ、ますます強くなる一方のようだった。
最近、家内に言われて思い出した。
小嶋先生に母のがん手術の予後の相談をしたことがあったが、
その時に、お母さんと母の父親との関係で何かあったんじゃないですか
その話を聞いたことはありませんか…と
祖父と母の関係について特別聞いたことはなかった。
ただ、もしかしたら、私と同じように、祖父に恨みを持っていたのかもしれない。
それが元の原因となり、子供に暴力を振るうようになったかもしれない。
もし、そうだとすれば、そんな暗い過去が影響しているのだとすれば…
自分と同じ思い、あるいは、もっとつらい思いをしているかもしれない。
そのことも聞かず、一方的にずいぶん昔のこと…40年以上も前のことを引きずっていた。
何にでも、原因がある。それを聞いてくっる人はいなかったかもしれない。
幸い私の場合は、そんな、過去の他人に離せないような、恥ずかしいほどの愚痴を聞いてくれる理解ある妻がいる。
今改めて、なんと幸せなんだろう。と思う。理解ある妻に心より感謝です。
母は、聞いてくれる人もいなく、一人で抱えていたかもしれない。
そして、それを抱えていることすら知らずに、心の奥底のわだかまりとして残しているかもしれない。
そう考えると、母が哀れに思えてきた。
思いは、俺と同じだったかもしれない。…
というのは、思い起こせば、自分も3人の娘に暴力を振るってきた。特に一番被害を被ったのは、長女だと思う。
暴力を振るうのは、そのためかどうかはわからないが、多少なりとも因果関係はあるのではないかと思う。
母は、聞いてくれる人がいなかっただろう…
今度、母の話を聞いてみたいと思う…
今日は、この辺で
また、明日、お会いしましょう。
よく後生大事に、54歳になった今まで、そんなものを持ち続けたものだと思う。
やっと手放す時が来た。
ついこの前までは、僕は、母に対して恨みを抱いていた。
父は、帰りが夜遅かったので、あまり思い出がないのだが…
ただ、よく勉強しないといっては、怒られた記憶があるものの、これといって明るい思い出もない。
幼いころ、わたしは母から、よく叩かれた。
小学校低学年のころだったか、理由は忘れてしまったが、毎日のようにパンツをムカレ生の尻をスリッパか布団たたきで叩かれた。
手でたたくと、手が痛くなるからだ、と言っていた。
毎日というのは大げさだが、週に2回はあったのではないか…
スリッパも痛かったが、布団たたきは、特に痛かった。
叩かれたところが、ミミズ腫れになるのではないかというぐらい痛かった。
当時は、都営住宅と言って、5軒程度の長屋風の住宅に住んでおり、
毎晩のように、叩かれて、泣き叫ぶ声で、近所迷惑ではなかったかと思うくらい頻繁に叩かれた。
妹も叩かれたと思うが、妹の方が優遇されており、まだ救いがあった。
妹には、母がピアノのレッスンをつきっ切り見てやったり。
妹は、活発だったため、学校でも人気があり、勉強もよくできた。
勉強の面で、よく妹と比較された。
妹はできるのに…という感じであった。
いまだに覚えているのは、
夏休みの昼頃だったと思うが、買い物に出かけるときに、
それまで勉強しなかったためだったか、
母と妹だけで買い物に出かけて行った
おれはと言うと、叱られた後に、犬のように首にひもをつけられ
もう一方の端を柱に縛られ、ワンと鳴けと言われて
鳴きながらワンと鳴いて、出ていく母たちを見送った
自分が情けなくて、ひもにつながれたまま、くやしくてくやしくて、情けなくて、情けなくて泣いていた。
さすがに、心配になったのか、途中で引き返してきた母と妹と、一緒に出掛けたのだが…
私は、勉強もできず、取り柄がなかった。
2才違いの妹は、本人のたっての希望で幼稚園からピアノ始めたが、
多少才能もあったのか、ピアノで音大に行って、今でも、自宅でピアノを教えている。
音大に通うぐらいであるから、一日に5時間も6時間もレッスンするが、その分こちらは、うるさくてうるさくて、勉強に集中するどころではなかった。(それがなかったら、集中できたかどうかはわからないが…)集中できていれば、勉強もできたのにと…こちらも、妹に恨みをもつ原因の一つになっている。
今では、いろいろな方法で防音して集中することもできるのだが…
また、小学校のころは、5時から8時まで机に向かうように仕向けられた。
3時間は毎日勉強しろということだった。
ただ、机に向かっても、勉強する気にもなれず、ぼーっと机に向かうだけで、何もせず無駄に時間を過ごしていた。
自分が勉強ができないのは、妹や妹を優遇する母のせいだ。と思っていた。
自分が出世できないのは、そういう過去があるからだと思い込んでいた。
最近でも、恨みは消えていなかった。むしろ、ますます強くなる一方のようだった。
最近、家内に言われて思い出した。
小嶋先生に母のがん手術の予後の相談をしたことがあったが、
その時に、お母さんと母の父親との関係で何かあったんじゃないですか
その話を聞いたことはありませんか…と
祖父と母の関係について特別聞いたことはなかった。
ただ、もしかしたら、私と同じように、祖父に恨みを持っていたのかもしれない。
それが元の原因となり、子供に暴力を振るうようになったかもしれない。
もし、そうだとすれば、そんな暗い過去が影響しているのだとすれば…
自分と同じ思い、あるいは、もっとつらい思いをしているかもしれない。
そのことも聞かず、一方的にずいぶん昔のこと…40年以上も前のことを引きずっていた。
何にでも、原因がある。それを聞いてくっる人はいなかったかもしれない。
幸い私の場合は、そんな、過去の他人に離せないような、恥ずかしいほどの愚痴を聞いてくれる理解ある妻がいる。
今改めて、なんと幸せなんだろう。と思う。理解ある妻に心より感謝です。
母は、聞いてくれる人もいなく、一人で抱えていたかもしれない。
そして、それを抱えていることすら知らずに、心の奥底のわだかまりとして残しているかもしれない。
そう考えると、母が哀れに思えてきた。
思いは、俺と同じだったかもしれない。…
というのは、思い起こせば、自分も3人の娘に暴力を振るってきた。特に一番被害を被ったのは、長女だと思う。
暴力を振るうのは、そのためかどうかはわからないが、多少なりとも因果関係はあるのではないかと思う。
母は、聞いてくれる人がいなかっただろう…
今度、母の話を聞いてみたいと思う…
今日は、この辺で
また、明日、お会いしましょう。
いつも同じことが起こる。
私は、転職して2回会社を変わった
今、勤めているところは、三社目だ。
一社目は、実質、最後に上司と喧嘩して辞めた。
一社目では、何度か異動したが、どこの職場でも
上司との折り合いが、わるかった。
二社目は、100人程度のIT会社だったが、
こちらも社長に反発して折り合いが悪くなった。
最後には、和解して辞めたつもりだったが、
和解しきれていなかったかもしれない。
三社目の今は、50人弱の自動車部品の生産を行っている会社で
今回は、やはり、実質の会社の代表者と喧嘩をしている。
相手は、顧問弁護士を雇って、言いがかりをつけてきて、
わたしを事務職から、現場の作業者へ配転を命じ、
現在、労働審判(労働問題に関する簡易的な裁判)
に向けて、準備中である。
どうしてこう、同じようなことが起こるのだろうか…
昨日、家内から、自己評価が低いからなんじゃない…
と言われた。
言われたときは、ショックを受けた。
えぇー。そんなこと~
(…あるかもしれない…)
(…あるかもしれない…)
(……)
(……)
果たしてそうだろうか…
…確かに、そういうところがあるかもしれない…
いや、確かにある。
心の奥底では、
自分は、会社でうまくいくはずがない。と思っている。
仕事の割に、多くもらいすぎている。
自分には、価値がない。
価値がない人間が、給料を沢山もらっては、
他の自分より給料の低い人に申し訳がない。
自分だけ、早く帰ってはいけない。
現場の作業者が残っているのに、自分だけ先に帰ってはいけない。
常に申し訳ない。申し訳ない。と思っている。
そんな心の状態だから
不幸な状態の方が居心地いいのだろう。
また、不幸な状態を作り出して、文句を言える方が、
精神的に楽なのかもしれない。
罪悪感があるため、幸せになっては、いけない。と思っている。
他人よりも、優越な状態は、居心地悪い。
何か言われても仕方がない。
幸せな状態だと、孫悟空の頭の輪が、締め付けて来て
居てもたってもいられなくなるのかも…。
結局、自作自演というこだった。
今後は、居てもたってもいられなくなった時がチャンス
その時の心の動きを、今後は、見つめて見ようと思う。
そういう人が、自分の中にもいるということ、
その人は私ではないけれど、
私の生活に影響を及ぼしている。
今後は、逃げ出さずに、その起きてきた感情を
見つめることで、エネルギーを与え、
昇華させていきたい。
それでは今日は、この辺で
また明日お会いしましょう。
私は、転職して2回会社を変わった
今、勤めているところは、三社目だ。
一社目は、実質、最後に上司と喧嘩して辞めた。
一社目では、何度か異動したが、どこの職場でも
上司との折り合いが、わるかった。
二社目は、100人程度のIT会社だったが、
こちらも社長に反発して折り合いが悪くなった。
最後には、和解して辞めたつもりだったが、
和解しきれていなかったかもしれない。
三社目の今は、50人弱の自動車部品の生産を行っている会社で
今回は、やはり、実質の会社の代表者と喧嘩をしている。
相手は、顧問弁護士を雇って、言いがかりをつけてきて、
わたしを事務職から、現場の作業者へ配転を命じ、
現在、労働審判(労働問題に関する簡易的な裁判)
に向けて、準備中である。
どうしてこう、同じようなことが起こるのだろうか…
昨日、家内から、自己評価が低いからなんじゃない…
と言われた。
言われたときは、ショックを受けた。
えぇー。そんなこと~
(…あるかもしれない…)
(…あるかもしれない…)
(……)
(……)
果たしてそうだろうか…
…確かに、そういうところがあるかもしれない…
いや、確かにある。
心の奥底では、
自分は、会社でうまくいくはずがない。と思っている。
仕事の割に、多くもらいすぎている。
自分には、価値がない。
価値がない人間が、給料を沢山もらっては、
他の自分より給料の低い人に申し訳がない。
自分だけ、早く帰ってはいけない。
現場の作業者が残っているのに、自分だけ先に帰ってはいけない。
常に申し訳ない。申し訳ない。と思っている。
そんな心の状態だから
不幸な状態の方が居心地いいのだろう。
また、不幸な状態を作り出して、文句を言える方が、
精神的に楽なのかもしれない。
罪悪感があるため、幸せになっては、いけない。と思っている。
他人よりも、優越な状態は、居心地悪い。
何か言われても仕方がない。
幸せな状態だと、孫悟空の頭の輪が、締め付けて来て
居てもたってもいられなくなるのかも…。
結局、自作自演というこだった。
今後は、居てもたってもいられなくなった時がチャンス
その時の心の動きを、今後は、見つめて見ようと思う。
そういう人が、自分の中にもいるということ、
その人は私ではないけれど、
私の生活に影響を及ぼしている。
今後は、逃げ出さずに、その起きてきた感情を
見つめることで、エネルギーを与え、
昇華させていきたい。
それでは今日は、この辺で
また明日お会いしましょう。
死ぬ準備をしているか?…
月1・2回、定期的に小嶋先生に
いわゆる人生相談ではないが
生きていくうえで、起きてくる問題に対して
どう対処していくか…
…いかに生きるべきか?
などの相談に伺っている
これまでの相談の中で、
小嶋先生の信条についての言葉を
今日、改めて思い出した。
小嶋先生は、毎日生活している中で
自分は死ぬ準備をしている。と言っていた。
悔いのない人生を送って、いつ死んでも悔いの残らない
人生にするために、毎日、準備をしているのだと…
そして、準備が整って、死ぬときに、最後の一歩を踏み切って
人生を卒業する。
その時には、準備してきたので、何の悔いも残さずに
死んでいくことができる。
準備していなければ、死ぬときに後悔が残るだろう
あと一歩で踏み切って死ぬことができない。
千歩残っていれば、千歩を一気に歩き切ることができない。
その時は、漠然と聞いていて、ピンと来なかったが、
賢者テラさんの2015年11月22日 00時00分00秒のブログ
『革命のススメ』を読んでいて、
違う話題ではあったが、次の文章を読んだときに
小嶋先生の信条を思い出して急に焦りを感じた。
月1・2回、定期的に小嶋先生に
いわゆる人生相談ではないが
生きていくうえで、起きてくる問題に対して
どう対処していくか…
…いかに生きるべきか?
などの相談に伺っている
これまでの相談の中で、
小嶋先生の信条についての言葉を
今日、改めて思い出した。
小嶋先生は、毎日生活している中で
自分は死ぬ準備をしている。と言っていた。
悔いのない人生を送って、いつ死んでも悔いの残らない
人生にするために、毎日、準備をしているのだと…
そして、準備が整って、死ぬときに、最後の一歩を踏み切って
人生を卒業する。
その時には、準備してきたので、何の悔いも残さずに
死んでいくことができる。
準備していなければ、死ぬときに後悔が残るだろう
あと一歩で踏み切って死ぬことができない。
千歩残っていれば、千歩を一気に歩き切ることができない。
その時は、漠然と聞いていて、ピンと来なかったが、
賢者テラさんの2015年11月22日 00時00分00秒のブログ
『革命のススメ』を読んでいて、
違う話題ではあったが、次の文章を読んだときに
小嶋先生の信条を思い出して急に焦りを感じた。
『例えば、あなたは小学生で、夏休みの宿題のドリルをなまけ、溜めまくっていたとする。
8月29日当たりに反省し、心を入れ替えて、「よっしゃ、頑張ろう!」 と思ったとする。
でも、すでにあなたはずいぶん怠けた分のツケがある。たった3日程度で、膨大な分量をこなす必要がある。まだ子どもで、徹夜など連日できる体にすらなっていないので、物理的に間に合わないだろう。
そう、そうだ。
準備をしていなければ、間に合わなくなる。
手遅れになってしまう。
もし、一週間後命が尽きるとすれば、悔いが残らない人生だったといえるか?
もしかしたら、明日、交通事故にあって、死ぬかもしれない。
そうなった時に、この世でやってみたいことをしてきたか。
(…中略…)
悠長なことを言っては困る。 今からやりなさい。』
悠長なことを言っては困る。 今からやりなさい。』
そう、そうだ。
準備をしていなければ、間に合わなくなる。
手遅れになってしまう。
もし、一週間後命が尽きるとすれば、悔いが残らない人生だったといえるか?
もしかしたら、明日、交通事故にあって、死ぬかもしれない。
そうなった時に、この世でやってみたいことをしてきたか。
何をしておけば良かったのか。
今から何をするか?
夏休みの宿題じゃないけれど。前日になって慌てて、やり始めても間に合わない。
人生で、私が本当にやりたいことは何か。
何に命をかけるのか?
熱く熱く命をかけられる人生を送りたい。
今はそうなっているか?
なっていない。
打ち込めるモノを探したい。打ち込めるモノに打ち込みたい。
まずは、書き出してみよう。
お金儲けか?否人生を熱く生きれる何かが、あるはずだ。
それでは、今日はこの辺で、
また、明日お会いしましょう。
今から何をするか?
夏休みの宿題じゃないけれど。前日になって慌てて、やり始めても間に合わない。
人生で、私が本当にやりたいことは何か。
何に命をかけるのか?
熱く熱く命をかけられる人生を送りたい。
今はそうなっているか?
なっていない。
打ち込めるモノを探したい。打ち込めるモノに打ち込みたい。
まずは、書き出してみよう。
お金儲けか?否人生を熱く生きれる何かが、あるはずだ。
それでは、今日はこの辺で、
また、明日お会いしましょう。
賢者テラさんの数日前のブログに
映画『セッション』の話題があった。
早速、昨日DVDをレンタルして鑑賞した。
映画の感想…というよりも、
映画から受けた、印象を以下に記述してみた。
何が人生の目的だ?
熱く熱く、高みを目指して
生きることか?
仲良しクラブのぬるま湯か?
至高は、そこにはない。
至高を求めるものは、
誰から何と言われようと動じない、
不動の心が必要だ
…というよりも、
高みを目指すと必然的に備わって
来るものなのかもしれない。
ぬるま湯の中で、死にたいのか。
至高を見てから、死にたいのか。
しかし、至高は限りがない高みである。
それを見ることは、できないかもしれない。
いずれは、すべてを捨てて、死ぬ人生である。
ぬるま湯の人生も
至高を探求する人生も
人生の価値は、どちらも大して変わらない。
ただ、趣味の問題だ!
どちらがやりたいか、
どちらが好きかということだ。
ただ、それだけ…
ただ、そうであるだけ…
今日はこの辺で
それでは、また明日お会いしましょう。
PS
この映画の主人公や師の人生は、
自分の中から湧きだしてくる欲求のままに
100%生きている人たちである。
わたしは、もう一人、現実に100%の人を知っている。
伊東聖鎬セイコウ先生である。
私も、100%に近づいていきたい。
しかし、近づこうとすると、恐怖が、湧いてくる。
これからは、恐怖とも向き合っていきたい。
映画『セッション』の話題があった。
早速、昨日DVDをレンタルして鑑賞した。
映画の感想…というよりも、
映画から受けた、印象を以下に記述してみた。
何が人生の目的だ?
熱く熱く、高みを目指して
生きることか?
仲良しクラブのぬるま湯か?
至高は、そこにはない。
至高を求めるものは、
誰から何と言われようと動じない、
不動の心が必要だ
…というよりも、
高みを目指すと必然的に備わって
来るものなのかもしれない。
ぬるま湯の中で、死にたいのか。
至高を見てから、死にたいのか。
しかし、至高は限りがない高みである。
それを見ることは、できないかもしれない。
いずれは、すべてを捨てて、死ぬ人生である。
ぬるま湯の人生も
至高を探求する人生も
人生の価値は、どちらも大して変わらない。
ただ、趣味の問題だ!
どちらがやりたいか、
どちらが好きかということだ。
ただ、それだけ…
ただ、そうであるだけ…
今日はこの辺で
それでは、また明日お会いしましょう。
PS
この映画の主人公や師の人生は、
自分の中から湧きだしてくる欲求のままに
100%生きている人たちである。
わたしは、もう一人、現実に100%の人を知っている。
伊東聖鎬セイコウ先生である。
私も、100%に近づいていきたい。
しかし、近づこうとすると、恐怖が、湧いてくる。
これからは、恐怖とも向き合っていきたい。
昔読んだ本に、
その人の真の価値(将来の成功している姿)を見込んだうえで、
お前の実力はそんなものではない、やればできるはずだ
と思って、厳しく指導する
…いわゆる…『信じる教育』…と、
こいつは、本当にダメな奴だと思って、怒りに任せ、
相手のダメさ加減を指摘する。
…言ってみれば、『相手を信じていない指導』
(指導とはいわず、罵倒というべきか)…
をするのとでは、
『信じる教育』が、その人の成長にとって有用である。
という、ことが書いてあった。
なるほど、そうかもしれない、指導する場合は、
『信じる教育』で相手の真相を観(かん)じて、拝(おが)み出す
ように心がけよう。…と思っていた。
つい先ほどまで、そう思っていて、
そうだ、今日は、このテーマに基づいてブログを書こうと決め
自分の中で、何度も何度も、反芻してみた。
反芻しているうちに
…果たして、本当にそうだろうか…
という疑問がわいてきた?
話を美化するには『信じる教育』が、良いように思われる。
しかし、である。
こいつはダメだ、使い物にならん、と言って、
散々、罵倒された人が、見違えるほどの、
大天才を発揮する場合もあるかもしれない。し、
罵倒されたがために、その道をあきらめてしまう人と
もいるかもしれない。
可能性としては、相手によって、半々、
二通りあるはずだ。と思えてきた。
そう考え直したとき、
あぁ、どっちでもよかったんだ。と思え。
と同時に、
今までは、
子供のダメさ加減を目の当たりにしたとき、
なんで、そんなこともできないのか、と怒りが湧いて来て
つい、相手を罵倒するような言葉を吐いてしまった時に
こんなことでは、真の教育『信じる教育』ができないし、
子供の成長にとっても良いわけがない。
と、自責の念を抱きながら反省をしていたこと…
を思い出し、それも、余計なことであった。と気が付いた。
よく、自分を責めないで、大切に扱いなさい
ということが書いてある記事を目にする。
自分を責めるような、こんな思いは、必要ですか?
必要でないものは、捨ててしまいなさい。
ということじゃないか。と思えてきた。
また、この余計なことを考えているなと
感じている、もう一人の自分がいると考えたとき。
余計なことを考えているのは、もう一人の自分とは分離した
存在であるということが分かった…
ということは、余計なことを考えてしまっている自分、
というのは他人であり、『他人の考え』である。
と思えるようになった。
そして、こうしてブログを書いている自分は、
さらに、別の、存在であり、
今は、自分の中に、何人もの自分がいると感じる。
いずれにしても、自分を責めるための
材料として、苦しい考え方を、今までは、
ずいぶん受け入れてきた。
そろそろ、それらの苦しい考え方を外していく時期だと思う。
これからは、自分を責める、苦しい考え方をやめていこうと思う。
それでは今日は、この辺で
また明日お会いしましょう。
PS人に対する時、ある程度の負荷をかけてやった方が、
いずれにしても、相手次第で2通りの可能性がある。
その時々で、どちらが、その時に、自分にとって
心地よいか、自分を責めない考え方であろうか?…
心地よい考え方を受け入れていきたい。
今日は曇りだ。
晴れてさわやかな雰囲気の昨日の気分と明らかに違う。
沈んでいる感じなのだ。
どこで、晴れた日は気分がいい。
曇って湿度が高いと気分が悪いと決めてしまったのか。
わたしは、いつの間にか、確実にその法則を受け入れてしまっている。
気が重い感じが、朝からぬぐいきれない。
youtubeでマキシム・ヴェンゲーロフというバイオリニストが、一般の少女を指導している映像を見た。
楽しい気分は、口角を上げて演奏しなさいという指導をしていた。
(…だと思う、英語だったから、表情だけからしか読み取れなかったが…)
ほらね。楽しい雰囲気でしょ!
そう、その通り!
という感じで、指導していた。
このyoutubeの23分頃から
楽しい雰囲気の感情をバイオリンの音に込めるのに、
口角を上げて~、
ということをやっていたことを思い出した。
途端に、楽しい軽やかな雰囲気になっていた。
演奏家も、まるで、役者のようだった。
その笑顔が、音に表現され、
その笑顔を帯びた音が 聴衆にも伝播しているようだった。
そうだ、これだ!
曇って、湿度も高く、重い雰囲気の時に 今まで下がっていた口角を、
ちょっと、引き上げてみた。
確かに、それだけで気分が、陽気な方向に変わるようだった。
いつも、口角が下がっている状況を容認していたが、
これからは、口角をあげてみることにしよう。
…そうすると、とどうなるか。
実験してみたいと思う。
これもブログと同じように100日続けてみたい。
実験だ。
…果たして、どんな結果になるだろうか。
今日は、この辺で
また明日お会いしましょう。
晴れてさわやかな雰囲気の昨日の気分と明らかに違う。
沈んでいる感じなのだ。
どこで、晴れた日は気分がいい。
曇って湿度が高いと気分が悪いと決めてしまったのか。
わたしは、いつの間にか、確実にその法則を受け入れてしまっている。
気が重い感じが、朝からぬぐいきれない。
youtubeでマキシム・ヴェンゲーロフというバイオリニストが、一般の少女を指導している映像を見た。
楽しい気分は、口角を上げて演奏しなさいという指導をしていた。
(…だと思う、英語だったから、表情だけからしか読み取れなかったが…)
ほらね。楽しい雰囲気でしょ!
そう、その通り!
という感じで、指導していた。
このyoutubeの23分頃から
楽しい雰囲気の感情をバイオリンの音に込めるのに、
口角を上げて~、
ということをやっていたことを思い出した。
途端に、楽しい軽やかな雰囲気になっていた。
演奏家も、まるで、役者のようだった。
その笑顔が、音に表現され、
その笑顔を帯びた音が 聴衆にも伝播しているようだった。
そうだ、これだ!
曇って、湿度も高く、重い雰囲気の時に 今まで下がっていた口角を、
ちょっと、引き上げてみた。
確かに、それだけで気分が、陽気な方向に変わるようだった。
いつも、口角が下がっている状況を容認していたが、
これからは、口角をあげてみることにしよう。
…そうすると、とどうなるか。
実験してみたいと思う。
これもブログと同じように100日続けてみたい。
実験だ。
…果たして、どんな結果になるだろうか。
今日は、この辺で
また明日お会いしましょう。
迷いがないというのは、ある意味においては、強いことであろうか。
ある痴呆の方が布団の表面を撫でながら、俺は仕事してるんだ…一見すると、何か遊んでいるように見えるしぐさだが、本人は、大まじめで仕事をしていると言いはる。
痴呆の方は、やむを得ないとしても…
昔、自分も同じようなことを言ったことを思い出した。家内に、調子が悪いから、早く帰ってきてほしい。と頼まれているのに、仕事があるから無理と断ったことや、
夏休みに子どもたちがいると手がかかって大変だから、早く帰ってきてほしいと頼まれても、無理だと断ったこと
などを思い出した。
痴呆の方の話を聞いた後に、自分の過去を振り返って…
改めて仕事とは何かと考えてしまう。
好きでもないことをして、金を貰う為にやってるのが仕事なのだろうか。
…そして、仕事をやっていれば、偉いみたいな思い込みもあった。
と思う。
楽しいことをやっていて、何のこだわりもない人は、ただやっていることを楽しんでいて、外から見ても、いかにも生き生きと楽しそうに見えるのに…
仕事をしているんだ。…という人は、なぜ、楽しそうに見えないのだろうか。
仕事があるからなどと、何の為に勢いをつけて言う必要があるのか。
仕事をしているんだ…と、一見、迷いがないように見えるが、わざわざ、勢いをつけて言わなければならないというのはどう言う訳か…
強く言うことで、恐れを覆い隠している状態なのではないか…
恐れ、おそれ、おそれ…
それは、金が無いと生きていけないという恐れからきている。
恐れがない状態が、以下の聖書の言葉であろうと…
恐れは、自然と立ち上がり、いつしか、それと一体になって、自分ではどうしようもなくなってしまう。苦しくて、そこから逃げ出すことを選択してきた。
しかし、今度、その恐れが、立ち上がってきたときには…
その恐れが、どこから立ち上がってきたものなのか、身体のどの辺りに、どのように、どんな大きさで、どんな形に感じるのか…
見つめていきたいと思う。
いつしか、消え去ってしまう、その感覚を十分に感じてみたいと思う。
今度は、逃げ出さないように…
今日は、この辺りで
また、明日お会いしましょう。
聖書の言葉(マタイ伝第6章25-34)
「我なんぢらに告ぐ、何(なに)を食(くら)ひ、何を飲まんと生命(いのち)のことを思ひ煩(わずら)ひ、何を著(き)んと体のことを思ひ煩ふな。生命(いのち)は糧(かて)にまさり、体は衣(ころも)に勝(まさ)るならずや。空の鳥を見よ、播(ま)かず、刈(か)らず、倉に収めず、然(しか)るに汝らの天の父は、これを養ひたまふ。汝らは之(これ)よりも遥かに優るる者ならずや。汝らの中(うち)たれか思ひ煩ひて身の長(たけ)一尺を加へ得んや。又なにゆゑ衣(ころも)のことを思ひ煩ふや。野の百合は如何にして育つかを思へ、労(ろう)せず、紡(つむ)がざるなり。然(さ)れど我なんぢらに告ぐ、栄華(えいが)を極(きわ)めたるソロモンだに、その服装(よそおい)この花の一つにも及(し)かざりき。今日(きょう)ありて明日(あす)、炉(ろ)に投げ入れらるる野の草をも、神はかく装(よそお)ひ給へば、まして汝らをや、ああ信仰うすき者よ。さらば何を食ひ、何を飲み、何を著(き)んとて思ひ煩ふな。是(これ)みな異邦人(いほうじん)の切に求むる所なり。汝らの天の父は凡(すべ)てこれらの物の汝らに必要なるを知り給ふなり。まつ神の国と神の義(ただしき)とを求めよ、然(さ)らば凡(すべ)てこれらの物は汝らに加へらるべし。この故に明日(あす)のことを思ひ煩ふな、明日は明日みづから思ひ煩はん。一日の苦労は一日にて足れり。」
ある痴呆の方が布団の表面を撫でながら、俺は仕事してるんだ…一見すると、何か遊んでいるように見えるしぐさだが、本人は、大まじめで仕事をしていると言いはる。
痴呆の方は、やむを得ないとしても…
昔、自分も同じようなことを言ったことを思い出した。家内に、調子が悪いから、早く帰ってきてほしい。と頼まれているのに、仕事があるから無理と断ったことや、
夏休みに子どもたちがいると手がかかって大変だから、早く帰ってきてほしいと頼まれても、無理だと断ったこと
などを思い出した。
痴呆の方の話を聞いた後に、自分の過去を振り返って…
改めて仕事とは何かと考えてしまう。
好きでもないことをして、金を貰う為にやってるのが仕事なのだろうか。
…そして、仕事をやっていれば、偉いみたいな思い込みもあった。
と思う。
楽しいことをやっていて、何のこだわりもない人は、ただやっていることを楽しんでいて、外から見ても、いかにも生き生きと楽しそうに見えるのに…
仕事をしているんだ。…という人は、なぜ、楽しそうに見えないのだろうか。
仕事があるからなどと、何の為に勢いをつけて言う必要があるのか。
仕事をしているんだ…と、一見、迷いがないように見えるが、わざわざ、勢いをつけて言わなければならないというのはどう言う訳か…
強く言うことで、恐れを覆い隠している状態なのではないか…
恐れ、おそれ、おそれ…
それは、金が無いと生きていけないという恐れからきている。
恐れがない状態が、以下の聖書の言葉であろうと…
恐れは、自然と立ち上がり、いつしか、それと一体になって、自分ではどうしようもなくなってしまう。苦しくて、そこから逃げ出すことを選択してきた。
しかし、今度、その恐れが、立ち上がってきたときには…
その恐れが、どこから立ち上がってきたものなのか、身体のどの辺りに、どのように、どんな大きさで、どんな形に感じるのか…
見つめていきたいと思う。
いつしか、消え去ってしまう、その感覚を十分に感じてみたいと思う。
今度は、逃げ出さないように…
今日は、この辺りで
また、明日お会いしましょう。
聖書の言葉(マタイ伝第6章25-34)
「我なんぢらに告ぐ、何(なに)を食(くら)ひ、何を飲まんと生命(いのち)のことを思ひ煩(わずら)ひ、何を著(き)んと体のことを思ひ煩ふな。生命(いのち)は糧(かて)にまさり、体は衣(ころも)に勝(まさ)るならずや。空の鳥を見よ、播(ま)かず、刈(か)らず、倉に収めず、然(しか)るに汝らの天の父は、これを養ひたまふ。汝らは之(これ)よりも遥かに優るる者ならずや。汝らの中(うち)たれか思ひ煩ひて身の長(たけ)一尺を加へ得んや。又なにゆゑ衣(ころも)のことを思ひ煩ふや。野の百合は如何にして育つかを思へ、労(ろう)せず、紡(つむ)がざるなり。然(さ)れど我なんぢらに告ぐ、栄華(えいが)を極(きわ)めたるソロモンだに、その服装(よそおい)この花の一つにも及(し)かざりき。今日(きょう)ありて明日(あす)、炉(ろ)に投げ入れらるる野の草をも、神はかく装(よそお)ひ給へば、まして汝らをや、ああ信仰うすき者よ。さらば何を食ひ、何を飲み、何を著(き)んとて思ひ煩ふな。是(これ)みな異邦人(いほうじん)の切に求むる所なり。汝らの天の父は凡(すべ)てこれらの物の汝らに必要なるを知り給ふなり。まつ神の国と神の義(ただしき)とを求めよ、然(さ)らば凡(すべ)てこれらの物は汝らに加へらるべし。この故に明日(あす)のことを思ひ煩ふな、明日は明日みづから思ひ煩はん。一日の苦労は一日にて足れり。」