これまで、妻に対する言動を振り返れば、失礼の数々、少し…ではなく、大分反省する必要がある。
最近では、妻と私の関係を、共依存だと妻本人に口走ってしまった。
共依存…考えてみれば、わたしが、依存しているのだった。
妻がわたしから、離れられないように仕向けて、依存しているのだった。
依存の主体は、わたしだ。
私が手放せば、依存はなくなる。
手放せ、大丈夫だから、痛みがあれば感じればいい。
何も、命まで取りはしない。
なんと大げさ…
だが、今までの私は、そこにじっとしていることすらできずに、いつも、逃げてきたのだった。
今度こそ、そこにじっと、留まって…痛む心を抱きしめればいい。
それが、今私が一番やらなければならないこと。
そこに留まることが、わたしというあなたに、与えられた使命。
共依存には主体、と客体があるように見えるが、実はそれは、主体も客体も一体ということで、私自身で完結できる…
依存は、どこから発生するのか、よくよく考えてみると…それは、自分には力がない。という恐れから発生している。
勘違いだ。『恐れ』は勘違いなのだ。
だけど、出てくる。出てくる。…出てきた恐れは、じっと、そのままでいて、見つめることで、浄化していくしかない。
この世は、どこまでできるかの挑戦ゲーム、急激にやるのではなくって、小林正観さんのだんだん作戦で行けるところまで行けば
いいのじゃないの。
いきなり、私には、無限の力があるとは思えないでしょ。そこがポイント、恐れをどこまで払拭できるか。
依存しないとはどういうことか、どこまで出来れば依存していないといえるのか、
伊東聖鎬先生は、どうしているのか?
それとも、加賀田晃先生のように、考え方だけ…の問題か。
(けっして、考え方だけといえるような簡単なことではないのだが…といって、分かってしまえば、いともたやすいことだろうけ
れど…)
加賀田先生は、営業は、『買ってもらう、ではなく。売ってあげる。』と仰った。
売ってあげるのなら、売ってあげないのも、主体の自由になるということ…
でも、自分が客体とおもっていても、自由になることはできる。
自分が主体となって、すべての行動を起こすことだ。私には、無限の可能性がある…
自立の一歩を踏み出そう…
親への依存、妻への依存、子供への依存、小嶋先生へ依存、伊東先生への依存、会社への依存、全て、私が客体であり、主体である。
だから、自ら断ち切ることができる…
妻への依存の断ち切り方は、妻の自立を支援する。…というと、
では、自立とは何か。依存とは何か。ということになる。
考え方だけの問題なのか、
加賀田晃先生の方法が参考になるのか。
買ってもらうは客体、売ってあげるは、主体。
自立を助けてあげる。は主体。
ご飯を作ってもらうは客体。
自分には、十分な力があって、ご飯を作ることだってできて、それでも、ある時には作らせてあげる。という主体。
同じことをするにも、常に主体として行動することが、自立ではないか。それには、行動が伴ってこそなのだが…
夫婦は共同作業、互いに助け合って…なにそれ…やっぱり、頼ってるじゃないの…
共同作業を主体的にする方法だってあるはずだ。
喜んでもらえるからやる=客体。
喜ばせたい=客体。
ただ単に、楽しみたい=主体。
共同でやることで、人生を楽しみたい。主体。
金を稼ぐ…も共同で楽しみたい。
妻と金儲けでも始めちゃいますか~
それでは、今日はこの辺で
また明日お会いしましょう
