門松 39
年われを過ぎつつしばしとどまれり 森 澄雄
ぼくの周辺にも、何人かの賭け事にのめりこんでいる人がいる
が、人は何故賭け事をするのであろうか。もちろん、面白いからだ
ろうが、じゃあ、何故面白いのであろうか。勝つことが嬉しいのであ
る。これは当たり前だが、なぜ嬉しいのだろうか。それは、負けて、
負けて、負けて、悔しい思いをして所に、たまさか勝つからではあ
るまいか。逆に、勝って、勝って、勝って、負ける、ぐらいのペース
では、ゲームとしての面白さは得られないのではないのだろうか。
賭け事も遊戯であるからして、飽きささないようにできているはず
である。しかも主催者は、営利であるからして、かならず一定の利
益を上げなければなるまい。この条件を満たすには、たまには客
に儲けささねばうんざりして来なくなるのは必定、だから長く賭け
事をしている人は必ず負けているはずである。そうでないとギャン
ブルは成立しない。そして、お金が絡むということが余計に面白く
している要因である。お金を使って負けてっ悔しい。取り返しに行く。
また負けた。もっと悔しい。こんどこそ取り替えそう。勝った。万歳!
こうして勝ち負けがあり、しかもお金がからむのであるからして、
時間つぶしとしてこれほど面白いものはないだろう。負けてお金を
失って悔しい思いをし、それを取り返そうとして又行く。そしてたま
には勝つ。結局、長い眼で見れば、ずるずるとお金を失っていくの
である。まぁ、お金を貯めることが人生の目的でないことは同意す
るが、ほどほどにと言うことだ。