野良猫 860
たそがれや萩の見えぎは一夜庵 森 澄雄
不幸な人とは、自分が幸福であることがわからない人のこてある。
この言葉は、ロシアの文豪、ドストエフスキーの言葉である。
では、われわれは幸福なのであろうか、と問われて、明快な回答
が言える人は、少数にちがいない。その人々は、現在恋愛をしてい
るか、もしくは宝籤があたったばかりの人であろう。多くの人が、自分
が幸福なのか、あるいは不幸なのか判然とせず、首を傾げるばかり
であろう。
幸福論のアランは、幸福とは気分がいいと言うことである、と述べ
ているが、気分がいいとはどういうことなのであろうか。例えば、欲望
を満たせば気分がいいのであろう。反対に、欲望を満たせなければ
気分が悪いのである。しかし欲望は、つぎつぎと生まれてきりがない。
毎日、テレビのコマーシャルで、大衆の欲望を煽る。それらを次々に
買っていれば破産は必定である。
物質的欲望は、エスカレートしていくと限りが無い。どかでブレーキ
をかけないと、留まることを知らなくなる。われわれは、家も、車も、テ
レビ、冷蔵庫、洗濯機、エアコン、電子レンジ、オーデオ、パソコンな
ど、世界でも稀な物質的欲望を充足している。これでも不満なのであ
ろうか。
あとは、精神の気分がいいとはなにか、である。例えば、女性に愛さ
れたり、誰かに尊敬を受けたりすれば気分がいい、反対に、バカにさ
れたり、無視されたりすれば気分が悪い。でも社会生活をしている限り、
気分が悪くなることはたびたびある。これは気にしないことである。