_ 春と修羅 311
ぼくの子供の頃の最大の娯楽といえば映画だった。村
には必ず一軒映画館があって、夕方になるとかまびすしい
歌謡曲が誘うように流れてきた。今でも鮮明に記憶にある
のは美空ひばりのお祭りマンボである。ぼくは風呂を焚き
ながら、妙に最後の節が物悲し思ったものであった。
映画などめったに観れなかった。村の秋祭りとか、徳島
の伯母のところへ夏休みとかで行った折に、小学生の頃は
東映のちゃんばら、中学生になるとOSグランドという映画館
に洋画を見に行くのが最大の楽しみだった。その頃、予告編
というのがあって、次回に放映される映画の短い宣伝がある
のだが、よくウイリアム・ホールデンという名がたびたび聞か
されたが、日本の映画俳優より名の響きがカッコイイので、
子供心に外国映画のほうが上なんだと誤解をした。なにしろ
小津安二郎も、成瀬巳喜男も、溝口健二も、ましてや黒澤明
さえまだ観ていないのだからいたし方はない。
その頃と比較して、娯楽は格段に増えているが、あの頃の
映画に対する熱狂を凌ぐものはない。各人がそれぞれ、自己
の娯楽をたのしむだけで、国民がこぞってたのしむ娯楽はない。