水上哲夫のブログ

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あちこちで話したことなどを書き綴っていきます。おんなじ話を繰り返さないように・・・

2月の衆議院議員総選挙は、自民党の圧勝に終わった。

 

これについて、わたしは中国に対する悪感情が背景にあると感じている。これはどちらかといえば国民より政府に対する感情がおおきいだろう。

 

まず、自民党総裁選で高市さんは国会議員票で劣勢であったが、党員票で四割の支持を得ていた。この流れを受けて決選投票で高市さんが勝利。この背景に自民党は中国に遠慮しすぎるという庶民感覚があったのではないか。このことが結局総選挙で自民党勝利に結びついていく。

 

総選挙では、高市さんの人気が高く、自民党のそれはあまり高くなかった。しかし、アンチ中国の流れは自民党の圧倒的な勝利を導いた。

 

もう一つ、現役世代はお年寄りの上から目線の偉そうな物言いを好まない。中国政府も、古いリベラル政治家もそしてオールドマスコミも、そういう雰囲気に満ちていた。

 

 

 

先日、東白川ロータリークラブの50周年記念の公演会があった。2020年東京パラリンピックで国家を歌った全盲のシンガー。佐藤ひらりさんの演奏会だった。

その時披露された楽曲の中で「ほめられてのびる子行進曲」というのが印象に残った。「ほめて、ほめて、わたしをほめて・・・」から始まる楽しい曲だ。

 

そういえば、昔は、ほめると図に乗るからあんまり褒めてはいけない。とよく言われた。人をほめてその才能を伸ばそうというのは最近の傾向だ。わたしが読んだ本では、デールカーネギーの「人を動かす」が人をほめることの効用を説いている。この本はセールスマンのバイブルといわれ聖書の次に売れているという。

 

ほめるといっても、おべんちゃらになってもこまるし。という人も多い。デールカーネギーによれば、その人のいいところを見つけたら、躊躇せずその場で正直に言うことが大事だという。嘘はいけない。無理に持ち上げる必要もない。

昔、父親から聞いた話。

父親は、家を5回建てた人で、昔は自分でトンカチをふるって家を作ったという話を聞いたことがある。新しい家ができたころ夕食の団欒でお酒を飲みながら、私にこう言った。何でも地元のどこかの旦那様に言われた話だという。

 

人は、立っていれば半畳、寝ても一畳あれば生活はできる。法事や結婚式で人が集まるようなときは、旅館やホテルを利用すればいい。家を必要以上に立派にしたり大きくしたりすることを考えるな。

 

ということだった。私のいる町は昔から商業が盛んで「生き馬の目を抜く」といわれた。商店街は、毎年お店の入れ替わりがあって激しい競争があったいう。そんな場所では、家の立派さに目を奪われると何か大事なことがおろそかになる。質素倹約を心掛け、無駄を省き、状況の変化に目を凝らさないと時代に置いて行かれてしまう。繁華街では常に敗者が生まれては消えていく。

 

北海道で生まれはるか離れた東北の田舎に居を定めた父は、地元の旦那様たちに交じって努力を重ねてきた。心に刻んだ教訓の一つがこのことだったのだろう。

組織というものの形が少しづつ変化してきている。組織に参加していれば、あれをするのが当然。まとまりを強めるための集まりには参加して当たり前。そうして組織が個人の時間を徐々に奪ってきたが、その傾向に変化が表れている。仕事にあまり関係ない作業を渋る人が増えてきた。最近は、若者が会社の飲み会に参加しないという。それは先に述べた変化が背景にある。

 

今回の衆議院選挙では、組織力を誇る二つの大政党がまとまって選挙に立ち向かう。いずれも背後には労働組合と宗教組織がいる。しかし、仕事以外の時間に組合活動をすることが必要なのか。同じ宗派の友人と知らない人に投票を呼び掛けることは大事なのか。と考えると、そのような強制力を行使していけば行くほど組織は徐々に弱体化していく。

 

影響力を失いつつある組織とネットを中心に徐々に力をつけている個人。その変化の中で今回の選挙は行われている。組織力というものの弱体化は、選挙結果に注目すると見えてくるかもしれない。

20年以上昔の話。アドホックで初めて海外へ行った。行く先はマレーシア。そのころ、日本では、大臣の失言問題が新聞やテレビをにぎわしていた。マレーシアに着いて現地の新聞を見てみたら、どこにもそんな話は載っていない。日本と海外の関心の違いにとまどった。

 

その後マスコミの評価は大きく変わってきた。そのきっかけになったのは、2024年7月の東京都知事選である。候補者の石丸伸二氏が新聞記者やテレビのコメンテーターに向かって「発言の趣旨がわかっていない」「勉強が足りない」などと批判。マスコミの人たちが答えに窮する画面が広まった。

 

さらに、2024年11月には、兵庫知事の選挙で斎藤元彦さんが再選された。マスコミがこぞってパワハラ知事として批判を強めていたにもかかわらず。背景には、県民がマスコミの批判に違和感を感じ自分の力でネットの情報を調べるようになったことが影響している。マスコミの主張が空回りし始めた。

 

2025年11月岡田議員が台湾有事に関する質問をし、高市首相の回答が中国の反発を招いた。失言を取り上げ批判するマスコミに対し、ネットでは、中国との友好を壊すような質問をした岡田氏への批判が相次いだ。ネットの側に立った人々が増えている。時代は変わった。

 

 

歴史に残る最も古い商人の一人に白圭がいる。

 

司馬遷の「史記」貨殖列伝に載っている白圭(はくけい)は、紀元前4世紀ごろの戦国時代の人で、孟嘗君などと同時代である。

商売で莫大な財産を得たが、その大部分を河川改修に費やしたといわれる。洪水で困っている人たちを救おうとした。普段の生活は質素だったという。彼がどうやって財貨を得たかについて詳しくはわからない。余ったものを仕入れ不足しているところに売った。などと簡単にしか述べられていない。

 

宮城谷昌光さんの小説「孟嘗君」にも孟嘗君の保護者として白圭が登場する。

当時の交易はキャラバン隊を編成しておこなう。価値のあるものを運ぶわけだから当然盗賊に狙われる。襲撃を受けると荷物ばかりか人夫や護衛の兵士まで皆殺しにされることもあった。

彼は運のよい人と呼ばれた。なぜか盗賊に襲われなかったからだ。しかし、実際にはそう単純ではないだろう。全行程の十分な検証。翌日行く街道の安全確認。同行者に盗賊がいないかどうか目を光らせる。そういう細かな配慮が安全な旅の基本にあった、と考えるべきである。大きな成功は細心の注意の上に成り立つのである。

 

福島県での話。昔、高校生だったころ、こんな小話があった。

 

山村で生まれた子供が父親に連れられ、生まれて初めて猪苗代湖に来た。息子が言った。

「おとうちゃん猪苗代湖っておっきいない。」

父親がほほ笑んでいる。子供は続けた。

「海っちゅうのはこの三倍くらいあんのかい。」

父親が答えていった。

「そんなはずあっか、この十倍はあるわい。」

 

似たような話は、奈良県でもあったらしい。司馬遼太郎さんの随筆で、こどもたちが近くにある池と海の広さを比べてどっちが大きいか論争になったという。

 

人は、全く経験のないことには想像が働かないということがある。新しいことに挑戦することによって知見を広げていくことはやはり大事だと思う。

 

もうひとつ。場合によっては、わからないことを「わからない」と答える勇気も本当は大事なのかもしれない。

 

 

 

1980年ころ、大阪の西中島南方というところに住んでいた。交通の便利なところで、少し北へ歩けば新大阪だった。西を地下鉄御堂筋線が高架で通っていて、そのわきに日清食品の本社ビルが建っていたのを覚えている。南に阪急の西中島南方駅があった。

 

そこを拠点にして東海自然歩道をよく歩いた。阪急電車の駅ごとに解説しているガイドブックが配られていた。意外だが道は閑散としている。ある時など私の前を歩く3~4人の家族連れから中年の女性が「もーだめ!!もう歩けない」と道の中心に寝転がってしまった。ほかには誰もいなかったので、わたしとばっちり目が合ってしまい、きまり悪そうにしていた。

 

簡単なガイドブックだけでは道を間違えそうだが以外にそんなことはない。道を歩いて、疲れたなと思うと寺院が現れ、のどが渇いたころには水飲み場が現れる。この辺りには、四股を踏むと「ポンポン」と音がするという「ポンポン山」や、秀吉と光秀が戦った山崎の合戦の舞台、天王山もある。ふもとには淀君のいた淀城もある。サントリーの山崎工場もこの辺だ。歴史のある場所でありたくさんの人が行き交ったに違いない。だからこそ歩く人に寄り添った道ができたのではないだろうか。

Youtubeを見ていたら、日本人と結婚したベトナム人の奥さんがおでんを作っていた。

 

材料を買ってくる。大根は、1.5センチ程度の輪切りにし、面を取り、隠し包丁を入れる。ほかの材料と手順を考えながら煮る。アルバイトで居酒屋で働いていた経験が役に立った。といっていた。

 

大根の切り方はそれでいいだろう。もっとも大根にもいろいろな種類がある。辛みのあるもの、煮えやすいもの、干し大根なんかを使うことがあるかもしれない。作業の手順が変わり、新たな工夫が必要になる場合もあるだろう。それはその場その場で考えていくことになる。

 

おけいこごとに「守・破・離」という言葉がある。先生の言うことをきちんと守る「守」の時期、そこから離れていろいろなことを試してみる「破」の時期、そして自由にふるまっているように見えてもやることが理にかなっている「離」の時期。

 

大根を決められた手順で処理できれば満点だ、だが、さらに良いものを目指そうとすればそこに工夫がいる。日本人のメンタリティの中に「守・破・離」の精神がある。そのことが今の日本の技術水準を生んでいるような気がする。

かつて、AIを鍛えて東大に合格できないかというプロジェクト「東ロボくん」を主宰した新井紀子さんという人がいる。プロジェクトを進めていく中で、現代の中高生が論理的な設問を理解できていないことに気づき、「AI vs.教科書が読めない子どもたち」を執筆する。

 

アレクサンドラ構文は、その過程で作成した問題だが、公立中学生の38%、進学校の高校生の65%しか正解できなかった。問題はこうである。

 

Alexは男性にも女性にも使われる名前で、女性の名Alexandraの愛称であるが、男性の名Alexanderの愛称でもある。Alexandraの愛称は何か。

 

答えは、Alexだが、女性と答えた回答も多かったったという。コンピューターはロジックの塊でできている。AIを使う時にはそのことを理解している必要がある。コンピューターの言うことを理解できなければ何にもならない。結局、使う人がきちんと自分としての立ち位置を理解していることが肝心になる。